
2019.07.30Vol.408 if I were a bird
開校当初、西宮北口駅の反対側に教室はあった。外階段のついた3階建ての戸建ての1階に大家さん親子が住んでおられ、2階と3階を貸し出していた。我々は2階を間借りしていた。おそらく3年目のことだったはずなのだが、クリスマスイブの朝、教室に行くと門扉のところに黄色いテープが張られ、その前に警官が立っていた。大家さんの30代の息子が自分の家に放火したのだ。1階は全焼に近い状態であったものの、教室はどうにか難を逃れた。2階に上がり、まずは換気のためにすべての窓を解放した。すると、隣接するアパートの割れた窓から、若い女の人が「なんで、こんな日にこんな目にあわないといけないのよ」と言いながら、ぬいぐるみか何かをベッドに投げつけている姿が目に入った。「そりゃ、そうなるわなぁ。今晩デートでもあったんやろな」と思ったのを今でも鮮明に覚えている。それが、クリスマスイブだと覚えている理由である。
さて、ここからが本題。このとき、親御様への電話は手分けせずに、すべて私自身が行った。自分がすべき仕事だと考えたからだ。それは、大学生の頃か社会に出たての頃に読んだ、三洋電機の創業者の井植歳男の自伝に起因している。初めての自社工場を建設し、さあこれから、というときに、工場が全焼した。関東か東北に出向いていたときにその事実を知り、当然のことながらとんぼ帰りをした。怒られることを覚悟していた工場の人たちへの第一声が「周りの人に迷惑をかけなかったか」というものであった。こういうとき、私は「自分だったら、同じようにできるだろうか」と考える。それは疑問形を取っているだけで、「自分にはこれはできない」という答えが予め用意されている。上の2つの事柄に火事以外の共通点はない。ただ、何か問題が生じたときの組織のトップの振る舞い方というのは、そこから学んだことは間違いない。
「もしも、自分だったら」という思考は、一体いつから始まったのだろうか、とこの数日考えていて、たどり着いたのが、小学生の頃に読んだ『怪物キヨマー!』である。清原和博が、プロの世界に入って2年目か3年目に出版されたものである。小学生の頃、ランニング中にグラウンドに落ちていた釘を踏み付け、「誰やこんなところに捨てたんわ」と文句を言った清原に、当時の監督が「お前が不注意やからそんなことになるんや」と叱り飛ばした、というエピソードがあった。それからも私は何か問題があれば、親に言いがかりをつけるなど、人のせいにしまくっていたが、そのことが頭から消え去ることはなかった。経営者が「あいつは使えない」と口にしたりするが、私にはそれが信じられない。「使える」「使えない」という言葉が嫌いなので、それ自体を「使わない」し、そもそもそういう考え方自体をしない。納得の行く働きをしてくれない人を雇ったのであれば、それは「仕事内容も含めて魅力的な組織ではないので、良い人が集まらない」、「待遇が良くないので、良い人が集まらない」、「人を見る目がないので、良い人とそうでない人の判断ができない」のどれかが原因なのだ。そして、それらはすべて自分の責任である。誰かのせいにすれば、その瞬間の心の負担は軽減されるかもしれないが、根本的な解決につながらず、その先でもっと大きな問題を抱えることになる。もし、そうなれば責任を持ってその人を育てる以外に方法はないのだ。そうでなければ、子供たちが被害者になってしまう。
吉本の闇営業問題。この問題に対して、私が持論を展開してもしょうがないし。ただ、会見を見ていて私が思ったのは、泣くのはみっともないということ。今の時代は言葉を選ぶ必要があるのだが、あえてそれを無視すれば「男だから」ではない。「大人だから」というのとも少し違う。もし、私があのような会見をしたら、我が子はどう感じるのだろうか、というのが来る。もちろん、私を一人の大人と見ている生徒がいれば、彼らに対しても申し訳ない。子供たちにも生徒たちにも立派な大人を演じているわけではなく、できないことがたくさんあることを見せることには何の抵抗もない。むしろ、積極的に披露していると言ってもいいかもしれない。たとえば、半年ほど前に国語の授業で、小学生から「なんで先生これが分からへんの?」と突っ込まれて、「すべてができるわけではない。模範解答を見ながらそれっぽく教えるよりかはましなはず(もちろん、しっかりとした準備をした上で、生徒が納得できるように教えるのがベストなのだが)」と返した。だが、みっともない、というのは話が少し違う。もし、密室で関係者だけで話し合いが行われるのであれば、私も泣いて土下座をして許しを請うかもしれないが、衆人環視の中ではそれはできない。以前、北野武が90代の母を亡くしたときに大号泣していた。客観的に見れば「大往生」ということになるのであろうが、当人にとってはそうではないのだろうな、と思いながら眺めていて、何となくその気持ちが分かるような気がした。泣くことがいけないのではない。自分の失態に対して、というのは情けない。それに対しては「大の大人が」となる。
身近で起こった出来事に対して、自分ならどうするだろうか、という問いを重ねることで、自分らしい自分、自分が納得の行く自分、そういう自己を確立していってほしい。私も前を見据えてその道を歩き続けている。自分のため、息子たちのため、生徒たちのため。
2019.07.23Vol.407 せこいわけではございません
時給を上げてもらえませんか。大学3回生の女の子からお願いされた。そのときは、授業前で十分な時間がなかったこともあり、現時点で上げる気がまったくないことを伝えた上で、いくつかその理由を列挙した。こういうことに関して、思わせぶりなのは良くない。ちなみに、時給は1,500円から始まり、300時間授業に入るごとに100円ずつ上がっていき、上限を2,000円に設定している。これは学生であろうが社会人経験があろうが同じである。
中途半端な状態で終わっていたので、その次に会った時にもう少し整理をして、私の考えを詳しく述べた。変更する予定がない一番の理由は、現時点で優秀な人が雇えているから。特に、この1年は採用がかなりうまく行っている。その状態で、わざわざ時給を上げるなんてもったいない、と考えているわけではない。献血はお金が支払うれるようになると逆にそれを行う人が減る、という話がある。人の役に立ちたくてやっていた人が逆に敬遠してしまうのだ。100人が70人になるとしたら、元の100人から30人減ったのではなく、80人減って20人なり、そこにお金目当ての50人が新たに加わるという感じではないだろうか。この数字には何の根拠もなく、私の勝手な想像である。私が恐れているのはそのことである。仮に今より300円上げたとしたら、応募して来る層が変わりそうな気がするのだ。
「志高塾を選ばれた理由は何でしょうか?」
「他よりも、時給が高かったからです」
「それ以外には?」
「・・・・」
面接で、こんなやり取りをするのはごめんである。
2つ目の理由。先の段落で「300円上げる」と書いたが、300円は1,500円の20%である。その余裕は十分にある。時々書くことなのだが、我々は講師をかなり分厚く当てるようにしている。この一年間で新しく採用した講師が多いので、それに拍車がかかっている。「生徒2人に1人の講師」と謳っているので、生徒が4人であれば講師2人、6人であれば3人で条件を満たしていることになる。しかし、実際は2人ではなく3人、3人ではなく4人入っていることの方が圧倒的に多く、計算上人件費はそれぞれ50%, 33%増しになっている。それを削って最低限の人数まで絞れば、20%増しにしてもお釣りは来るのだ。しかし、話はそれほど単純ではない。それを実現するためには、勤務日数を減らすか、講師の人を減らすかのどちらかを実行する必要がある。前者は一時期よく耳にしたワークシェアリングである。横文字にするとそれっぽい感じが出るが、これは仕事ではなく給与を分けているだけの話で(それであれば、サラリーシェアリングと呼ぶべきである)、雇用する側の、閑散期に人件費を抑え、かつ繁忙期のために人を囲っておきたいという都合のいい考えなのだ。もちろん、働いている人にも優しいワークシェアリングが無いわけではないだろうが。他方、講師を減らすとどうなるか。現状、各人の希望日数より多く出勤してもらうことは皆無であるが、それによって、週1日しか入りたくない講師に3日来てもらうことになるかもしれない。すると、無理がたたって辞めることにつながる。それを補うにも人的な余裕がないから、新たに採用することになる。右も左も分からない人が、いきなり相応の負担を負うことになるのだ。こんな状態で、どうやって質の高い教育を提供できるのだろうか。
3つ目。「この1年は採用がかなりうまく行っている」と述べたが、採用に以前よりもお金を掛けるようになったことがその一因である。学生向けのサイトは、上からA, B, Cの3つのランクに分かれており、BからAに変更した。上位に掲載される分、料金は当然高くなる。それ以外に新たに成果報酬型のサイトを利用するようになった。正直、これに関しては、悪魔が、耳元でささやくというレベルではなく、周りの人にも聞こえるぐらいの声で話しかけてくるのだ。「ばれへんて。みんなも結構やってるからお前も一度やったら」と。成果報酬型と言うのは、我々がたとえば「Aさんを雇いました」と報告しない限り費用は発生しない。それを防ぐ一つの方法として、報奨金制度がある。先のAさんが「採用されました」と運営会社に通知すれば、一定金額が支払われる仕組みになっているのだ。私が個人的にAさんに連絡を取り、「うちで働くことは内緒にしておいてください。その代わり、報奨金の2倍払いますから」と持ち掛け了承が得られれば、出費をかなり抑えられる。「1回ぐらいやったらいいか」とならないのは、私が約束を守る人間だからではない。新しい職場で働く前は、それでなくても不安などがあるのに、上のようなせこい提案をされた日には「あまり期待せんとこ。嫌ならすぐに辞めればいいし」という気分になってしまいかねない。もちろん、その割を食うのは、生徒であり、お子様を預けてくださっている親御様である。
教育の質を上げるために、どこで数字上の無駄をポジティブに発生させるかということについては、それなりに考えているという自負がある。一般的に言われるように、利益を最大化するのが経営者の務めであるなら、私は全く持ってその責務を果たしていないことになる。ただ、「経営者」の前に「教育に関わる事業の」というのが付けば、私のしていることはそれほど間違えていないはずである。時々、思う。教育以外の仕事をしていたら、限りなくブラックに近いグレーゾーンの仕事をたくさんやってやるのになーって。
2019.07.16Vol.406 我が子育て記
先週、幼稚園のPTAの元役員たちの同窓会に顔を出してきた。1年前に続き2回目である。参加したのはお母さん5人と私。着くなり、あるお母さんが「松蔭さん、信者が1人増えましたよ」と言うので、何のことかと思ったら、そこにいた1人のお母さんが最近ブログを読み始めた、ということであった。しかし、この話にはオチがあって、以前は読んでくれていた1人のお母さんが逆に読まなくなったことが後から判明したので、実際は±0。私の文章を読みなが「うんうん、私の子育ては間違えていない」という確認をしてもらえているとのこと。「ただで読めていいです」ということを何度か口にしていたのだが、価値が無いと判断すれば無料であってもわざわざサイトを訪れないので嬉しいことである。昨日、中学受験とともに卒業した現在高2の男の子のお母様とラインのやり取りをしていた。「困ったことがあったらいつでも言ってくださいね」と伝えていたこともあり、「昨日『松蔭先生に教えてもらうかな』とブツブツ言っていました」という報告をいただいた。私の教室までは片道1時間かかる。それゆえ、コンスタントに通うのは難しいので夏期講習の期間など時間に余裕があるときに力になれれば幸いである。今回、久しぶりに息子の話をメインテーマにしようとしたのは、先の入信者のお母さんが「時々、登場する子供の話を読んで、当時のお子さんのこと(二男の同級生のお母さんなので)を思い出しています」と漏らしていたから。始まり始まり。
先週の木曜日の昼頃、夕方から大雨の予報だったので妻に「今日の(長男の)サッカーどうすんの?」と尋ねると、案の定「今日は雨がひどいから休ませる」と返って来た。「他の上手い子と同じように休んでどうするん。人が少ないときに行ったら、下手くそやから日頃はコーチに目を掛けてもらえてなくても『おう、よう頑張って来たな』ってなるやん。落雷の危険があれば話は別やけど、大雨やったら気を付けて行かせたらいいねん(片道30分ぐらいかけて一人自転車で通っている)」と話した。結局練習に行ったのだが、予報は外れて小雨だったため結局たくさん来ていたとのこと。残念である。その日、仕事からの帰宅後、上の話を長男に伝えた。「『どこやったら自分は頑張れるか』というのをよく考えて行動せなアカン」ということを説明した。それは何も頑張っている振りをすればいいということではなく、よくできる人と同じことをしていても駄目ということを分かって欲しかったのだ。休みの日に一人で練習をするのが理想なのだが、現時点でそれはあまり期待できないので、せめてそれぐらいはしなさい、ということである。こういうことは1回聞いて理解できるものではないので、折に触れて話す必要がある。
二男は、ノート1ページ分、自分で興味のあることを調べて、それを毎日先生に提出している。「余裕がある人はやってください」という先生の言葉に反応してそのようにしているのだ。欠かさずにやっているのは我が子だけらしく、褒められているとのこと。一方で、覚えればできるような学校の漢字テストなどで、よく間違えている。リビングのテーブルに無造作にどさっと置かれているプリントに目を通して驚かされることが少なくない。その2つのことを踏まえて「テストでちゃんと点数を取れないのに、そういうことだけやっても意味がない」と話した。それは、どちらか1つをするならテストにつながる勉強を選びなさい、そちらの方が大事だ、という意味ではない。調べ学習を自分だけ継続していることが誇らしいのであれば、それをそのままにした上で、覚えることなどの地道なことをしなさい、ということを伝えたかったのだ。何かを調べるといっても3年生のやることなので、いろいろな資料を突き合わせて、そこから自分なりの結論を導くわけではなく、どこかに書いてあることをただ写しているだけのレベルである。手で書いているだけで、単なるコピペに過ぎない。私は高1の最初の半年間で、入学時に学校から配られた大学入試向けの英単語の本に載っているものを完璧に覚えた。それ以降は、いつどのタイミングで問題を出されても9割は取れるぐらい頭に残し続けた。帰りはクラブの友達と一緒だったものの、行きは一人なので、満員電車に揺られている30分を有効活用していたのだ。右手で吊革をしっかりと掴み、左手の本を頭より高い位置に持って来るという中々苦しい体勢であった。その頃の私をモチーフにした現代版の二宮尊徳像が作製されたら、妙に体くねらせながら、少しの時間も無駄にしない学生、というイメージを醸し出せる自信はある。当時、ただ立っているだけの同級生を見ながら「いやぁ、俺って頑張ってるなぁ」と一人いい気分に浸っていたのだが、英語ができるわけではなかった。なぜなら、テスト前を除けば英語の勉強をほとんど家でしていなかったからだ。同級生は、日々時間を掛けて、辞書を引いたりしながら和訳などの予習をしていたのだ。当時の私や今の二男のやっていることは、メインディッシュの肉の皿に載っている野菜のようなものである。もし、肉だけがど真ん中にドンと置かれていたら「野菜も欲しいなぁ」となる。一方で、大きな皿の周りに野菜だけが置かれたものが出てきたら、まったく持って意味が分からない。
彩が無ければ味気がない。一方で、彩はあくまでも添えるものであって、メインにはなりえない。やるべきことだけをやっているというのもつまらないし、やるべきことをやらずに中途半端にそれっぽいことをしていてもいけない。そういうことが分かる人になっていって欲しい。
2019.07.09Vol.405 three stories of 作文の続き
1つ目の話。この9月からカナダに行く中2の男の子が「ほんとやったら夏と冬の年2回帰ってくんねんけど、1年目は向こうで年越しする」と話すので、不思議に思い「なんでなん?」と聞いた。戻りたくなくなるから、とのこと。前回でひと段落したはずが、もう少し「中二病と五月病」の続き。
彼が言うには、去年、同じ学校から5人が海外の現地校に入学したが、そのうち年末年始に帰国した生徒は2人共、親が無理やり飛行場に連れて行かないといけないぐらいに日本を再び離れることに抵抗したらしい。その話を昨年の9月からニューヨークに行っている高一の女の子に話すと「めっちゃ分かるー」と返ってきた。その子に関しては、帰国する1か月前ぐらいから毎日カウントダウンをするほどの重症で、残り日数を教えてくれるアプリをひどいときには1日30回チェックしていたとのこと。今、そのことを笑って話せるので、彼女も成長したのだ。
9月入学でも上のようなことになるのであれば、9月入社の私のアイデアはある意味では間違えていたことになる。ただ、条件が違う。社会人か学生か。日本か海外か。中2の彼は「1年間乗り切れば、夏に帰国しても向こうに帰りたくないとはきっとならないはず」と語っていた。Vol.403「中二病と五月病 今度こそ」で「初めての大型連休は年末年始にやってくる。それまでの4か月間を、緊張を切らさずにどうにか乗り越える。」と述べた。いろいろな条件によって帰郷するまでの適切な期間は変わるが、「乗り切る(乗り越える)」ということに注目したのはそれなりに正しかったんだな、と一人納得した。
2つ目の話。「ブームは善か悪か」について作文した高一の男の子がいた。そのやり取りの中で「先生、どのレベルまで行けばブームと言えますか?」と尋ねてきたので、その一例としてカバンを挙げた。「ノースフェースなんてあちこちで見かけるし、女の子がよく持ってるアネロもそうやな」となった。翌週、その生徒が来た時に「先週、教室出た途端に、アネロ持っている人に出くわしました」と嬉しい報告をしてくれた。私もそれまで以上に注目するようになった。ポーターのようにロゴが入った布を縫い付けているパターンのものしか見たことがなかったのだが、カバンの生地に直接プリントされているものも意外と多いことに気づいた。ちなみに、その彼のカバンも、上の2つとは違うもののよく目にするブランドだったので「それもみんな持ってんな」と突っ込むと「いや、そんなことはありません」と全力で否定していた。
最後の話。先週末にコンビニのレジ袋有料化の記事をネットニュースで見かけて「おっ」となった。今調べてみると、去年の記事もあったが、この1か月ぐらいのものが圧倒的に多い。高等専門学校に通う学生(大学であれば2回生と同学年)が、2か月ぐらい前に「プラスチックゴミを減らすにはどうすればいいか」というテーマに取り組んだ。その際は「なぜ、コンビニの袋は有料化されないのだろうか」というところからスタートして、スーパーとコンビニで何が違うのかを一緒に考えた。購入する品物の数やスペース(レジの後に、移動して袋詰めする場所の有無)などを列挙して行った。コンビニ用のエコバッグは小さくて済むので持ち歩きやすく、それを渡せばいいだけなので店員の手間は増えない(スーパーであれば、カゴに移すのではなく袋に詰める、ということで作業が異なる)ということなど、実用化が可能かどうかを検証して行った。その他、袋の値段が同じだと考えた場合、コンビニの方が購入金額は少ないので「高い」と感じ、有料化のインパクトが大きいだろう、という推測もした。同じ3円でも100円に対するものと1000円に対するものでは違う、という意味である。
生徒達には日頃から「(意見)作文は書いて終わりじゃない」と伝えている。2つの目の話において「嬉しい報告してくれた」と書いたが、それは、その生徒が作文を教室の外まで持ち出したことが分かる一つの出来事だったからだ。私の場合、生徒とやり取りをしたら、それを実践したり、頭の隅に置いて、それに関する情報にアンテナを張り続ける。時々、親御様から「先生は、いろいろなことを考えているのですね」と言われることがあるのだが、当たり前のことかもしれない。添削した数だけ、考えることは増えて行くからだ。
きっかけは身の回りにたくさん落ちている。それを拾って様々な角度から眺めてみると、新たな発見があるものなのだ。その楽しさ、喜びを生徒たちに伝えてあげたい。
2019.07.02Vol.404 まだまだ中二病と五月病
「この人は何を根拠にこのような発言をしているのだろうか?」。そのようなことを以前はそこまで強く意識していなかった。おそらく、この1, 2年のことなのだろう。「大した根拠もないくせに」と非難したいわけではない。
平日は毎日30分、専門家が日替わりでコメンテーターとして登場する一種のニュース番組を欠かさずにポッドキャストで聞いている。日課になったのは3年ぐらい前だろうか。いや、もっと前からかもしれない。いずれにせよ、私の中で上記のような変化が生まれたことにその番組が影響を与えたことは間違いない。それぞれのテーマに対する意見が面白い、というのが聞き始めたきっかけだったのだが、いつの頃からか意見の元となる情報の多さに興味が向き始めた。とにかくよく調べているのだ。
この1, 2か月間は衆参同日選挙が行われるか否かがよく話題に上っていた。どちらになろうが私にとってはどうでも良かったのだが、その途中経過が面白かった。結果だけ見れば「無かった」の一言で終わるのだが、その有無に関して、各コメンテーターが自らの情報源から得たものをベースにして、様々な角度から意見を述べていたのだ。
否決される前提で野党が内閣不信任決議案を提出することはよくあることなのだが、今回は及び腰になっていた。もし、自民党が可決側に回り承認されてしまえば、同日選挙になってしまうからだ。正にやぶへびである。その可能性が非常に低いということが十分に確認された後に、形だけの内閣不信任案が出された。私がもし野党党首であれば、それではあまりにもダサすぎるので潔く「同日は困るので、あえて提出することはありません」とするであろう。その立場にないから言えることなのだろうが、その立場になって言えないのであれば、その立場になってはいけない人なのだ。私が別の仕事をしていたら、子供を持つ親の一人として他の親同様、外側から「こんな教育があればいいのに」と考え、現状に不満を漏らしたことであろう。内側にいる現在はどうか。理想と現実は違うよな、って考えているか。そんなことはない。もっと、理想を追い求める方に向かっている。このシリーズの初め(今回がシリーズ第3弾という位置づけ)にも、中高生が増えていることを述べた。以前であれば、続けてくれるだけで嬉しく、それを意気に感じ、意見作文を通してこの子たちを絶対に成長させてやるぞ、と一人意気込んでいた。今は、人数が増えて気合だけではどうにもならなくなっているため、きちんとしたシステムを築いていく必要がある。今は、その道半ばといった感じである。
さて、野党第一党の立憲民主党。結党の際に、「単に政府、与党批判ではなく、提案型の・・・」と訴えていた気がするが、その決意はどこへやら。もしかしたら、本当はかなり提案しているのに、全体の1割ぐらいしか占めていない批判ばかりをメディアが切り取って放送しているのかもしれない。そんなはずはないのだが。仮にそうだとしたら、もうニュースで取り上げられず党の存在感が無くなったとしても、私なら批判することはやめさせる。そして、地力をつけることに全精力を傾ける。
今朝のニュースで、コメンテーターが立憲民主党のある提案について、こき下ろしていた。それは、5年以内に最低賃金(時給)を現在の800円台から1,300円にするというものである。韓国では文大統領が、この2年間で約20%上げて失業率が増加した。それはそうである。売上が増える見込みもないのに、人件費を大幅に増やすことはできない。一人当たりの単価が上がれば、人を減らすというのはごく自然の流れである。韓国で失敗していることをなぜ日本で、ということが批判される理由なのだが、これってあれと同じやん、となった。我々が生徒たちに取り組ませる課題の1つに「間伐が行われないために健康な木が育たない、という日本の林業が抱える問題に解決策を提示する」というものがある。労働者不足が原因なので、力仕事のできる若者を増やすために、賃金を上げる、という意見を出す生徒は少なくない。そのようなものに対して、「原資はどうすんねん?」という突っ込みを入れる。そもそも政府は少子高齢化の対策により一層のお金が必要になるから消費税を上げるのだ。つまり、金銭的な余裕があるわけではない。林業に補助金を出せば、その他の第1次産業である農業や水産業にも、となるかもしれない。また、賃金以外のアイデアとしては「広告で林業をアピールする」というのもそれなりに出てくるが、「募集広告などを見て、行きたいと思ったことあるか?」と質問する。もちろん、意見作文なので、何かしらの意見を出さなければいけないのだが、それよりも大事なことは、それについて様々なことに思いを巡らせることである。たとえば、先の最低賃金の話で言えば、その人件費の増加分をすべて売上増で吸収するのであれば、何%上げる必要があるのか。法人税を下げることで企業の負担を減らそうとするのであれば、いくら減るのか。では、その税収の減少分は何で補填するのか。労働者のために賃金を上げる、というのをミクロな視点で捉えるのではなく、それに関係する要素をマクロ的に分析していく必要がある。
前回のブログでも、上の段落でもそうであるが、私が意見作文において何を重視しているかを見ていただきたかったのだ。あるテーマに対して、こういう風に書けば点数がもらえるからね、ということを我々は教えているわけではない。できる限り、様々な角度から物事を見られるようにしてあげたいのだ。それができるようになれば自ずと意見は組み上がっていく。そのためには、私自らがその訓練を日常的に行っている必要がある。「きちんとしたシステムを築いていく」ためには、私がそれをしないわけにはいかないのだ。
将来に役立つ力を付ける。教育の内側で、理想を強く求む。「強く」がある分『世界の中心で、愛をさけぶ』の上を行った気がする。