
2019.02.19Vol.387 そろそろ解禁
組織にとって怖いのは、弛緩しすぎること、もしくは硬直しすぎることである。これは何も組織だけに限ったことではない。それらは緊張感と密接に関係している。無さ過ぎても、有り過ぎてもだめなのだ。だからと言って、どうやって緊張感を持たせるか、ということを直接的に考えてもきっとうまく行かない。それゆえ、私は責任感と結びつける。我々で言えば、各講師が生徒を成長させることに責任を持たなければいけない。それは、ミスなくこなして胸をなでおろすような類のものではない。それでは良くてプラスマイナス0である。生徒が成長を見せる、という喜びがあり、気づいたらそのプロセスを通して自分も成長していた、と実感できるものでなければならないのだ。
この春、3人の大学生が社会に出て行くため志高塾を卒業する。言い方を変えれば、途中で辞めずにここまで勤め上げてくれたのだ。仮に彼らがさらに半年、1年と続けてくれたのであれば、それまでの経験が生きてさらに良い講師になるであろう。では、5年、10年であればどうか。組織が経験を積んだ講師ばかりの集まりになってしまっては、どこかのタイミングで硬直化が始まる。ここでも何度か触れたが我々のところには優秀な大学生が集まる。彼らは、志高塾にとって新しい血であり潤滑油なのだ。
と言うわけで、久しぶりに大学生の研修レポートを紹介する。私が読んでも単純に面白い。なるほどなぁとなる。では、どうぞ。
高校2年生の3月、その女性教諭は次のように吐き捨てた。
「教科書ばかり読んでたから東大に落ちたのよ。」
これは自分が担任した生徒の第一志望校不合格の原因の彼女なりの分析結果である。彼女いわく、東京大学に入学するためには“遊び心”が必要であり、それは学校の教材を完璧にこなすだけでは得られない。“遊び心”がある学生は趣味などのより幅広い分野から知識を貪欲に吸収し、試験の際に柔軟な思考ができる。(しかしながら、世間の東京大学の学生に対する一般評価と言えば「面白味がない。」「勉強しかできない。」であり、メディアで頻繁にネタにされるコミュニケーション能力の不足や融通の利かなさは無意識的なものである。)女性教諭の言葉を聞いたとき、私は激しい怒りを覚えた。
「勉強ばっかさせてんのあんたたちだろうが!“遊び心”がある教え方してないし!」
私たちはくたびれていた。県内ではトップクラスの進学校である私の出身高校は進学実績と教員たちのエゴに支配され、彼らの口癖は「阪大以上には行かないと。」だった。私たちは毎朝、学習時間の記録を提出し、模試の結果を見た担任教師の怒り泣きにうな垂れた。それならサボっちゃえばいいじゃんという声が聞こえてくるが、遊べばその分だけ成績に響く。自分が頭が悪いだなんてありえない。だって私は中学校ではよく出来たのに。結局、私は自分と大人たちのプライドに流されて担任教師が望むまま、現在通う大学に現役合格したのだった。
だが、今になって思うと受験生時代の精神的な余裕のなさは勉強と余暇のバランスの悪い分離によるものだった。だからといって余暇を十分に確保していたのでは必要な学習が疎かになってしまう。ここで重要になるのがあの“遊び心”である。当時使用していた現代国語の教科書を見返してみると多様なジャンルの短いけれど深い考察の機会を与えてくれる作品が多く収録されている。授業で扱われなかったからと無視していたのは私だったのだ。勉強だと決めつけていたことから楽しみながら読解力や語彙力の向上を目指すことができたのだ。
さて、志高塾で教える側になった今目指すことは、生徒の状況によって分断されない読解力と表現力の獲得である。これらは受験だけではなく将来就く仕事や人との交流においても要求される能力のはずなのだが、勉強という場を離れると意外にも失われてしまう。(炎上はする側もさせられる側も国語力が欠如している場合が少なくない。)だからこそ、より学校の試験問題に近い『きまぐれロボット』や『小さな町の風景』の読解に先だって『コボちゃん』や『ロダンのココロ』の読解と要約作文に取り組むのだと思う。これからこれらの教材の指導方法を検討していく。
『コボちゃん』及び『ロダンのココロ』において重要なのは登場人物の心情の把握とオチの理解である。『コボちゃん』では主人公である幼稚園児コボちゃんの突拍子もない行動がオチとなることが多いが、『ロダンのココロ』では犬のロダンと人間たちの認識、感情の食い違いがオチである場合が多いため、口頭確認の際に細やかな心の動きを観察させる必要がある。
次に『科学なぜどうして』で重点を置くべきなのはタイトルである。要約文においてはタイトルが問い、本文がその答えとなるのが生徒の理解度を計る目安となるからだ。生徒の中には大きな数字のインパクトに引きずられ、その周辺の情報だけで内容を完結させてしまう者も多い。その場合は、要約文全体を支配するのはタイトルであることを伝え、教材を一緒に見直しその要旨を発見させた上でタイトル設定に再び取り組む。そうすればその教材から何を知ることができるかを念頭に置いた上で要約に取り組むことができる。
最後は『きまぐれロボット』と『小さな町の風景』である。これら2つの教材で初めて抽象化という作業が取り組みに含まれるようになる。先述の通りこの手の問題は大学入試によく見られるものだが、一つの結論に帰着するように導くのでは意味がない。講師側が準備した作文と異なっていても生徒自身が論理的に提示した教訓であれば受け入れなくてはならない。根拠がしっかりとした主張なら多種多様であるべきだということ、裏を返せば深い考察が伴っていない“わがまま”は誰も聞いてくれないということを伝えられるよう心がけたい。