
                 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月            
2025.10.31Vol.74 世の中、綺麗ごとが要るときだってある
 先週末にふと思い立って、高槻校にあった灰谷健次郎の『兎の眼』を手に取ってみた。本当は沖縄戦のPTSDを題材にした『太陽の子』を探していたものの、見つからなかったので代わりに読んでみた次第である。灰谷健次郎。恥ずかしながら、存在を知ったのは成人してからのことだ。それこそ教室の本棚に収められている著作を通して彼の名前を認識したくらいで、しかも「初対面」からおそらく5年が過ぎても、本の背表紙をたまに一瞥する程度の興味しか向けてこなかった。生徒が借りている姿を目にした記憶も無い。それくらい私の人生に関わってこない作家だった。
 さて、肝心の『兎の眼』については、完全に油断していた。まさか、ブログに取り上げるほど心打たれるとは予想だにしていなかったのだ。331ページある本作を閉じる頃には、いつの間にか2時間が経過していた。完全に個人的な動機から選んだ作品の中で、そこまでの勢いで一気読みしたのは、2年前に夢中になった桐野夏生の『グロテスク』以来である。  というわけで、今回のブログは『兎の眼』の書評のような内容になる。まずは、あらすじから。
 舞台は高度経済成長期の関西のとある街。主人公の小谷先生は、公立小学校に勤める女性教師である。22歳の新任の身で1年学級を担任しているものの、いわゆる箱入り娘で、想定外のトラブルに対して大変打たれ弱い。特に受け持ちのクラスにいる鉄三という少年への接し方に苦悩している。
 鉄三は、ごみ処理場の非正規労働者である祖父と二人で細々と暮らしている。生育環境はやや特殊なのかもしれないが、穏やかな祖父からは深い愛情を注がれている。しかし、学校でも家庭でも言葉をほぼ発しない。授業中もぼんやりしているかと思えば、周囲の人間にいきなり襲いかかり、流血沙汰に発展することも少なくない。
 そんな掴みどころの無い鉄三に振り回される小谷先生は、社会人になって3か月で早くも仕事への希望を失いかけていた。だが、型破りでありながら優秀な先輩教員の足立先生から「あのような子にこそタカラモノがたくさん詰まっている」という言葉を投げかけられたのを機に、鉄三にとことん向き合い始めるのだった。
 ここまでの情報を元にChatGPTに結末を予想させたところ、「小谷先生との交流を通して鉄三が自分の殻を破り、言葉を使って他者と関係性を築くまでに成長する」という方向性を提示してきた。ほぼ正解である。正直、よくあるタイプの物語構成ではある。そして、具体的に「ネタばらし」をすると、小谷先生は家庭訪問を重ねるうちに鉄三がありとあらゆるハエを飼育し、種ごとの生態の大まかな違いを自然と把握していることを知る。それがまさに「タカラモノ」だったのだが、良くも悪くも常識人の小谷先生は初め、「ハエなんて不潔だからやめさせないと」と画策して痛い目に遭ってしまう。だが、鉄三が彼なりに衛生面に配慮している事実を近所の子どもたちから教えられた小谷先生は、まずは自身の無知を自覚し、放課後、鉄三をハエの系統立てた研究に誘う。その過程で図鑑で調べた虫の種名を分類ラベルに記入したり、形態観察のためのデッサンをしたりすることを通して、文字の読み書きや図画工作の技術を地道に習得させていった。そして、最終的には、学校の授業でハエに関連しないテーマの作文を自ら書き上げるまでになった。その締めに記されていた「こたにせんせもすき(小谷先生も好き)」という一文を読み上げた小谷先生は、生徒たちの前で感激の涙をこらえられなくなった。ちなみに、ここで取り上げたのは小谷先生の奮闘のほんの一部に過ぎない。作中では、子どもたちが能動的に学び、誰かのために行動することに喜びを見出せるような教育実践の数々が生き生きと描かれている。国から求められて「探究学習」やら「アクティブラーニング」やらを構想するのとは一味違う。読んでいるだけで生徒の一員に加わりたくなるほど知的好奇心をくすぐられるようなアイデア群は、職業作家になる前は教壇に17年間立ち続けた灰谷だからこそ出せたものだろう。
 掛け値なしに素敵な物語である。一方で、その魅力をまっすぐに受け止められない、いや、受け止めるだけではいけない、と思う自分もいる。例えば、小谷先生や足立先生は度々、学校での勤務後に夜遅くまで生徒の家に滞在している。それが原因で小谷先生と夫の関係は悪化の一途を辿ったものの、彼女の中にある「家庭より、子どもたちとの絆」という軸は最後までぶれなかった。そういった、自発的とはいえ「滅私奉公」を地で行くような言動は現代の価値観にはそぐわない。だから1974年に発表された本作および作者である灰谷の名前は、昨今の教育関係者の間で取り上げられにくいのではないか。中学受験向けの読解教材でも見かけた記憶が無い。また、個人的に違和感を覚えたのは、登場する教員たちが事務のために机に向かっている姿が描かれていない点だ。アナログが基本の時代が舞台なので煩雑な作業は沢山あったはずで、当の灰谷だって愚痴をこぼしつつ処理していたかもしれないのだ。「教師の労働環境」が主題ではないので、職員室での地味な業務に字数を割く必要性など無いとは理解できる。だが、生徒との触れ合いや、教材研究および授業計画、つまり志のある教員であれば誰もが打ち込みたいと思っているような仕事に心血を注ぐ場面を「切り取って」いるような印象は否めない。そこに現状との乖離を感じて、「小谷先生みたいにやるのは到底無理だよね」という風に、作品に対してだけでなく学校教育そのものにやや冷めた気持ちを抱く人も少なくないはずだ。
 今回の文章を執筆するにあたり、「読書メーター」に寄せられたレビューに一通り目を通してみた。50年以上の歴史がある児童文学なので「名作」「心が温まる」という評価がずらりと並んでいたのだが、時折目に付いたのは「だけど、出てくる子どもたちが良い子すぎる。現実味が薄い。」という指摘である。確かに、小谷先生と鉄三との関わりが深い小学生たちは、揃いも揃ってお行儀が良いとは言えないものの、逞しく善良な性格で、信頼を寄せる大人の前では素直に振舞う。極端に無口なせいでクラスで孤立している鉄三に対しても、下手に気を使いすぎることなく自分たちの輪の中に自然と溶け込ませている。鉄三が人間嫌いにならずに済んだのは、小谷先生は勿論のこと、気の置けない同年代の仲間の存在も大きいのだろう。だが、それは、小谷先生や灰谷健次郎という大人、しかも(元)教師の目を通して表現された優しさではある。作者の「子どもにはこうあってほしい」という願望、もしくは「こうあるべきだ」という信念が背後にあるはずだと考えれば、その強さに「圧」、言い換えれば、正論への息苦しさのようなものを感じ取る読者層が一定数いるのだ。私の主観になるが「圧」に関して実際の子どもたちは敏感である。だから、読んではみたもののさほど響かなかった、という本音が彼らから出てきても不思議ではない。そして、本を紹介する側の大人としては、ややネガティブな感想も「そうか、こういうタイプの作品はしっくり来ないか」と、その子に対する解像度を高める材料くらいに位置付けておけばいいと捉えている。
 ミリオンセラーの傑作だってやろうと思えばいくらだって「叩ける」。だけど、『兎の眼』が(令和の私たちの視点では)現実離れしていて、登場する子どもたちの人物設定にやや偏りがあると頭で分かっても、私は作品を読み終えた時のあの瑞々しい感動を忘れたくない。小学生と接する者の端くれとしては、子どもの等身大の姿を受け止めつつ彼らが内に秘めている可能性を「信じ抜いて」みせた小谷先生や足立先生の覚悟から胸に迫ってくるものを感じた。そして、元教員の灰谷も、子どもたちの知性と善性に信頼を寄せてきたからこそ「良い子」の姿をまっすぐに表現できたはずだ。私は、都合の良い「期待」とは違う意味で、生徒のことを本当に「信じて」あげられているだろうか。思わず我が身を振り返ってしまう。
 最後に、作中で「問題行動」を起こした「きみ」という女子生徒について足立先生が語った言葉を引用しておく。
 「きみは悪いことをしたと思ってあやまっているわけやあらへん。すきな先生がきて、なんやら、やめなさいというているらしい。地球の上でたったひとりかふたり残ったすきな人がやめとけいうとる。しゃーないワ。きみの気持ちはそんなところやろ」。








