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2021.04.27Vol.492 この人中々よう分かっとる(前編)

 誰かの記事を読んだり発言を聞いたりしたときに私と似通った考え方をしていることを知り、「この人中々よう分かっとる」となることがある。こんなんだから、生徒達から「先生、めっちゃ偉そう」と言われることがあるのだが、そういう時は「ちゃうねん、実際偉いねん」と都度訂正している。
 ある目的に従って情報を集め、その中からエッセンスを抽出して短期間で自分なりの意見を形成し、それを実用的に活用できる人がごくまれにいるが、そんな芸当はできない。10代の頃から「自分の頭で考える」という思いは強かった。特に学生の頃は、人のアイデアなど借用してたまるか、ゼロから自分で考えてみせる、というのがあった。社会人になってからそれに拍車がかかったが、それは次のようなことを目の当たりにしたからだ。上司が「チームビルディング」のセミナーに出席したとする。戻って来て、学んできたことを実践しようとするのだがまったくうまく行かない。理由は2つある。1つは、そもそも自分のチームの問題点が分かっていないからだ。「何」をするかの前に「なぜ」する必要があるのか、もしくは「何のために」しなければならないのか、がなければいけない。もう1つは、「あれをしよう」と声掛けをしたところで、自分の言葉になっていないからだ。そして、当の本人が変革をあっさりと諦める。正確には、元々どうにかしようなどとは本気で考えていない。大手塾の説明会などに参加して、そこで聞きかじってきたことを子供にやらせたところで効果が現れないのもそれと似た構図である。「同じ構図」にしようとしたが、表現を和らげた。「子供のことをどうにかしてあげたいと真剣に考えている」とお叱りを受けそうな気がしたからだ。だが、そのどうにかしてあげたい、「成績を少しでも上げたい」、「1つでもクラスを上げたい」、「少しでも偏差値の高い学校に行かせたい」であればどの親でも考えることなので、その一事を持ってして「真剣に考えている」とはならない。
 たとえば、計算間違いが多い子がいたとする。それに対して、大手塾では、十把一絡げに「毎日コツコツと10問ずつやりましょう」という処方箋が与えられる。基本的な計算力が無い子もいれば、計算問題ではケアレスミスをするが応用問題では集中力が増すのでそのようなことが起こらない子もいる。文章題できちんと式は立てられるが計算間違いをしてしまうのか、少し難しくなっただけで考えようとしなくなり式自体を立てられないのか。後者に対しても、まずは計算をできるようにすることに比重を置くのが一般的である。私はその逆の手を打つことが多い。天邪鬼だからではない。計算は算数の基礎だから、と言われれば確かにそうなのだが、基礎ができたからと言って発展ができるものでもない。計算ができるようになっても、文章題を読むこととはまったくつながらないからだ。逆に、粘り強く考えて、式を立てられるようになった子には「おっ、文章読めるようになって、式もちゃんと立てられるようになったやん。成長したな。もったいないから計算ぐらい合わせえや」となる。「もったいない」というのは、計算問題のケアレスミスに対してではなく、こういう時にこそ使うべきなのであろう。もちろん、時と場合による。中1の数学における代数は計算的なことが大勢を占める。それゆえ、小学生の頃に算数に苦手意識があった子であれば、闇雲に反復練習をさせるのではなく、間違いが起こりづらい計算の仕方を教えた上で最低限の量を消化して自信を持てるようにしてあげる。どんな手を打つかは、時と場合とその子によるのだ。思考停止の人にアドバイスされる子供は本当にかわいそうである。
 今回のテーマは、ポッドキャストでエール株式会社取締役の篠田真貴子氏の話を聞いたことで決まった。ここでも紹介したはずの『COTEN RADIO』という番組。通常、吉田松陰、マハトマ・ガンジー、マルティン・ルターなど歴史上の人物を取り上げるのだが、番外編として現在活躍している人を呼んで対談を行う。前回がボーダレスジャパン代表の田口一成氏で、今回が篠田氏であった。2人ともかなり面白かった。その中で彼女は「聴く力」をテーマに、聴くことの大切さを語っていた。何ら目新しい考えでもないのだが、言葉が響くかどうかはそれを誰が口にしたかで変わってくる。それは、私自身が常々意識していることであり、講師たちに伝えていることでもある。何を言うかはもちろん大事なのだが、誰が言うかはそれの比ではない。どれだけ中身のあることを言おうが、発信者に説得力が無ければその言葉は価値を生まない。
 実は、今回はいつもと違う展開をしようと試みた。生徒の意見作文を添削していて、「いろいろな文章の書き方があるから、俺は同じようなスタイルばかりにならないように気を付けてる」と話したことがきっかけ。通常は『天声人語』のように、最初に何かしら具体的な話を持って来て、最後に「ああそこにつながっていくのかぁ」という形式を私は好む。それゆえ、冒頭でタイトルの話に触れた。しかし、結局2段落目で話を転じているので大差は無かったかもしれない。
 来週はGWで教室がお休みになるのでブログもお休みです。
つづく

2021.04.20Vol.491 個別であろうが集団であろうが

 まずはお便りコーナー。あるお母様から以下のようなメールをいただきました。2段落目に関しては、黙読ではなく気持ちを込めながらの音読をお勧めします。

 『志高く』を読む前に志高塾のリニューアルしたHPをみて、写真はそのままなんや、って思ったら撮り直ししてたのですね。前のが、鮮明に記憶に残っていたわけではなく、なんとなく見てたせいでしょうか、違いに気づかなかったです。
 ちなみに、私は初めて会った時、写真の人だ!って素直に思いました。そして、初めてホームページを見た時、とてもいい印象を受けたのを覚えています。上からでもなく、変な親しみやすさもなく、ってかんじでしょうか。今回も、変わりなく良かったです。

私の成長のため、今後もこのような厳しい意見をどしどしお寄せください。お待ちしております。

 そろそろ時効だろうか。と言っても、別に悪いことをしたわけではない。5年ほど前に2年間、息子たちがお世話になった幼稚園の園長先生に月1回、仕事として全保護者向けの園長先生からのお手紙を添削していた。口止めされていたわけでないのだが、4年間会長をしていたこともあり公私混同と思われてもな、と、そのことについてブログで触れないようにしていた。指導内容に関してはすべてお任せすると話だったので、それであれば、と、2, 3か月に1回不定期で発行されていたものを月1回定期的にした方が良いと進言し、1回1時間半から2時間を掛けて、事前に書き上げておいてもらったものを元にやり取りを行っていた。私は会長であったため直接話す機会が多かったのだが、園長先生の考えが保護者にうまく伝わっていない気がしていた。それゆえ、その橋渡しのために少しでもお役に立てれば、と考えたのだ。元々は、先生2, 3人に向けて研修を行うという依頼を受けたのだが、忙しく、その時間が取りづらいということで変更になった。今回の本題とはずれるのだが、幼稚園で計算や平仮名などを先取りして教え込んでも大した価値はない。そのようなことをまったくやらされてこなかった子に一気に抜かれるというのは往々にしてある。基礎の部分に差があるからだ。だから、やるべきはその部分を鍛えてあげることである。形式的なお勉強をさせるより、知識が豊富で語彙力が豊かな先生と触れ合う方がよほど学びは多い。一緒に動物を見たときに「おっきいね」、「かわいいね」で済まさずに、「毛が多くて長いということは、暑いところにいたのかな、それとも寒いところにいたのかな?」と問いかけてあげれば子供たちは「ふーん」で終わらずに思考を巡らせるようになる。これを高学年ぐらいになった子供にいきなりやると「いちいちめんどくさい」となる可能性はあるが、園児であればそうはならない。我が息子たちは、中1、5年、3年になったが、そのような問いに対して誰1人として「どうでもいい」という反応をすることはない。正解したからと言って、何かご褒美がある訳でもない。これは、能力ではなく習慣の問題である。残念なことに3人とも特別賢くはないが、何か興味を持てたときにはそれなりに前に進んで行ってくれると信じている。上のような働きかけができる先生を雇える、もしくは育てられる目処が立ったら幼稚園の経営をしてみたい。これは、以前にも書いた気がする。
 さて、その園長先生、とにかくパーソナルトレーナーを付けるのが好きであった。私以外に、フィットネスジム、何かしらの武道、書道などでそのようにしていた記憶がある。好きだということを聞いただけで、何がどう良いのか当時の私にはまったく理解できなかったが、最近分かるようになってきた。40を超えてから、運動をしていて筋肉系の怪我をすることが増えた。整骨院に通って完治してもまた同じことが繰り返される。対処療法的なやり方では根本的な解決にはならないことにようやく気付き、あるお母様に紹介していただいた運動機能を高めるためのトレーニングを行う整骨院に通い始めた。ご存知の通り、ヨガも始めている。さらには、また別のお母様から教えていただいた整体にこの前初めて行って、今後も月1回のペースでお世話になる予定にしている。すべてこの2か月ぐらいのことである。トレーニングは1対3ぐらいなのでセミパーソナルということになるが、その3つにおいて私が良さを実感しているのは、細かく指導してもらえること以上にいろいろと質問できることである。ヨガは特に顕著なのだが、私の体が硬すぎるせいで本来効かさないといけないところとは別の個所が伸びていたりする。「ここが痛いんですが、それで合っていますか」というようなことを確認している。ヨガに限らず、疑問に思ったことは片っ端から聞いている。その答えがすんなりと腑に落ちることがあればそうでないこともある。そうでないことは自分なりに考えたり、納得できない部分を聞き直したりする。自分の中で消化されるまでのそのプロセスがとにかく楽しい。
 パーソナルトレーナーをこれまでに経験したことが無かったわけではない。20代のサラリーマン時代、一時期外国人の先生にマンツーマンで英語を教えてもらっていたのだが面白くなかった。私の英語力にも問題はあったが、単純にその人が魅力的でなかったのだ。触れる袖も無く、安くでお願いしていたので、贅沢は言えなかった。安かろう悪かろうでは意味がない、というようなことが言われる。確かにその通りなのだが、そこには当たればラッキーがぐらいの心構えがあるのでまだ良い。気を付けるべきは、高かろう良かろう、である。高いから良いはず、と期待してしまうからだ。家庭教師や個別塾などはかなりの確率で外れる。高いから良い先生が付いてくれると思ったら大間違いである。
 昨秋から始めた私立の小学校での週1回2コマ(1コマ45分)の国語の授業。20人ぐらいの生徒に対して元々は1人でやる予定であったが、結果的には初回の授業から2人で行っている。事前の準備をお願いしたかったのと、志高塾でやっていることと同じようなことを集団に対して行うので1人ではあまりにも無理があると考えたからだ。2人でやると、感覚的には1人の3倍、4倍の効果を出せる気がしている。個別に比べると1人1人を手厚く見られないのは当たり前なのだが、複数の生徒に前に出て黒板に書いてもらい、それを比較しながら添削をできるのは集団の良さである。授業を行う立場として、個別であろうが集団であろうが、どうすれば生徒たちが多くのことを吸収できるかを考え、実践して行ってあげないといけない。
 そう、これまで頑なにやろうとしてこなかったゴルフ。先日、数年ぶりに飲みに行った高校時代の同級生に誘われて「分かった、やる」と即答した。この歳から始めることもあり、変な癖がつかないように初めからパーソナルトレーナーを付けて一気に経験者を追い越して行きたい。仕事をしない、と生徒達からまた揶揄されそうだがここまで読んでいた方にはお分かりであろう。すべてとは言わないまでの、志高塾での指導の肥やしにそれなりにはなっているはずなのだ。

2021.04.13Vol.490 そりゃ、できた方が良いですよね

 先週は高槻校の準備に追われていた。3日土曜に工事が終わり、7日に写真撮影があったため、日曜の朝から急いで家具を含めた荷物の搬入、足りないものの買い出しなどを行っていた。その写真撮影、教室内の様子に加え、私自身のものも撮り直しを行った。そのままでも良かったのだが、HPなどの写真が随分と古く実際に会ってみるとイメージしていたのと全然違うということが時々ある。4年前と大して変わっていないだろうと強がってみたくもなるが、潔く4年分古くなった新しいものに取り換えることにした。以前のものはいたって普通だったので、今回は少し気取った感じのものにしてみることに。このブログでも紹介した開塾当時からの付き合いである気心の知れた森野さんにお願いしたので、私が調子に乗ってグラビアアイドル風のポーズを取り、「松蔭さん、それは違います」とべたに突っ込んでもらいながらの楽しい撮影会になった。昨日アップデートしていただいた。
 さて、本題。私は小1から中3まで9年間同じ女の先生にピアノを習っていた。当時、これだけ続けてこれだけ下手な人は世の中にはおらんよな、と思いながら通っていた。参加資格が5年以上ピアノを続けている中学生、というコンテストがあれば、私はかなりの確率で日本一になれただろうし、間違いなく5本の指には入ったはずである。下手くそはそんなにも続けないし、普通は続けていればもっとうまくなるからだ。私は気に入られていたので(なお、兄は小学生の頃に「お母さん、こんなやる気のない子にお金を払い続けるだけ無駄です」とその先生に言われ、強制的にやめさせられていた)、「弾きがてら話しに来て」か「話しがてら弾きに来て」のどちらだったかは忘れてしまったが、やめようかどうか考えていた小学校卒業時に先生にお願いされてそのまま続けた。
 先日あるお母様から、お子様の耳が良いので演奏されているのを聞けばバイオリンで再現できてしまうという夢のような話を聞いた。私は、耳が良くないのは当然のこと、頭と手がまったく持って連動しないので、短く区切って、まずは右手、その次に左手、そして合わせる、ということを繰り返しながら少しずつ前に進んでいくしかなかった。先のものは自慢話ではなかった。そのような能力はあるものの楽譜がまったく読めないのだ。先生に言われて、一年間譜読みのトレーニングをしたが効果が見られずに悩まれていた。上の子は志高塾に通ってくれているが、その子自身を私は知らない。親は、子供に何かうまく行かないことがあると、AができなければBも、と不安になってしまうことは少なくない。それゆえ、その点に関して確かめてみたが、勉強など他の分野でそれと関わるような問題を特別に抱えているわけではないとのことであった。別に将来音楽のプロを目指すわけでもない。私にすれば、なぜ本人が嫌がっている譜読みをそんなにも長期間に渡ってやらせる必要があるのか、となる。誤解をしないでいただきたいのだが、プロを目指さないから適当で良いと言いたいのではない。この春高2になった元生徒の男の子は、全国大会に出るような強豪校にスポーツ推薦で進学した。彼は、確か中2ぐらいから卒業まで通ってくれた。成績を上げるために家で自ら勉強するタイプではなかったが、出した宿題はやって来ていたし、授業中も口ではだるい、と言いながらも実は考えることは嫌いではなかった。スポーツで上を目指すことは入塾時から分かっていたが、志高塾での勉強を通して賢いスポーツ選手になるようにしてあげたいというのがあった。
 譜読みに話を戻す。できるに越したことはない。しかし、「できた方が良い」と「できないと困る」はイコールではない。だから、トレーニングを試みて、あまりに成果が見られなければ別の手立てを考えるのが教える者の役割である。そのバイオリンの先生を批判したいわけではない。他山の石としようと考えているのだ。あまりに楽譜が読めないので、お母様が「『ラ』の音を出して」と指示したときに、音符としての「ラ」ではなく、そのお母様の発生したときの「ラ」の音を再現したらしい。私であれば、その特異な能力をどうやったら活用できるかを考える。「第~小節から弾いてみて」ということができないらしいのだが、本番の演奏で途中から弾くことなどないし、仮に合奏の練習をするにしても、誰かが鼻歌でも歌ってどこからか教えてくれたら済むのではないだろうか。ある現象を見たときに、ある決まった評価を与えるべきではない。打ち手を誤るからだ。たとえば、ケアレスミス。少ないに越したことはない。それは大別すると2種類に分かれる。作文の見直しを一生懸命してより良いものにすることにはエネルギーを注ぐものの誤脱字は見落としてしまう子と考えること自体を面倒くさがって「大丈夫」とサラッと見直してしまう子。前者に対して、ミスのことをうるさく指摘し過ぎると考えることを楽しめなくなるかもしれない。だから、どこのタイミングでそこに手を入れるかを見極める必要がある。一方で、後者の子は、一つ一つをきちんと考える癖を付けてあげなければいけないので、ケアレスミスを減らすこともその一環として改善して行ってあげないといけない。大分類としては2種類と考えているが、もしかすると3種類かもしれない、その中の小分類にしても過去の経験上それなりに分かった気になっているが、どこにも属さない子がいるかもしれない。
 私は基本的に適当で傲慢であるが、自分の物差しで子供たちの能力を評価することには慎重で、かつ、自分の価値観で判断して大丈夫だろうか、という気持ちを持った謙虚な人でありたい。

2021.04.06Vol.489 『十人十色』番外編④ ~船出~

 このシリーズをそのまま終わらせようかとも考えていたのだが、中途半端な状態だったのでずっと気にはなってはいた。クローズするには、今回が絶好のタイミングである。明日7日が入学式だからだ。番外編③から2か月が経ったので鉄は完全に冷めている。それゆえ、受験を振り返るのではなくこれからについて書くこととする。
この間の一番大きな変化と言えば、英語専門塾に通わせ始めたこと。何の前触れもなくある日、教室から妻に電話をして、塾名だけを告げて体験授業に連れて行って欲しいとお願いした。思い付き以外の何ものでもなかったので、調べてもらったら既に募集は終わっていた。転ばぬ先の杖よろしく、教育に限らず最高の環境を子供に与えるために何をしてあげられるか、ということはあまり考えない。”best”ではなく、”not bad“であればいいか、というスタンスである。転ばないことよりも、転んだ後にどうやって立ち上がるかの方が大事だからだ。それはあくまでも親の立場であって、生徒たちにとって志高塾がより良い学びの場になるように何ができるかを考えていることだけは断っておく。
 その長男、ある晩私が仕事から帰るとソファのところで目を腫らしながら泣いていた。入学祝いとお年玉を使って手に入れた3万円以上するウォークマンを失くしてしまったのだ。「泣いてもいいけど、泣きながらでも良いから動け」と叱った。そのとき初めに思い浮かんだのは「泣くな」という言葉だったのだが飲み込んだ。「泣くな、動け」だと、「泣くな」しか響かない気がしたからだ。どんな状況でもやれることをやりなさい、ということを伝えたかった。その日は、英語塾の後に志高塾に寄ってから帰って来ていたので、まずはその2つに急いで電話をする必要があった。泣いている間に、誰かが見つけて持って行ってしまうかもしれないし、名前が書いてあるわけではないのでじっとしていて事態が好転する可能性はゼロだからだ。問題が起こったときに頭を抱えているようでは人はついてこないぞ、と付け加えた。一応、長男はリーダーになりたいらしいので。
 話は変わらない。この1週間の休みを利用して、溜まっていたNHK大河『青天を衝け』の第1話から4話までを見た。渋沢栄一の父は、藍染めに使う藍の葉を育てているのだが、ある朝畑に行くと若者が泣いていた。害虫が発生したために「今年はもうだめだ」と嘆いていたのだ。事情を聞いた栄一の父は「泣いている暇はないぞ」と叱咤し、食べられていない葉だけでもすぐに刈るように指示をした。長男も一緒に見ていたので、「これが、リーダーとそうじゃない人の差や。この前お父さんが言ってたことと同じやろ」と話した。さて、そのウォークマン、翌日に英語塾の掃除のおばさんが偶然にも見つけてくれて落着した。A日程で不合格になり、B日程で合格したことに似ている。不合格になったこと、失くしたことを通して学んだことを忘れずに今後に生かして欲しい。
 話を英語塾に戻す。結果的には無事に入塾させてもらえた。そもそも塾に通わせる気など全くなかったし、長男は数学で問題を抱えるのは間違いないのだが、なぜだか私は英語を選んだ。いくつか体験に行かせて気に入ったところというのではなく一択だったので、もしそこが合わなければどこにも行かせなかったはずである。長男にとって、外部の塾に行くのは人生で初めての体験になる。塾に通わせるひとつの理由として、周りの頑張っている子達から刺激をもらって、というようなことがよく言われるが、私はそんなものを信じていない。そのような効果があったとしても一過性のものであり持続性はないからだ。わざわざ通わなくても、小学生であれば大手塾の公開テストを受ければ良いし、中学生以上であれば、そんなことをしなくても学内順位が出るのでそれで十分である。ぶっちぎりの1位であれば話は別だが、そうでない限り自分に足りていないものがあることは明白なので、何をやるべきかはおのずと決まっていく。大手塾に行かせる必要がないと言いたいのではなく、外からの刺激が今抱えている問題を解決してくれるというのは違うということを述べたいのだ。
 入塾してすぐに、既に始まっている集団授業に追いつけるように何度か個別の授業をしてもらった。一度、単語テストで100点満点中の57点で居残りをさせられていた。完璧に覚えれば良いだけのことなので、どれだけ悪くても95点は取れるはずなのだ。あまりにできないので翌朝、食卓で妻が覚える時間を取った後にテストをしていたのだが、それでもできが悪かったらしく、「さっき覚えたのにできない」とつまらない言い訳をしていたので、「さっき覚えたんではなくて、さっきやっただけやからそんなことになんねん」と訂正しておいた。原因を正しく認識しなければ適切な手は打てない。初めての集団授業でも13人中5人残されたらしく、見事にその中に入っていた。どうしたらそんな不細工なことになるのかまったく持って理解できないのだが、悲しいかなそれが我が子の現在地である。私はテストも見ていないし、何を習っているかも知らない。学校から与えられた春休みの課題の取り組み方に関しても、あまりの効率の悪さに大丈夫か、となるが、少しずつでも環境に適応しながら自らの力で道を切り拓いて行って欲しい。心配だらけではあるが、親としては期待をしてあげながら、致命的な転び方だけはしないように見守っていく所存である。 完

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