
2026.03.17Vol.727 正攻法が成功法
正攻法が成功法。今回はこういうテーマで行こう、と文章の内容をイメージしたときにパッと浮かんだタイトル。かなりうまく言い表せているのだが、きっと「正攻法」と「成功法」をセットにしたフレーズというのは世の中にそれなりに存在するのだろう。ググっとみようかと思ったのだが、あまりにたくさん出てきても嫌なのでやめておいた。タイトルがこれほどスパッと決まることは中々無いので「他のものに変えよう」という気を起こしたくないからだ。知らぬが仏。
高3の女の子が東大に現役合格した。その彼女の、入試を直前に控えた最後の月間報告で私は次のように書いた。
「入塾のタイミングから高校卒業まで、そのほとんどの添削や丸付けを私が行う生徒は最後になる気がしています。まずは東大に合格してからの話になりますが、その後、どのような道を歩んでいくのかが非常に楽しみです。」
まだ本人と話をしていないが、HPに掲載している「卒業生の声」にも文章を寄せてくれるものだと勝手に思い込んでいる。さて、その彼女、最後まで英語には明らかな課題を抱えていたし、それも含めてまったく持って余裕はなかった。そのような状況でも、高3になるタイミングで大学受験に向けて残り1年は読解問題に完全に切り替える予定にしていたので、作文も並行して進めるために1コマ増やして、2コマ連続で授業をすることを彼女自身が希望した。結果的には、2コマ分の180分ではなく、1.5コマ分の135分(90分読解問題、45分作文)にすることを提案した。ちなみに、小論文試験を受ける可能性はゼロだったので、純粋に「作文のための作文」をするための時間を、大事な時期に取ることを決断したのだ。さすがに受験が近づいた時点で作文は無しにして通常の週1コマに戻した。それが夏休み前だったような気がしたのだが、今調べてみると、9月末まではそれを継続していたのだ。もし、合格できずに、点数開示をしたときに数点差であったことが分かったのなら、本人はどう思っただろうか。期待したような結果が出なかったとき、人はあれやこれやと原因を考えるものである。その一つとして、「受験に直接関係のない作文ではなく、もっと他の教科を勉強しておけば良かった」ということもきっと脳裏をよぎるはずである。しかし、きっとそれをすぐに打ち消して、「もっと早くからきちんと勉強していなかった自分がいけなかったのだ」というようになったはずである。
私は大抵、3冊ぐらいは並行して読み進める。少し前は、モーリー・ロバートソン著『日本、ヤバい。 ~「いいね」と「コスパ」を捨てる新しい生き方のススメ~』と椎名誠著『アイスランド 絶景と幸福の国へ』の2冊がその中に含まれていた。モーリー・ロバートソンは、2004年にイラク日本人人質事件を機に日本で急速に広まった「自己責任論」に否定的な見解を示していた。たとえば、正社員になれず、十分な仕事の経験を積むことなく50歳が近づいている就職氷河期世代に対し、自己責任論で片づけようとしている風潮に警鐘を鳴らしていた。一方で、椎名誠は「自己責任論」という考えが日本に生まれたことを歓迎していた。どのような文脈の中でそれを語っていたのかは忘れてしまったが、それは彼が紀行作家であり、危険と隣り合わせの中でそれだけの覚悟を持って旅をして来たからなのだろう。2人は正反対の立場を取っているようだが、実際はそうではない。モーリー・ロバートソンは、最近になってようやく重い腰を上げようしている政府がもっと早く手を打つべきだったのに、それを就職できなかった人たちの努力が足りないからだという自己責任論で済ませ、然るべきセーフティーネットを張り巡らすという自己責任を果たしてこなかった政府を批判しているのだ。思ったような結果が出なかったとき、それに関わったすべての者が自己責任だと捉えることが健全な姿である。誰かのせいにしないのは、その誰かのことを思いやってではなく、自らが成長して行くために必要な姿勢なのだ。そうすれば、その先で、今度こそはその誰かの、もしくは他の誰かの役に立てる人になれるかもしれない。
冒頭でタイトルについて説明しながら「正攻法」についてきちんと触れずにここまで来た。何か一つの目標に向けて、その他すべてのことを犠牲しなければならないこともあるかもしれない。しかし、受験はそうでない。皆がよく言うように、受験は通過点なのだから。一体、通過点とは何なのか。それは、ここから一段、二段とギアを上げて加速しないといけないよ、ということを教えてくれる目印のようなものである。彼女は、志高塾で受験に直結しないが、将来役立つはずの作文に時間を費やし、学校の行事やそれをすることが決して効率的とは言えない学校の課題にも労を惜しむことなく取り組んできた。それこそが、私の考える正攻法である。「成功法」の成功とは、志望校に合格するというような陳腐なものではない。では、何を持って成功と言えるのだろうか。韻を踏むために「成功法」としたが、「成長法」とする方が正確なのかもしれない。浮き沈みはあるもののある期間で見ると少しずつではあっても確実に成長している。それこそが、成功の一つの形ではないだろうか。
何かしらうまく行かなったときに人のせいにしないのと同様に、うまく行ったときに自分の手柄だと思わないことも同様に大事なことである。中学、高校、大学、どの受験であっても基本的に我々はその一端に関わっているに過ぎない。それゆえ、自分が、自分たちが合格させた、となることはない。ただ、その先も彼らが彼ららしさを失うくことなく紆余曲折を経ながら成長し続けられているとしたら、それは我々の手柄ではないしても、少なからず貢献できたかな、とは思いたい。それぐらいの我がままはきっと許してもらえるはずである。








