志高塾

志高塾について
志高塾とは
代表挨拶
通塾基本情報
アクセス
お問い合わせ
志高塾の教え方
指導方法
志高塾の作文
志高塾の添削
読解問題の教え方
使用教材と進め方
志高く
志同く
お知らせ
志高く

2021.05.25Vol.495 その子の話をしていますか?

 半年に1回の面談をほぼ終えた。面談の回数を重ねると、ありがたいことに私のことを理解していただけるようになる。あるお母様などは、私が自分で話したことを忘れることを前提にした上で、「先生は、半年前にこのようにおっしゃっていました」と私のためにその内容を復唱した上で、それを踏まえてどのように子供の教育と向き合っていたかを報告して下さった。そういうものに甘えてはいけないのだが、改善するためには、思い付きで話すことを止めるか、話しながらメモを取るかのいずれかを実行する必要がある。いずれにしても、会話の中のスピード感が無くなる。そうなると、それはもう改善ではなく改悪ではないだろうか。どうするべきか。答えは明白である。
 さて、本題。九州大学を第一志望にしている高3の男の子がいる。ちなみに、大学受験生は志高塾全体で一度も5人を超えたことはないのだが、今年は10人以上もいる。来年は例年通り少ないが、再来年以降はコンスタントに10人を超えそうな状況である。小学生からの継続、もしくは中学生でも早いタイミングで入塾してくれる生徒が少なくないため、彼らと長年接することができている。嬉しいことに「週1回志高塾に通うことが、生活の一部になっています」というお言葉をいただいたこともある。できる限り長く通いたい、通わせたいと思っていただきたいし、通って良かった、通わせて良かった、と振り返ってもらえるようなものを生徒たちに与えてあげたい。
 その彼のお母様が、大手予備校のチューターから「九大だけでなく、北大や名大も見ておいた方が良いですよ。問題との相性もありますから」といったようなアドバイスを受けたことを教えて下さった。「それひどいですね」と瞬間的に返した気がする。1週間ほど前のことなのだが、記憶はちゃんと曖昧である。私は大学受験指導のエキスパートでも何でもないが、感覚的におかしいことは分かる。念のためにベネッセの『マナビジョン』というサイトで調べてみた。彼の志望する学部で比較すると、北大の偏差値は九大と同じ、名大に至っては5も上である。まず名大に関して。「偏差値は5も上だけど、問題との相性が良いからそっちの方が合格する確率は高い」という話なんて聞いたことがない。たとえば、2次試験に関して、理系で言えば国語があるかないか、文系で言えば社会が入るか入らないか、入る場合は2科目なのかそれとも1科目で良いのか、などの違いはある。ただ、一般的に、偏差値の高い学校ほど科目数が多くなる。難易度が上がり、科目数が増えてどのように対応しろというのだろうか。次に北大。ウィンタースポーツが好きで北大を選ぶ人はいる。逆に、寒いのが大の苦手と言う人もいる。実際に住んでみたら良かった、ということはないわけではないだろうが、九州に行きたい人に北海道を勧めるというのはいかがなものであろうか。なお、志高塾は高槻の次は京都に出す予定である。その後は関西以外に進出したい。名古屋、首都圏などを候補地とすべきなのだが、個人的には博多に出したい。単純に好きだからである。もし、「札幌の方が生徒集まりやすいです」とアドバイスしてくれる人がいても私にはまったく響かない。
 そんなことよりも、である。そもそも、彼はこのまま行けば九大に合格する確率は1割にも満たない。実力がないからではない。残りの1年弱をきちんと勉強するとは思えないからだ。その私の予想に反して、親であったり私であったり、周りの者が見て「おう、よく頑張ったな」と心底思えれば5割以上の確率で合格できるはずである。そんな状況の彼に、いろいろな学校の問題を解かせてどうするのか、という話なのだ。国立大学の2次試験を解くとなると1日仕事である。傾向を知るためには少なくとも各大学3年分は必要になる。3校との相性を知るために単純計算で9日を費やすことになる。それだけで1か月分の土、日がすべて潰れることになる。さらに、彼は模試を受けても直しをしない。今のままでは、休日を丸1日使って1年分を解いて、ただテストをしただけで勉強をした気分になって終わりである。かく言う私は、高校受験の時も大学受験の時も模試は最小限に留めていた。時間の無駄だからだ。そして、受けたテストの直しだけはきちんとしていた。テスト直しをするということを決めた時点で、自ずと受ける機会は減らさざるを得ない。おおよそ不真面目であったのだが、やると決めたところだけはゆるがせにしなかった。
 こういう話をすると「熱い」とか「情熱がある」と言われることがあるのだが、そんなことはない。単純に、ある生徒の話をしようと思えば、その生徒がどういう性格か、これまでどのような取り組みをしてきたかを踏まえて、その生徒にあった提案をするのが当然である。もし、そうでないのであれば「これから話すことは一般論に過ぎませんが」と断らなければいけない。その一般論と思い込んでいるものが、一般論としても適切でないのであれば口をつぐむべきである。
 その生徒のことを考えずに自分の意見を述べたことはただの一度もない。今もなお真面目さは欠如しているが、最低限の真剣さは持ち合わせているつもりである。

2021.05.18Vol.494 想定外で予定外は想定内?

 タイトルの説明をするなんて野暮な気がするがそこから。「想定外のことが起こり、『この人中々よう分かっとる(番外編)』は次回以降に持ち越すことになったのですが、その変更は想定内だったでしょうか?」と言うのがそれ。
 先週の土曜日、届け物をするために豊中校に立ち寄った。その際に講師から、「彼が(高1の)A君です」と紹介された。意見作文用の教材である『毎月新聞』の作文前のアイデア出しのためのやり取りを講師と行っていたので、勝手に割って入った。開校後しばらくは体験授業には赴いていたが、豊中校で実際の授業を行うのはほぼ初めての気がする。そのA君のお父様とお母様(お会いしたことはない)はこのブログをよく読んでくださっているばかりではなく、HP自体にもよく目を通してくださっており、先日、HPの誤りを先の講師経由で教えていただいていた。そのようなことを踏まえての「彼が」である。
 取り組んでいたのは、「文字が出す騒音」という文章を読んでのものであった。本文を要約すると次のようになる。「ボストンに長期滞在していた当時、大規模再開発中で工事があちこちで行われていたが、不思議なことに筆者はある種の静けさを感じていた。それと似たような経験をしたことがある気がしたものの思い出せなかった。ある日、オープンカフェで街並みをのんびりと眺めているときにふと気づいた。『在来線のグリーン車と同じだ』と。ボストンは目立つ広告を出すことが禁止されており、グリーン車は普通車と違い中吊りや壁の広告もないため、共に文字情報が少なかったのだ」。それに対して与えられたお題が「この話に出てくるように一見まったく関係がなさそうな状況なのに同じような感覚を持つ例を考え、それについて、四百字程度で作文をしなさい。もし、実際にそのように感じたことがなければ、想像して書きなさい。」というものだった。
 横槍を入れたのには2つ理由がある。1つが、彼であったから。そして、もう1つが、少し前に東洋経済オンラインで「頭のいい人と平凡な人で違う『頭の使い方』の差」というタイトルの記事(https://toyokeizai.net/articles/-/426478)を見つけて、近々にそれについて書こうとあれやこれやと考えていたから。その冒頭では次のようなことが述べられていた。
 「情報をうまく使うためには、絶えず意識して、自分の問題に置き換えていく訓練が有効です。
(中略)
 例えば、テレビ番組で、ある人の失敗談が放映されているとしたら、『自分も似たような経験をしたなあ』と思うのでもいいですし、逆に『自分はそういうこととは正反対のことをしているな』と気がつくだけでもいいのです。あるいは、『自分だったらそういうときにどうするのか』を考えてもいいでしょう。どんなことでもいいので、自分に置き換えて考えるクセをつけるのです。これが、情報を自分のものにしていくプロセスです。
 そうやって情報を自分のものにするクセをつけておくと、情報に含まれているさまざまなエピソードを、人生の教師にしたり反面教師にしたりできます。
 絶えず自分の問題に置き換えて考えていると、どんな情報でも役立てることができるようになってきます。」
 この記事は、柳川範之著『東大教授が教える知的に考える練習』という本が元になっている。購入したがまだ開けていなかったので、読み終えてから文章にする予定にしていた。という訳で、これまた予定外。
 A君に上の記事のことを紹介して、「俺より優秀な人と言うのは、俺より自分に置き換える訓練を日頃からしている人であり、逆にそうでない人はそれをしていない人だ」と持論を展開し、『毎月新聞』は正にその訓練になる、と続けた。『毎月新聞』には50弱の話が収められているのだが、この教材の課題だけはすべて私一人で考えた。偉そうに言ったものの私がしたのは、文章を読んで、「俺やったら、こういうことについて考えるだろうな」とパッと思いついたことをワードで打ち込んだだけで1話あたり5分前後しか掛けていないので、トータルしても5時間程度しか要していない。10年ほど前に作ったこともあり、生徒が苦戦しているときに「どれどれ」と自らが作成したお題を覗き込んでみても、何を書けば良いのかさっぱり分からない、ということがしょっちゅう起こる。そういうときは、「まっ、思いつきで作ったから、俺もよう分からん。頑張れ」と励まして大抵は終わりである。そのときも例に漏れず、「路駐してるから、はよ行かな」と尻尾を巻いてその場を去った。西北の生徒であれば、持ち越しても翌週にその続きができるが、そうではなかったため運転しながら思考を巡らせていた。すぐに2つ思い付いたので、車を止めて電話を掛けた。教室には他の生徒もいたため、A君を教室外に呼び出してもらい、指導している講師にも聞こえるようにスピーカーで次のような話をした。
 1つ目が、エピックゲームズとアップルの訴訟に関して。その数日前に、中学生の生徒から、その争いについてどう思うか、と質問されて答えていたことを思い出した。訴訟の背景はおおよそ次のようなもの。エピックゲームズが発売した人気ゲーム『フォートナイト』をアップルストアからダウンロードすると、30%の手数料が取られるため、値下げを要求したものの認められず、自社から直販できるようにしたところ、アップルストアから削除されたためにエピックスゲームズが訴えた。これに関しては、お馴染みの『飯田浩司のOK! Cozy up!』でコメンテーターが「この裁判がどうなるかはさておき(当然のことながら、どのような契約になっていたのかなども関係するため)、早晩アップルやグーグルが手数料を下げざるを得なくなる」と語っていたので、受け売りであることを断った上でその内容を伝え、さらに私の考えを追加した。「農家とJAの関係と構図は同じ。販売する場合はJAを通さないとダメで、苗や肥料、耕運機などを購入する場合もそう。そこで手数料が取られるから農家は儲からないが、最近ではそのようなしがらみから逃れて直販している農家も増えつつある」。2つ目が、ウーバーイーツの配達員の話。半年ほど前に、ブログの中で何の脈略もなく蟹工船を連想させる、という話を挿入した。そのときに、何を書いたかは覚えていないが、見かけがきれいなだけに(大きなカバンを背負ってはいるが、自転車を使っている人が多いため健康的なイメージを与える)余計に問題に感じていた。当時世間では、隙間の時間を有効活用してお金が稼げる、と言ったようなポジティブな意見が多かったが、最近になってようやく、労災保険や雇用保険などのセーフティーネットが脆弱であることが取り上げられるようになった。さもありなん。
 電話であったため、上の内容を整理しながら説明できたわけではないが、「俺が思いつくものとしてはこんな感じかな」ということは伝えられた。そして、今気づいた。上の2つの事例も「搾取」というキーワードで結びけられることに。考えることって楽ではないけど、やっぱ楽しい。私が生徒たちに最も伝えたいのはこのことなのかもしれない。

2021.05.11Vol.493 この人中々よう分かっとる(後編)

 よく言われるように、アイデアと言うのはゼロから作られるものではなく、そのほとんどは既存のものの組み合わせに過ぎない。私も例外ではない。当たり前の話である。仕入れた情報が時間を掛けて自分の中で化学反応を起こして行き、ある瞬間何らかの形を成す。その後、誰かが同じことを言っていることを知り、「この人中々よう分かっとる」となる。その誰かは、誰でも良いわけではない。自分が認める人でなければいけないのだ。「よう分かっとる」と偉そうなことを言っているようで、実はその逆なのだ。その誰かに認められているようで無邪気に喜んでしまっているのだから。ここまで書いてきて、待てよ、となった。多くの場合、その自分が認める人の本を読んだり、テレビやラジオを通して話を聞いたりしている。無意識のうちにその人のアイデアを拝借していながらそのことを忘れてしまい、改めて彼らがそのような発言をしていた時に、「俺と同じ」となっているだけかもしれない、という気がしてきた。中々のインチキである。真偽のほどはさておき、1つ明らかなのはどこかに良いアイデアが転がっていて、それを真似さえすれば物事がうまく行くとは私が考えていないと言うこと。   
 前回、「10代の頃から『自分の頭で考える』という思いは強かった」と述べ、その後、「社会人になってからそれに拍車がかかった」と続けたが、一方で、仕事選びではその反対の道を突き進んでいた。どこかに自分に最適な会社があって、それを見つけようとしていた。まったく持って最短ではない遠回りをしながら、ようやくそんなものはないことに気がついた。どこかにはあるのかもしれない。しかし、それを見つけて、かつ採用される確率は限りなくゼロに近い。それであれば自分でやった方が早い、と志高塾を始めた。自らのそのような経験から、志高塾で働く人には「ここが探していたところだ」と思ってもらえるようなところでありたい。それが7割の満足度なのか8割なのかは分からない。だが、その残りの2割なり3割ももしかすると自分の力でどうにかなるかもしれない、という希望を持てるような硬直化していない組織でありたい。そのためには、組織の長である私自身が少しずつでも柔軟な思考を持てるようになる必要がある。その一環として、今後は片意地張らずに最初から人のアイデアをうまく活用しようとする姿勢も大切かもしれない。
 「この人中々よう分かっとる」というタイトルを付けているにも関わらず、前回紹介したエール株式会社取締役の篠田真貴子氏がこの人という訳ではない。何じゃそりゃ、である。彼女の中の話で出てきた「心理的安全性」という言葉を聞いて、「おう、それそれ」となった。自分の頭の中にある考えに、ぴったりの言葉が与えられることで輪郭がくっきりとして、よりそのことを意識しやすくなるということがある。
 グーグルが何百万ドルもの資金と約4年の歳月を費やして社内の様々な国の200弱のチームを調査したところ、生産性の高いチームには「心理的安全性」が担保されていることが分かった。そのことは2015年に発表されたのだが、恥ずかしながら知らなかったので、アマゾンで「グーグル 心理的安全性」で検索して出てきた『世界最高のチーム ~グーグル流 「最少人数」で「最大の成果」を生み出す方法~』を読んだ。なるほどなぁ、となることも多かったので社員全員分購入した。過去にそんなことをしたことは一度も無いのだが。ぼーっと読んでも意味はないので、それを踏まえて志高塾で活用できそうなことを各人3つずつ挙げてもらって(もちろん、そのままではなく、使えるようにするためにかなり手を加える必要がある)、その中から良さそうなものをピックアップして、さらにマイナーチェンジして実際に導入してみる。これは昨日までに考えていたこと。そして、たった今、良いことを思いついた。出されたものをここで発表することにしよう。全員分。それによって緊張感を持って取り組むだろうし、その分文章を書かなくて済むので私も楽ができる。ザ一石二鳥。6月12日(土)を締め切りとするので、早ければ22日に、遅くとも29日は掲載できるようにする。乞うご期待。
 「心理的安全性」は“psychological safety”を逐語訳したものなのだが、これは中々面白い。都知事が豊洲への移転に関して「安全だが安心ではない」と意味不明な発言したことは、確かこのブログでも触れた。安全は客観的なもの(この場合、科学的根拠に基づいているもの)で、安心は主観的なものである。「心理的」という主観に関わることなのに、まるでそこに客観的な基準が存在しているかのように感じられるのが「心理的安全性」ということなのではないだろうか。
 次回は、「この人中々よう分かっとる(番外編)」の予定なのだが、その材料集めとしてGWの休み期間中に過去のブログをチェックしていたら「Vol.438 ビミョーに大きな差」の中で偶然次のようなものを見つけた。 
「私は基準を明確にするということをとても大切にしている。生徒たちに対して、親御様たちに対して、働いている講師たちに対して、息子たちに対して、そうするように心がけている。」
これは正に上の段落で述べたことに通ずる。これ以外にも、私が大切にしている「心理的安全性」の例を挙げて行く予定だったのだが、字数をかなり割きそうだったのと、上の例のように過去にブログの中でそれに関することをそれなりに語っているはずなので今回は割愛する。
 最後ぐらいは、タイトルに沿った話題を提供して終わることにする。
「いいか、大河君、よく覚えておくんだ。人間失敗したときはいろいろ反省したり考えたりする。それは当然のことだ。しかし成功したときにその人間が何を考えるかが大切なんだ。アロガンスと欲の固まりになって行動するのか、それともへりくだって自分の運の良さを感謝するか。大部分の人間は前者のカテゴリーに入る。バブルに乗った連中は皆そうだったのだ」
お察しの通り、これは小説の中の言葉である。ちなみに、「アロガンス」とは「傲慢さ」という意味である。ふと疑問が頭をもたげる。「成功」とは何なのだろうか、と。子供の頃であれば、二重跳びや逆上がりができれば成功した、となれた。受験も合格すれば成功と言えなくもないが、どこかしっくりとこない。大人になってからとなると、「うまく行った」程度のことはあるがそれ以上のこととなると思い当たることがない。「成功した」と思うこと自体がアロガンスの現われなのかもしれない。

PAGE TOP