志高塾

志高塾について
志高塾とは
代表挨拶
通塾基本情報
アクセス
お問い合わせ
志高塾の教え方
指導方法
志高塾の作文
志高塾の添削
読解問題の教え方
使用教材と進め方
志高塾の教え方
志高く
志同く
採用情報
お知らせ
志高く

2019.04.09Vol.393 大きな絵を描く

 前回、字数が大幅に増えるため触れられなかったことがある。それについてこれから述べていく。「Vol.367 そうそう、そうやんな」の中で、高専で建築を学ぶ学生たちのことを話題にした。彼らからの「就職した方がいいか、大学に編入した方がいいか」という質問に対して、私の友人の建築家は後者を勧めた。早く仕事をすればその分実務能力は身に付く。しかし、それでは単なる御用聞きになってしまう、ということをその理由としていた。現在、クライアントの求める条件を満たした上でプラスαのものを加えられるのは、学生時代に「こんな建物を建てたい。あんな建物を建てたい」とある種自由に発想、夢想したおかげだ、というようなことを語っていたような気がする。
 「理想か現実か」という問いがある。まるで2択のようなイメージを与えるがそうではない。目盛りのついた垂直の軸上に「理想」と「現実」という点がある。それらは最高点と最低点ではない。理想を上回ることもあれば、現実を下回ることもある。まず理想からスタートして、そこに現実を加味すればいい。「加味」としたが、実際には少し減じる方向、つまり下がるイメージである。その反対は、現実を直視し、そこに理想をまぶすことになる。両者を比べた場合、結果的に前者の方が高い位置に来る、というのが私の考えである。ちなみに、これは少しでも高い偏差値の学校を志望校にした方が、結果的に“良い”(ここでの“良い”は単に偏差値が高いことを意味している)ところに行ける、ということを言いたいのではない。
 大学の教育に対して、アカデミックという言葉がよく用いられる。本来「学究的」という意味なのだが、ネガティブな使われ方をすることが多い。それは会社側の論理である。大卒の社員が戦力にならないことを嘆いているのだ。一方で、理系のノーベル賞受賞者は決まって、現在の日本の大学では基礎研究が疎かになり、企業などから研究費の援助を得やすい応用研究ばかりに重きが置かれていることに警鐘を鳴らしている。彼らは「何に役立つかは分からない。でも、何だか面白いからとにかく掘り下げてみた」という経験が、後に生きることを知っているのだ。
 ここまで書いてきたようなことは先週の時点で考えていた。ちょうどそんなときに、日本電産の会長兼社長の永守氏が理事長を務める、京都先端科学大学(旧京都学園大学)の記事を目にした。確か、私財をすべて投げ打ってでも良い大学にする、ということが述べられていた。10年で私学No.1、日本全体では東大、京大に次ぐ大学に育て上げる、という目標も掲げられていたような気がする。これは正に、上記の理想からスタートして落ち着いたところがそこだったのではないか。その大学の卒業生を自分の経営するグループ企業に就職させよう、などというちんけなことは間違いなく考えていない。私が想像するに(こういうときは、大学のHPをある程度読み込んだり、関連記事に目を通したりするものなのだがそれをしていない)ノーベル受賞者の言葉などに接し、「それなら俺が未来の日本のために一肌脱いでやる」というところがスタートだったのではないか。ポジティブな意味でのアカデミックな教育がなされることを期待している。どこか特定の企業だけで役に立つ技術などではなく、汎用性があり、かつ最先端のことを学べる大学になるのではないだろうか。
 さて、そろそろ締めよう。志高塾も目先のことに捉われない教育を志向している。きれいごとだけを並べて今はもちろんのこと、将来にさえ何の役にも立たないようなものを垂れ流していないかを常にチェックする必要がある。もし、我々が真にアカデミックなものを追い求められているのであれば、生徒とたちは将来、他の誰かと比べてではなく、それぞれが満足のいく大きな絵を描けるはずである。

PAGE TOP