
2025.10.17Vol.73 横に広がる世界(三浦)
関西万博が終幕となった。パビリオン自体も興味があったし、各国の風土が反映された食事にも興味があった。しかし、行こうかな、どうしようかな、でもめっちゃ暑いしな、駆け込みの時に行く勇気もないしな、行ったとしても何を見ようかな、とぐるぐる優柔不断を繰り返し続けた結果、終ぞ足を踏み入れることなく終わってしまった。勿体のないことをした。
足を運んだ生徒からの話や写真、インターネットで見かける話題でかなり「行ったつもり」にはなったが、それは「実際に見る」ことと大きく離れていることは確かである。またの機会があればと思うが、きっとそんな機会はない。せめて大阪市立美術館の天空のアトラスを見に行こうかと考えているが、それも優柔不断の末、どうなることやら。
そんな折、関西万博には行かなかった一方で、太陽の塔を擁する万博記念公園の方に足を向けた。関西圏、というと少し主語が大きくなってしまうかもしれないが、大抵の大阪府民は一度ならず二度は行ったことがあるのではなかろうか。私もこれまでの学校行事で二、三度は少なくとも足を運び、もちろんそれ以外に個人でも何度か訪れている。小学生の時分から大人になった今まで通えば、あれだけ大きい太陽の塔も随分と見慣れたものになった。それでも未だに圧倒されるのはすごい。
さて、それでもここ何年かは、これまでと比べてかなり短いスパンで訪れている気がする。その大きな要因は、万博記念公園内に国立民族学博物館、通称みんぱくだ。要因、というよりも、最近はほとんど博物館だけ見て帰るような形になっている。じっくり見るとかなり頭を使うのか、結構な疲労感があるからだろう。ちょうど、vol.71で触れていた博物館への感覚がわかる気がする。私はどちらかといえば、膨大な展示と情報にぐるぐるに囚われて海に投げ出されてしまうような感じかもしれない。
初めて訪れたのは小学生の頃、学校行事の一環だったような覚えがある。あまりに膨大な展示にほとんど記憶はなかったが、ただぼんやりと、ずらりと並ぶ仮面や、日本の祭りで使う道具などがうっすらと印象に残っており、併せてなんとなく「恐ろしい」というイメージがまとわりついていた。それから自ら好んで行くことはなかったのだが、何かのきっかけで数年前に知人と連れ立って向かうことになり、そこで「人と意見交換をしながら展示を見る」という経験をした。ちょうどその人は世界史に相当詳しいこともあり、展示だけではなかなか呑み込めない歴史的背景の補足をしてくれ、それがとても楽しかった。特にキリスト教が各国の文化とどのように融合していったのかなど、キリストをモチーフにした展示を眺めながら、考察をやり取りするのは面白い経験だった。
そんな様々な展示の中で、特に「めっちゃ面白いやん!」となったのは、ラテンアメリカの民衆芸術の特別展示だった。本当に色鮮やかで緻密で、それでいて大きな工芸品。今になって調べてみたところ、メキシコの「生命の樹」という粘土工芸品の一種だそうだ。植民地時代初期に聖書の教えを原住民に伝えるために造られたのが始まりと言われているらしい(Wikipediaいわく)が、今ではそういったモチーフだけでなく、「生命や死」、あるいは日常に身近な祭りといったものを取り上げていることも少なくない。以下はその特別展に関する一文である。
「特別展では、なぜラテンアメリカの民衆芸術はこれほど多様なのかという問いを掘り下げます。先コロンブス時代以来の文化混淆の歴史、芸術として洗練されていった過程、そして現代の制作者の批判精神の3点に焦点をあて、その答えを探します。」
今の特別展示は、「舟と人類―アジア・オセアニアの海の暮らし」だ。はるか遠い過去、人類はどのようにして海に漕ぎ出していったのか。そういった過去という縦軸だけでなく、現在、海に暮らす人々はどのように生活しているのか、そんな横軸でも味わうことができた。船を家として暮らす人々の映像を見て、しみじみそう思った。(フィリピン、スールー諸島の船がインターネットでヒットしたが、これだっただろうか。正確に記憶していないのが悔やまれる。)
そう、この博物館で肝心なのは、縦軸だけではなく、きっと横軸だ。様々な国に様々な歴史がある、当然だ。そしてその上で、様々な国が、様々な様式で今この時も生活をしている。そこには、普通に暮らしていれば想像も及ばない生活もあるだろう。消えていった生活もあるだろう。日常では知らない、そんな日々に思いを馳せるきっかけになる。
関西万博でも同じような気持ちになれたのだろうか。やはり今更ながら、行っておきたかったかもしれない。
2025.10.10Vol.72 最高のハッピーエンド(豊中校・山本)
「人生の最後までやってみないと分からない」とは聞くが、タイムマシンでもない限り自分の終わりを確かめることはできない。だが、私にはそれを教えてくれた人がいる。それは、今年5月に96歳で大往生した私の祖母だ。
祖母は、怪我で車椅子生活となり自宅のある奈良の施設に入ったが、諸事情あり、92歳で故郷を離れて豊中の老人ホームで暮らすことになった。当時はコロナ禍真只中で、施設は面会謝絶。祖母に引っ越しが伝えられたのはなんとその当日朝。祖母は突然迎えにきた私に大阪に連れられ、その日の夕方には知らない施設に入居した。その滅茶苦茶な状況を92歳がすぐ理解できるわけはなく、新居に着いた祖母は涙を流して私の腕にしがみついた。しかし、1週間後にはすっかり慣れ、職員さんから「かわいい」と背中をさすられていた。見た目には無頓着で可愛らしいおばあちゃんとは思えないが、都会の人を掴むものがあったことにほっとした。その後は、職員さんに「おおきにぃ(ありがとう)」をニコニコと振りまき、「頼んどくわえぇ(お願いします)」を付け加える。頼まれた側の職員さんは、「分かりましたよ」とにっこり顔。そうした愛想の良さとは真逆に、自分の我を押し通して職員さんと激しくやり合う時もあったが、そのギャップが面白いとますます人気が高まりアイドルになっていた。場所で人の評価はこんなに変わるのか、驚きと同時に祖母の逞しさに恐れ入った。
1年が過ぎた頃、続く面会制限のため家族に自由に会えないことが辛いと祖母が嘆くようになり、「なんとかしてあげたい」が私の中で膨らんだ。しかし、私は家と家族のことで精一杯で、特に長男は中3の受験生。その状況で大きな責任を抱えることはできるのか?いや、やる前に決められない、ダメだったらその時考えたらいい。苦労続きだった祖母の残りわずかな人生を寂しい思いで過ごさせたくないと私は決心し、家族に同居を切り出した。最初はたじろいだ夫が賛成してくれ、一番気がかりな長男からは「自分にはたっぷり時間があるが、おばあちゃんにはあと少し。今この瞬間にどっちが大切かは決まってるやん」と何の迷いもない答えがあり、子供たちにとっても意味のある同居にしようと私はより前向きになった。こうして予想もしていなかった3世代同居が始まったのだ。
祖母の人生を少し振り返る。祖母は名家に生まれ、穏やかに成長したが、祖父と結婚したことで苦難が始まる。祖母とは対照的に貧乏な家に生まれた祖父は金持ちになるという志に燃え、家族を残して出た大阪で苦労の末に事業を成功させた。男気に溢れ、世間的には自慢の夫だっただろうが、実は家庭内では最低男この上なかったのだ。家には帰ってこない、お金は全く入れない、お酒、女遊びは当たり前で、祖母は独り身のようなものだった。3人の子供のうち1人は障害で歩行できない。それに加え、同居の姑からの厳しい虐め。それだけ聞くと極度の悲壮さを想像するが、生活費を稼ぐために就いた旅館での仲居の仕事で、お客さんとの会話を楽しみ、一杯およばれし、時にはチップもいただく、仕事を日常の生き抜きにしたのだ。そうやってポジティブに必死に働き、休憩時間には家に飛んで帰り、姑と子供の世話という日々を送った。その後、2人の子供を病気、事故で亡くすという身を引き裂かれるような経験もし、若い時はこれ以上ない程の辛苦を味わった。
一緒に暮らしたことで祖母への理解が深まった。物事の流れに身を任せ、それが良くも悪くも淡々と処理し、自分のペースを崩さない。大きく感情を揺さぶられ過ぎずに心がフラットなので、側にいると安心できた。そして、「おおきにぃ」「頼んどくわぇ」は私にも何度となくあり、最初は自分の立場を守る術と捉えていたが、「人のために生きてきた」からこその「人に助けてもらうこと」に対しての強い感謝の表れなのだと感じるようになった。その言葉を向けられた後は温かい気持ちが残ったからだ。また、別の一面もあった。暇さえあればリビングを車椅子で走り回り、体操をする。その真剣な様子に家族で室内を工夫し、応援し、いつの間にか祖母が家族の中心にいた。もちろんいいことばかりではない。介護は本当に大変だ。一番困難だったのは生活スタイルの差を埋めること。私はストレスがたまり大喧嘩になったこともある。滅入ることもあったが、そんな時は家族に助けられた。主人は帰宅後に嫌な顔一つせずサポートしてくれ、長女は食事からトイレのことまで何でもやってくれた。思春期の長男は、祖母にだけはゆっくりとよく通る優しい声でいつも接してくれ、祖母はそれが何よりも嬉しそうだった。そういう日常の繰り返しが子供たちの心の奥行きを作ったと思う。また、私が悩んでいた時には、「負けたらあかん」と険しい道を乗り越えた人ならではの力強い言葉で背中を押してくれた。
それからまた1年が経ち、祖母の介護度合が上がり施設に入ることになった。そこは同居中に利用していた場所で、多くの職員さんが本当のおばあちゃんと愛し、祖母に頬を寄せて、一緒に笑顔で過ごしてくださった。その温かさの中、祖母は静かに息を引き取った。その表情は本当に眠っているようで、死化粧を施した顔を見た田舎の親戚たちは、都会の人になったとその変化に驚いていた。とても96歳には見えない美貌で輝いていたのだ。祖母の最期の4年間はそれまでで一番楽しかったのではないだろうか。他の誰もしていない辛い経験を重ね、懸命に生きた人生の終わりが最高の幕となったことが本当に嬉しい。
祖母は根性があったから、子供のためだったから苦労を乗り越えることができたのだろうか?困難に決して負けない気高い魂の持ち主だったのではないかと私は考えている。それは生まれ持って備わったもの。私や私の子供たちは、自分にも同じものが流れていると信じ、何にも屈さずに大切に次の世代に引き継いでいかないといけない。
最後に祖父母のことをもう少し話したい。祖父は80歳の時に肺がんで入院した。私がお見舞いに尋ねると、祖父母がいつもと違う様子で話していた。祖父が「二人の子供を育てきれなかったことは全て自分のせいだ。本当にすまなかった」と心から詫びていたのだ。その言葉に、いつもは静かな祖母は大声で泣き、様々な思いを込めて壁を打ち叩いていた。それは、初めて二人が心を寄り添わせた場面だったのではないだろうか。二人の約60年のほとんどはバラバラだった。だが、祖母がその関係を諦めることなく努力し続けたから二人はそこに辿り着くことができた。私が長男を出産した3か月後に祖父は旅立つのだが、その短い間、祖父母は仲良くひ孫の世話をした。「目に入れても痛くないってほんまのことやった」と隣で眠る小さな命がどれだけ可愛いい存在なのかを私に無邪気に語る祖父、その横で微笑む祖母、その絵は幸せそのものだった。
おじいちゃん、おばあちゃん、一生懸命生きてくれて本当にありがとう。
2025.10.03Vol.71 私は「白」が好き(徳野)
27年間生きてようやく、博物館が苦手なのだと気づいた。だから何なのだ、となるだろうが、私は以前は美術系の学芸員を目指していたくらいなので、「ミュージアム」に分類される施設なら全般を好んでいるはずだった。しかし、どうやら違うらしいと自覚したのは今年の4月、東京の国立科学博物館でのことだ。上野本館の1階にある「地球の多様な生き物たち」のコーナーで過ごすうちに、「どうでもいいや」という無関心が脳内にじわじわと広がっていった。実際に行ったことがある人なら分かるだろうが、件のコーナーはワンフロア全体を使っての壮大な展示であり、足を踏み入れた瞬間に誰もが感嘆の声を上げてしまうような緻密な構成となっている。また、キリンの気管と食道やら、「鼠算」の由来を再認識できるハツカネズミの胎盤やら、とぐろを巻く寄生虫やら、思い出すだけで食欲が減退する刺激的な標本の数々には見入ってしまった。特にネズミに関しては、同日の上野動物園でハダカデバネズミ(名前の通り体毛が退化している)の大所帯ぶりに面食らったばかりだったので、その旺盛な繁殖力のメカニズムを視覚的に理解できるのが興味深かった。そういった印象に残った物はいくつか挙げられる。なのに、訪問によって得た一番の発見は、「博物館、好きじゃない・・・」である。我ながら身も蓋もなさすぎる。
ただ、「嫌い」でもなければ「しょうもない」と思っているわけでもない。そこは強調しておきたい。どんなに小規模な展示であったとしても、そこに関わる人々が様々な意図や想いを込めている背景を、大学の学芸員養成講座で教えられたからだ。では、美術展では味わった記憶の無い、あの投げやりな疲労感の正体は何なのだろうか。
時は少し進んで、9月末の休暇でのこと。2泊3日の福岡旅行のスケジュールに福岡市博物館を組み込んだ。別にマゾ気質があるわけない(はず)。最初は市立美術館の方に興味を持ちつつお出かけスポットを調べていたところ、社会科の教科書でお馴染みの「漢委奴国王」の金印を所有している博物館を見つけたからだ。それに、所蔵品の大半は歴史関連の資料なのに加え、キャプションが独特で面白いという口コミも貰った。自然科学専門の所よりも個人的に楽しめるであろうし、もしかしたら、冒頭で述べた苦手意識への解像度が上がるかもしれない。そんな小さな目標めいたものを胸に、現地で目的地へと続く「サザエさんロード」を歩いた。
結果としては、常設展示の後半部分は足早に済ませてしまった。政令指定都市の歴史を全て詰め込みました、という様相だったので、たった1日で味わい尽くそうという姿勢が無謀だったとは分かっている。それは国立科学博物館に対しても同じだ。そこを承知で改めて気づいたことを述べると、体系立って理路整然と説明し尽くされた膨大な情報を前にすると「脳の身動きが取れなくなる」感覚に陥ってしまう。だから「好きではない」のだ。
しかし、金印はやはり違った。国宝とだけあって、専用の小部屋にて常設展示室の頭を飾っていた。皇帝からの贈呈品として堂々たる存在感を放っていると想定していたのだが、正直なところ拍子抜けしてしまった。なぜならば、実物は一辺2.3センチメートル、高さ2.2センチメートルと、非常にちんまりとしていたからだ。最初に対面した時はチロルチョコ程度の大きさに感じたが、調べてみたところさらに小さかった。10円玉と同じくらいらしい。要は指でつまんで使う印章としては利に適ったサイズだ。ただし、鑑賞者の目には優しくない。幸い周りに人がいなかったので、ガラスケースに鼻を付ける勢いで細部に目を凝らしてしまった。それだけ見つめても、つまみの部分が何の意匠なのか見当がつかない。写真でしか知らなかった頃はちょうど良い形の金塊を接ぎ合わせただけと決めつけていたが、実際はそれなりに手の込んだ加工が施されている。結局、自力での識別は難しかったため、キャプションに頼ったところ、「とぐろを巻いた蛇をモチーフにしている」とあった。「いや、絶対にそうは見えへんって!」と心の中でつっこみつつ、人間から基本的に嫌われている動物をかたどった品物を授けたという行為に戸惑った。その後、より詳しい解説コーナーに移った。それによると、同時代の後漢は色々な地域に主従関係の証として印を贈っており、文化的特徴が自分たちと近い民族には亀の、北方の遊牧民にはラクダの形をした物を、という風に分類していたとされる。亀とラクダは理解できる。では、我が国はなぜ蛇なのか。疑問の答えは解説パネルからは得られなかった。それも相まって、1世紀当時の先進国から見れば、倭人は野蛮で重要度の低い連中だから危険生物がその象徴に用いられたのだろうか、などと卑屈な妄想が膨らんだ。良くない深みにはまりそうだったので、退館後に「Google先生」ならぬ「Gemini先生」に質問をぶつけてみた。以下が会話内容である。
私:
亀、駱駝、蛇では、生き物のランクが違うと いうこと?
Gemini:
亀、駱駝、蛇の生き物としてのランクというよりは、与える相手の属性(地域)を象徴するものとして使い分けられていた、と考えるのが適切です。
当時の中国(漢王朝)は、自国を中心とした「華夷秩序(かいちつじょ)」という世界観を持っていました。これは、中国が世界の中心(華)であり、その周辺にいる異民族(夷)は文化的に劣っている、という考え方です。
この秩序の中で、印章の持ち手(鈕)は、与える相手が華夷秩序の中のどの位置にいるかを示す記号でした。
(中略)
• 蛇鈕
南方の異民族に与えられました。
蛇は、当時の中国では南方の湿潤な気候と結びつけられ、その地域に住む民族の象徴とされました。
日本の「漢委奴国王印」の鈕が蛇であるのは、後漢王朝が倭(日本)を南方の異民族と見なしていたことを示しています。
このように、それぞれの生き物の意匠は、単純な「ランク」の上下ではなく、「文化圏」や「地域」を分類するための記号として機能していたのです。
私:
ありがとう。なんで蛇みたいな嫌われがちな生き物がモチーフなのかが気になっていたんだよね。
Gemini:
当時の中国における「蛇」の象徴は、日本や現代のイメージとは少し異なっていました。
後漢時代の中国では、蛇は以下のような意味合いを持つ生き物として認識されていたと考えられます。
• 龍の原型・神聖な存在: 中国の神話では、蛇は神聖な生き物である「龍」の原型と考えられています。「伏羲(ふっき)」や「女媧(じょか)」といった古代の神々は、人間の顔と蛇の体を持つ姿で描かれることがあり、彼らは宇宙を創造したり、人類を創生したと信じられていました。つまり、蛇は単なる動物ではなく、神秘的で力を持った存在として崇拝されていた面もあったのです。
• 再生・生命力の象徴: 蛇は脱皮を繰り返すことから、「再生」や「不死」の象徴とされていました。また、その生命力の強さから、豊穣や繁栄といった意味合いも持っていました。
AIに回答をもらったのを機に、諸星大二郎の漫画『暗黒神話』を思い出した。古代史を題材にしたファンタジー作品であり、1970年代の日本で暮らす主人公の少年はヤマトタケルの生まれ変わりで、果てには宇宙の真理に迫る選ばれしアートマンになる宿命を負った中学生だ。(ちなみに私は本作を3回ほど読んでアニメ版も観たものの、今だに物語の意味を理解しきれていない。)彼の肩には蛇に似た形の傷跡があり、それが、永遠を生きる神に近しい存在である証の「聖痕」なのだ。また、作中には現実世界では発見されていない、邪馬台国の卑弥呼が授けられたとされる「親魏倭王」の金印もキーアイテムとして登場する。熱が入ってしまったが、ここで大事なのは漫画の内容ではなく、金印一つに好奇心や想像力、記憶を刺激された事実である。そして、自分の好きな漫画家が構想を練る上で思い浮かべた可能性がある諸々を、ほんの一片だけでも追体験できたかもしれないのが嬉しかったのだ。そういった際限なく広がっていく思考や妄想は、古代の遺物が孕んだ未解明の点と、博物館での解説が拾い上げていない疑問による産物だろう。言い換えれば、「余白」もしくは「空白」部分によるものだ。だから、私は美術館の方に惹かれるのだろう。そう考えると、着眼すべき点を提示しつつ、来場者のために自由度を確保できるような「余白」を見極めるのが学芸員の腕の見せ所なのだと改めて実感させられる。
さて、博物館が苦手な理由を少しは認識できたわけだが、今後も訪問じたいを止めるつもりは無い。旅先にあれば門をくぐってみる、くらいの頻度で、ネズミの胎盤や金印のような「お土産」を一つ持ち帰れたら良しとしよう。
2025.09.19社員のビジネス書紹介㉔
徳野のおすすめビジネス書
小鳥遊(たかなし)『ADHDの僕が苦手とされる事務にとことん向き合ってみた』大和書房
以前取り上げたアンデシュ・ハンセンの『多動脳』は、恒常的な注意散漫が起きる先天的な要因を解説した上で、ADHDの傾向が強い人が現代社会で幸福に生きていくための大きな指針を示すものだった。「幸福に」とは、苦手分野を補いつつ、本来持っている能力を発揮できている状態を指す。そして、今回取り上げる書籍は、自分の弱さと上手く付き合っていくための手引き書のような1冊だ。注意欠陥障害がある人は一般的に、事務系の仕事に向いていないとされる。ADHDの診断を下されている著者自身、深く考えないまま総務部や法務部に配属希望を出してしまい、「仕事の段取りが悪い」「納期を守れない」「相手に求められていることを理解できない」という失敗を繰り返した。そうやって周囲に迷惑をかける度に自己嫌悪に陥って心身に不調をきたし、二度の休職を経験している。だったら違う職種にしたら良いではないか、と思うかもしれないが、どんな仕事にも事務は欠かせないし、その全てを他の人にお任せできるわけではない。だから自己肯定感を下げないためにも、自身の特性を踏まえてミスを未然に防ぐ「仕組み」作りが重要になってくるのだ。
その仕組みとは、一言でまとめてしまえばスケジューリングである。単に最終締め切り日を把握するだけでなく、業務を完結させるために必要な工程を可能なかぎり細分化し、一つひとつに期日と担当者を設定する方法だ。そうやって「日割り」にするメリットは、タスクを「可視化」できるのは勿論のこと、今集中する必要の無い事を「不-可視化」できる点にもある。ADHDの傾向が強い脳では報酬系の神経が機能不全を起こしており、ゴールまでの道のりが遠い(成果報酬を即座に得られない)と感じると意欲が急降下してしまう。よって、あえて、その日に取り組むべきタスクにだけ意識が向くようなデザインの計画表を使用するのだ。また、その方が出来た事を少しずつ積み重ねている達成感が生まれやすい。
本作のコンセプトとの関係上、今回の紹介文には「ADHD」という言葉が何度も登場している。だが、たとえ診断を下されていなくとも、効率性が求められる単純作業や、アイデアを実行するための地道な業務に苦手意識を抱く人は世の中に沢山存在する。私自身、まさしくそれに当てはまる。そして、要領良くこなせない己を責めるばかりで悪循環にはまっている人も少なくない。しかしながら、それは本当の意味での「反省」とは言えない。上手く行かないなら具体的に何をするか、些細な工夫でも何かしら着手してみる姿勢が大事なのだと教えてくれる1冊だ。
三浦のおすすめビジネス書
増子裕介、増村岳史『ハイパフォーマー思考 高い成果を出し続ける人に共通する7つの思考・行動様式』ディスカヴァー・トゥエンティワン
ハイパフォーマーを分析し、その「スキル」ではなく「思考・行動様式」をエッセンスとして抜き出し、あらゆる業種に共通しているポイントについて解説しているのが本書である。本書ではコンピューターにたとえ、スキルをアプリ、思考・行動様式をOSと称し、後付けで身に着けられるスキルではなくその根っこになる部分について見習う方が根本的なパフォーマンスの上昇に繋がると述べている。実例として、電通インドネシア拠点でのエピソードが挙げられており、そこでのハイパフォーマーの特徴であった「他部門にも積極的にかかわる」「賞を狙うよりも顧客を最優先にする」というポイントを評価制度に組み込んだところ、クライアントの投票で決まる広告企業としてのグランプリにおいて、二位以下が発表されないほどダントツの一位になったそうだ。
その組織特有のエッセンスもあれば、共通するエッセンスもある。この共通を本書では7つのポイントでまとめているのだが、わかりやすいのは自主的に行動する「プレイヤー」であれ、ということだろう。プレイするためには何が必要かを進みながら振り返り、身に着け、時には俯瞰する。ただの労働者ではなく、楽しみながら取り組むことがあらゆるハイパフォーマーに共通していたそうだ。具体例として、コールセンターで解決できなかったクレームに対して訪問して解決するカスタマーセンターの方の話が載っていたが、顧客の怒りを受け止めつつも相手や周囲を観察し、最終的には円満に解決することに楽しみを見出していた。向き不向きはもちろんあり、それを見極めることも重要だろうが、物事は見方や取り組み方次第でいくらでも楽しくなるのだということがよくわかる。
また、この「分析」の手法も興味深かった。90分のインタビューの後、文字起こしした原稿から人力でエッセンスを抽出し、複数人のそれを並べてグループ分けしていくそうだ。いずれもAIではまったくの力不足だったと語っている。「何が重要か」を見極めるのは、まだ人にしかできないらしい。そしてたとえば、90分のインタビュー時間を与えられ、私は果たしてしっかり相手を掘り下げられるだろうか。そう考えると、インタビュー記事などを見て学んだ方がいい気もした。
竹内のおすすめビジネス書
レンタルなんもしない人『<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。スペックゼロでお金と人間関係をめぐって考えたこと』河出書房
まだXがツイッターだった頃から、「レンタルなんもしない人」は活動していた。フォローはしていないが、おすすめ欄に時々流れてくる投稿を通してその存在は知っていた。入りにくい店についてきてほしい、場所取りをしてほしい、といった1人分の存在が必要な場面でそれを提供するというサービスだ。それゆえに自身から積極的に会話をすることはなく、簡単な受け答えしかしない。そんなの流行るのか、と思われるかもしれないが、今日の時点でXフォロワー数は41万人を越えている。
依頼内容を大きく分類すると一緒に店に行く「同行」や、相手の話を聞く「同席」、相手の作業の傍らで待機する「見守り」の3種類になるのだが、例えば相手の希望する時間に指定された文言をメールで送信することは「見守り」に近いものの「リマインド」の意味を持っている。ある程度のことはしているので「なんもしない」の定義はやや曖昧ではあるのだが、能動的な働きかけを行わないというのが根底にある。筆者自身がこの活動を続けてきた中で予想外だったことの一つは、「なにもしない」ということが相手に影響を及ぼしているということである。「長年散らかしてしまった部屋を掃除するので見ていてほしい」という依頼では、「人が家に来るから」という理由で、筆者が到着する前にあらかた片付いていることもしばしばあるという。アドバイスをされずとも、聞き役がいるだけで心の整理がつくことは想像に難くない。また、SNSならではの話だが、「一般参賀に同行してほしい」という依頼が集中したものの筆者自身の都合で断らざるを得なかったということを発信すると、結果その依頼者同士で向かうことになった、ということもある。このようなことから筆者は自身の存在の役割を「触媒」と表現している。関わらなくてもいつかは当人たちがその行動を起こしていたかもしれないけれど、少しだけその日を早めることに寄与しているのだ。
仲の良い人だからこそ、こんなお願いはしにくい、こんな話はできない、というものはある。困らせたくないとか、心配をかけたくないとか、こんな自分は見せられないとか。人間の距離感は難しい。友人知人には言えないけれど、電車でたまたま隣になった人なら良いのかと言えばそれももちろん違う。他人だけれど、一瞬だけ自分の重荷を一緒に持ってくれる、そういう相手でなければ成立しえない。距離を無理に近づけることよりも、「自分がどのような人間なのか」を見せることの方が、よっぽど関係性の構築につながるようだ。
2025.09.12Vol.70 城の崎より(三浦)
今回の作文は、城崎の旅行記のようなものだ。一人旅である。元来、どちらかといえば、一人で何処かに出かけることを厭うタイプではない。ひとり焼肉、ひとりカラオケ、ひとり城崎。ひとりテーマパークはまだ機会がないが、そのうち達成してしまうかもしれない。東京に出かけた際も、現地の友人の都合がつかないときは日がな一日土地勘のない都会をあてどなく徘徊しまくっていたこともあるので、気ままな一人旅は嫌いではない。
城崎といえば、真っ先に浮かぶのは志賀直哉の「城の崎にて」だった。今回のタイトルも少しそれに倣っている。教科書に載っていたこともあって幾度か読んでいるはずだが、子どもが鼠をいたずらに死なせる場面の印象が強すぎて、それ以外の記憶はおぼろげであった。それでもまあ天下の志賀直哉だし、そして案の定城崎文芸館もあるし、と、今回の一泊二日の旅行に踏み切った。
文芸館の休館日だけ調べて、素泊まりの宿と電車の切符だけを買ってのこのこと出かけて行ったのは八月末だ。大阪から城崎温泉までは特急電車で三時間弱、姫路を過ぎたあたりからは時折普通列車かと勘違いするほどの速度での走行もあり、見渡す限りの自然の中をのんびりと進んでいく。なんというか、そういったところにも旅情があった。夏はシーズン外なこともあってかそれほど人は多くなかった。外国人観光客もさぞ多いだろうと踏んでいたのだが、実際には現地でも時折見かけるくらいだった。ただ、宿泊した宿では海外の人が働いており、その割合も多いような気がした。働き手不足の影響もあるのかもしれない。素泊まりのできる宿が増えたのも、飲食と宿を別にすることで宿泊客を多く受け入れることができるというのがあるらしい。
さて、話を戻す。まずは城崎といえば城崎温泉、外湯巡りだろう。個人的に大衆風呂というものに苦手意識があったため、宿を取れば入り放題のパスがついてくる、とあっても巡る気はさらさらなかったのだが、特にやることもないので思いつきで足を運んでみることにした。結果的にはものすごく楽しくて、七つの外湯のうち、定休日の関係で難しかったものだけを除いて、結果的には六つは回った。そのうち一つは雨宿りも兼ねて二回、一つは朝一番に向かったので、なかなかのハマり具合だったかもしれない。
私は視力が弱いので、眼鏡を外すと何もかもがぼやける。その状態で温泉に入るのだが、驚くほど何も見えず、かえってすべてが新鮮なのだ。近づかないと掲示されている字が読めないので片っ端から近づいていく。人の顔もよく見えないので、人を意識することもなく、そして意識されているとも思わない。それが個人的にとても気楽な距離感だった。先ほど「雨宿り」と書いたが、突発的な雨の多い時期だったので、露天風呂で30分ほどぼんやりと時間を潰したことがあった。露天風呂の端、屋根のある下に皆が静かに並んで湯に浸かり、雨の打ち付ける水面を眺める。時折雨をものともしない人がふらりと中心まで出ていく。雨の影響で少し温度の下がった湯も含め、その時間と経験がとても印象深く、城崎のことを思い出そうとするとまずそれが浮かんでくるし、これからしばらくはそうなのだろう。あと、温泉は問答無用でスマホなどの機械に触れないので、そういう意味でもデジタルデトックスになった。温泉にはそういった効用もある。
もう一つの目的である文芸館は、志賀直哉や志賀に勧められて訪れた彼の友人に関する展示がほとんどだろうと思っていたが、「城崎を訪れ、作品に残した文芸人」という枠組みではかなりの人数についてのパネルがあり、温泉街というものの強みを感じた。実際、街中にも吉田兼好や松尾芭蕉、島崎藤村などの文学碑が多く点在している。もちろんそういった展示も面白かったのだが、特に興味を惹かれたのは約百年前、北但大震災によって城崎が火災に見舞われたこと、そこからの復興の足跡だった。当時の状況はひどく、山に逃げてもそこまで火の手が回り助からなかったともあった。だが、温泉があれば復興できると立ち上がり、まずは教育を軸にと子供を集めて学校を真っ先に開いたり、人々が自身の土地を譲ることで道路を広くしたり(道がふさがったことで救助が遅れていた)、建物は景観のためにも木造主体での再建をしたりと、多くのことを乗り越えたのだそうだ。当時の城崎を訪れた島崎藤村の作品が記されており、至る所に足場がかかっていることや、それでも温泉街として既に機能していることなどが書かれていた。後から調べたところ、『山陰土産』という作品らしい。今年のGWにも城崎では火災が発生していたが、八月末には一見してわかるような名残はなかった。もしかしたらあったのかもしれないが、そう思わせない穏やかな活気の方が勝っていた。これは百年前もそうだったのだろう、きっと。
文芸館でありのままに書く旅行記というものに憧れ、帰路の電車からゆっくりと書き進め始めたはずが、気づけば数週間経っていた。城崎は文学の町として、湊かなえや万城目学の「城崎限定」短編小説を発売している。まだ読んでいないそれが手元にあるのだが、タオル生地でできた特別製の表紙を撫でつつ、いまだに温泉に思いを馳せている。
2025.09.05Vol.69 師匠の奥義(西北校・土屋)
私の記憶に残る作文の師匠は、ある全国紙で社会部デスクをしていたF氏である。他にも数人携わってくれた人はいたが、「師匠」と呼べるのは彼が唯一無二で、心の原風景に存在している。
もう30年も前の事、新聞社を目指して就活していた私は、大学生活と併行して、マスコミ志望者向けの予備校に通っていた。入社試験では特に論作文の配点が高く、F氏はそこで“アルバイト講師”をしていた。全国紙のデスクという本職とそのような副業を兼務してよかったのかどうか、今でも定かではないのだが、F氏には枠に囚われない大らかさがあり、それだけに夢を持つ若者たちの面倒見もよかった。授業の後には決まって、希望する学生たちを引き連れて、近くの喫茶店で「講評茶会」を開いてくれた。一つのテーマで各々が書いたものを、学生同士で交換して読み合い、感想を語り合う機会を与えてくれたのだが、同じお題でもこんなにも異なる切り口があるのかと興味津々になったのを覚えている。何よりも一人ひとりに、時に冗談を交えながら、それでいて適切なアドバイスをしてくれるのが、楽しく、有難かった。
勿論私はこの会の常連で、F氏の出来るだけ近くに座を占め、一言一句漏らさぬように耳を傾けていた。先生は大抵私の書いたものを面白がり、次の頑張りに繋がるような声掛けをしてくれた。しかしある日の小論文では、渋い表情だった。確か「男女雇用機会均等法」をテーマに、「これからの社会に求められることを述べよ」というような設問だった。私は女性の社会進出が進んでいくことへの期待や喜びを綴り、「だからこそ、女性であることに甘え、全体を乱してはならない。そのようなことがあれば次世代の女性たちの行く手を阻んでしまう」といったような事柄を述べた記憶がある。
何ともレトロで全体主義的な論調である。性にせよ人種にせよ、あらたな属性が加わるということは、これまで通りとはいかず、構造的なイノベーションを必要とする。大きな困難を伴うが、それを超えて行く中で人々の意識は徐々に変化し、組織として新たな展望も生まれる。様々な特性を持った人が生きやすく、活かしやすくなる、といった事である。上の作文は旧来の枠に自らの性を押し込め、まるで古めかしい男性の仮面を被っているようである。
だが無理もなかったのかも知れない。この法律が施行されてからまだ5年未満の頃で、育児休業法は審議の途中、出産・育児などを理由とした不利益取り扱い(出産で休暇を取った後、その人の座がなくなっていたなどといったこと)も「禁止項目」にはなっておらず、「努力義務」だった。新聞社のセミナー後の懇親会でも、「成績が優秀なのは断然女子。でも(採用しても)子供を産むからな…」というような呟きを耳にしたこともあった。そんな時代に、男性が大多数の組織に所属し夢を叶え続ける事を、勢いばかりが有り余った未熟な頭で、懸命に考えた末に辿り着いた解答だった。
F氏は磊落な大声のいつもとは異なり、低く重みのある口調で、次のような助言をしてくれた。「君は女性なんだから、もっと女性に寄り添った物の見方をせんとあかんで。これなら男の論理で男が書いた文章と変わらん。女性の視点が入ってない」。銀縁眼鏡の奥の、細く鋭い目に見据えられた。
しかし当時の私には、その言葉の意味が理解できなかった。それどころか、「女性なんだから」「女性の視点で」との言い回しが、ジェンダーに境界線を引くようでF氏らしくないと、浅はかにも、言葉尻だけを捉えて少々気分を損ねていた。しかし彼の言葉に込められたメッセージを、私はその後、身をもって体験することになったのだった。
社会へ飛び出し、念願叶って地方にある新聞社に入社した。本社から離れた或る地域へ、“その支社初の女性記者”として赴任することになった。
着任から1カ月足らずの間に、難題が次々と降りかかってきた。最も困難に感じていたのは、私の指導役の先輩(一定の地位にあるオジサン)が、「女は嫌だ」と受け入れ姿勢を示してくれない事だった。事件や事故を告げる「緊急」の呼び出しに、駆け付けると何もなく、深夜に何軒も飲みに連れ回されることが度々あった。途中で断ると「男と同等じゃないな。お前の原稿は見ないからな」が決まり文句だった。要は「セクハラ」と「パワハラ」がセットになって飛んできたのだが、前者は定義がまだ曖昧で、後者は用語さえなく(提唱されていなかった)、この身に伸し掛かる不本意な諸々が何なのか分からず苦しんだ。言葉がないという事は恐ろしい。
その先輩と2人で詰める初の夜勤の前日に、上のような状況に対処して貰いたくて、上役に相談した。仕事をきちんと覚えたかったのだった。返答はすぐだった。「明日は会社を休んでくれないかい。腹痛とかで」。周囲は一様に無表情で、業務を進めていた。見て見ぬふりという風だった。そんな状況が何年か続き、私は社内で自分の考え、つまり「声」を出さなくなった。出せなくなった、のだった。
F氏の事は折に触れ脳裏を掠めたが、彼の言葉の意味が分かるようになるのには、実はそれから更に数十年を要した。巻き返しを図ろうとその後、同業他社へ入社し直し、結婚、出産、慌ただしい保育園の送迎、頼みの綱の実母の病気、退職、子育て、晩年の母の介護、そして看取り。一つひとつを経験し、少しずつ身に染みてきた。そしてある時、記憶の襞に潜んでいた、助言の続きが蘇った。
「色んな声を拾わないと。大きい声は自然に耳に入ってくるけど、それだけ聞いてても、問題の本質は見えへんで。君は少数派として社会へ出て行くんだから、小さな声を拾わんと、何も変わらんよ。誰がするの?」。
「志高塾」にご縁を頂き、勤務して6年以上が経つ。F氏の言葉は、今では座右の銘となっている。
「君、複眼を持って物事を見ているか?傾聴してるか?」。
生徒たちの意見作文などの添削をしている時、それは蘇り、私の中に生きている。








