
2019.04.16Vol.394 第1外国語
「こんなわけで、今でも私は子供が英語を学ぶことに、偏見かもしれぬが、非常に好意をもっている。子供にはみな英語を学ばせたらどうか。」
本からの引用である。想像を巡らせていただくためにひとまず置いておくが、私がこの意見に賛同した場合、それは志高塾の宣伝材料としてプラスに働くのだろうか。
なお、冒頭のものも前回の文章同様、2週間前のVol.392『「も」こそが価値を生み続ける』に入れようとしていた内容である。京都先端科学大学は第2外国語を廃止する、というようなことを永守氏が述べていたような気がする。多くの日本人にとっての第1外国語は英語である。それすらおぼつかない状態でさらに手を広げるというのは明らかにおかしい。実際、私の第2外国語はドイツ語だったのだが、学生の頃、旅行中にエレベータの中でドイツ人に英語で何人かと問われ、ドイツ語で「日本人です」と答えて少し驚かれたぐらいの記憶しかない。過去の経験が間接的に今の自分に役立っているということはそれなりにあるのだが、それすらも皆無であると断言できる。前回書きそびれてしまったのだが、現在5年生の長男が大学受験をする頃には、京都先端科学大学は公立と私立という違いはあれ、秋田の国際教養大学のように特色がある大学として高い評価を受けている気がする。「予想している」としたが、正確には「期待している」である。一昨日、ガンバ大阪の試合を見に行ったのだが、その前に二男が「今日どっちが勝つと思う?」と聞いてきた。仮にどれだけガンバが弱かったとしても「ガンバが負ける」とは答えない。客観的にはなれないのだ。それと似ている。私は日本電産がM&Aを頻繁に行っているものの手当たり次第ではなく関連する事業に絞っていること、また、吸収した会社の従業員を解雇しない、という永守氏の考え方が好きなのだ。
語学に話を戻す。海外に行く度に自らの貧相な英語力に辟易する。今は、英語でやり取りしているお父さん、という風に子供達には映っているはずだが、そのうちにインチキであることがばれてしまう。長男が中学生になると化けの皮がはがれるだろうから猶予は2年しかない。だからと言って、TOEICなどの勉強をしても仕方がない。スコアを上げたところで、私の生活に直接、間接を問わず効果をもたらしてくれることはほとんど望めないからだ。するとやはり情報と絡めるしかない。というわけで、英語のニュースを見ることを1週間ぐらい前から始めた。今朝であれば、CNNは30分間の番組の間中、ずっとノートルダム大聖堂の火事を扱っていた。海外が何に注目しているかということを知るのは、考えるきっかけを大いに与えてくれるはずである。
さて、冒頭の言葉。W・チャーチルの伝記『わが半生』から引っ張ってきた。つまり、母国語をしっかり学ぶことの大切さを訴えているのである。周囲の優等生はラテン語やギリシャ語の勉強を義務付けられていたが、チャーチルは劣等生であったためそれらは免除され英語に特化していたのだ。後年、演説の天才とまで言われるようになったのだから不思議なものである。本を読んでいてそうなのか、と意外に思ったのだが、1900年前後ではまだ英語が世界共通の言語ではなかったのだ。一時はフランス語がその地位を占めそうになったこともあったらしい。大学生の頃、工学部の中で建築学科だけがなぜか第2外国語はドイツ語かフランス語と決められていて、かつ2回生になっても必修であった。他の学科の生徒は、単位を取りやすいというだけで中国語を選んでいた。それが今では世界の共通言語になるか、とまで言われるようになったのだから不思議なものである。と言うことは、中国語は今では単位が取りやすく、かつ実用的、という位置づけになっているのだろうか。アルバイトの大学生達に聞いて確認してみよう。
チャーチルの言葉には、世界共通語になったからこそ英語をしっかり学ぶ必要がある、という意味も含まれているはずである。英語はツール、の精神で、日常的に英語に触れることで少しでも自分の視野を広げることに役立てたい。