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2021.05.11Vol.493 この人中々よう分かっとる(後編)

 よく言われるように、アイデアと言うのはゼロから作られるものではなく、そのほとんどは既存のものの組み合わせに過ぎない。私も例外ではない。当たり前の話である。仕入れた情報が時間を掛けて自分の中で化学反応を起こして行き、ある瞬間何らかの形を成す。その後、誰かが同じことを言っていることを知り、「この人中々よう分かっとる」となる。その誰かは、誰でも良いわけではない。自分が認める人でなければいけないのだ。「よう分かっとる」と偉そうなことを言っているようで、実はその逆なのだ。その誰かに認められているようで無邪気に喜んでしまっているのだから。ここまで書いてきて、待てよ、となった。多くの場合、その自分が認める人の本を読んだり、テレビやラジオを通して話を聞いたりしている。無意識のうちにその人のアイデアを拝借していながらそのことを忘れてしまい、改めて彼らがそのような発言をしていた時に、「俺と同じ」となっているだけかもしれない、という気がしてきた。中々のインチキである。真偽のほどはさておき、1つ明らかなのはどこかに良いアイデアが転がっていて、それを真似さえすれば物事がうまく行くとは私が考えていないと言うこと。   
 前回、「10代の頃から『自分の頭で考える』という思いは強かった」と述べ、その後、「社会人になってからそれに拍車がかかった」と続けたが、一方で、仕事選びではその反対の道を突き進んでいた。どこかに自分に最適な会社があって、それを見つけようとしていた。まったく持って最短ではない遠回りをしながら、ようやくそんなものはないことに気がついた。どこかにはあるのかもしれない。しかし、それを見つけて、かつ採用される確率は限りなくゼロに近い。それであれば自分でやった方が早い、と志高塾を始めた。自らのそのような経験から、志高塾で働く人には「ここが探していたところだ」と思ってもらえるようなところでありたい。それが7割の満足度なのか8割なのかは分からない。だが、その残りの2割なり3割ももしかすると自分の力でどうにかなるかもしれない、という希望を持てるような硬直化していない組織でありたい。そのためには、組織の長である私自身が少しずつでも柔軟な思考を持てるようになる必要がある。その一環として、今後は片意地張らずに最初から人のアイデアをうまく活用しようとする姿勢も大切かもしれない。
 「この人中々よう分かっとる」というタイトルを付けているにも関わらず、前回紹介したエール株式会社取締役の篠田真貴子氏がこの人という訳ではない。何じゃそりゃ、である。彼女の中の話で出てきた「心理的安全性」という言葉を聞いて、「おう、それそれ」となった。自分の頭の中にある考えに、ぴったりの言葉が与えられることで輪郭がくっきりとして、よりそのことを意識しやすくなるということがある。
 グーグルが何百万ドルもの資金と約4年の歳月を費やして社内の様々な国の200弱のチームを調査したところ、生産性の高いチームには「心理的安全性」が担保されていることが分かった。そのことは2015年に発表されたのだが、恥ずかしながら知らなかったので、アマゾンで「グーグル 心理的安全性」で検索して出てきた『世界最高のチーム ~グーグル流 「最少人数」で「最大の成果」を生み出す方法~』を読んだ。なるほどなぁ、となることも多かったので社員全員分購入した。過去にそんなことをしたことは一度も無いのだが。ぼーっと読んでも意味はないので、それを踏まえて志高塾で活用できそうなことを各人3つずつ挙げてもらって(もちろん、そのままではなく、使えるようにするためにかなり手を加える必要がある)、その中から良さそうなものをピックアップして、さらにマイナーチェンジして実際に導入してみる。これは昨日までに考えていたこと。そして、たった今、良いことを思いついた。出されたものをここで発表することにしよう。全員分。それによって緊張感を持って取り組むだろうし、その分文章を書かなくて済むので私も楽ができる。ザ一石二鳥。6月12日(土)を締め切りとするので、早ければ22日に、遅くとも29日は掲載できるようにする。乞うご期待。
 「心理的安全性」は“psychological safety”を逐語訳したものなのだが、これは中々面白い。都知事が豊洲への移転に関して「安全だが安心ではない」と意味不明な発言したことは、確かこのブログでも触れた。安全は客観的なもの(この場合、科学的根拠に基づいているもの)で、安心は主観的なものである。「心理的」という主観に関わることなのに、まるでそこに客観的な基準が存在しているかのように感じられるのが「心理的安全性」ということなのではないだろうか。
 次回は、「この人中々よう分かっとる(番外編)」の予定なのだが、その材料集めとしてGWの休み期間中に過去のブログをチェックしていたら「Vol.438 ビミョーに大きな差」の中で偶然次のようなものを見つけた。 
「私は基準を明確にするということをとても大切にしている。生徒たちに対して、親御様たちに対して、働いている講師たちに対して、息子たちに対して、そうするように心がけている。」
これは正に上の段落で述べたことに通ずる。これ以外にも、私が大切にしている「心理的安全性」の例を挙げて行く予定だったのだが、字数をかなり割きそうだったのと、上の例のように過去にブログの中でそれに関することをそれなりに語っているはずなので今回は割愛する。
 最後ぐらいは、タイトルに沿った話題を提供して終わることにする。
「いいか、大河君、よく覚えておくんだ。人間失敗したときはいろいろ反省したり考えたりする。それは当然のことだ。しかし成功したときにその人間が何を考えるかが大切なんだ。アロガンスと欲の固まりになって行動するのか、それともへりくだって自分の運の良さを感謝するか。大部分の人間は前者のカテゴリーに入る。バブルに乗った連中は皆そうだったのだ」
お察しの通り、これは小説の中の言葉である。ちなみに、「アロガンス」とは「傲慢さ」という意味である。ふと疑問が頭をもたげる。「成功」とは何なのだろうか、と。子供の頃であれば、二重跳びや逆上がりができれば成功した、となれた。受験も合格すれば成功と言えなくもないが、どこかしっくりとこない。大人になってからとなると、「うまく行った」程度のことはあるがそれ以上のこととなると思い当たることがない。「成功した」と思うこと自体がアロガンスの現われなのかもしれない。

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