
2019.08.27Vol.412 一男去ってまた一男
来週9月3日(火)のブログはお休みです。
我が子の成長ほど嬉しいものはない。これに異論を唱える親は多くないであろう。けれども、一人の人間としてはそれが至上の喜びとは限らない。仮に、自分のそれか子供のそれのどちらかを選べ(いずれかしか実現はしない)、と迫られれば答えに窮する。現実世界では二者択一ではないため、迷わずに自身の成長を優先する。ここでも時々述べているように、ひいてはそれが子供の成長を促すから。
私は、生活面に関すること以外で息子達を怒ることはほとんどない。つまり、勉強やスポーツなどにおいて「なんでできないんだ」とはならない、ということである。半年ぐらい前だろうか、サッカーの練習に行った長男を車で迎えに行った帰り道、初めてこれでもかと言うぐらい叱り飛ばした。当然のごとく大号泣していた。行きは自転車だったので、それを積み込んでのことだったのだが、気分的には「自転車は持って帰ってやるから、(自転車で片道30分かかる道を)走って帰れ」と言いたかった。それよりもその場で説教する方を選んだだけの話である。その際「お父さんは情けない」という常套句のようなものを用いた。ある意味情に訴えかけた、と言えなくもないが、それが目的ではなかった。むしろ、その方法というのは伝家の宝刀みたいなものであって、一人の子供に対して一生のうちで数回しか効果を発揮しないものだ。例外もある。このブログを読んでくださっているあるお母様が、その方法をそれなりに活用して、かつ未だに効果的なのを私は知っているからだ。「伝家の宝刀を抜くのはこのタイミングや」となったわけではなく、気づいたらそれを手にしていた、といったところである。
何がそんなに気に食わなかったのか。うまい子達に遠慮して、プレイに関わろうとしなかったことに、である。私が見たときは、4対4でゲーム形式の練習をしていた。わが子のチームは実質3人で4人を相手にしているようなものであった。日ごろから「どこであれば自分は活躍できるのかを考えなさい」と伝えている。うまい連中は、彼らの中だけでやろうとする。下手なやつに回して取られるのは嫌なので、自分たちでパスを回して点を取ろうとするのだ。しかし、それは攻撃においての話である。上手な子は守備をさせてもたいていセンスがあるからボールを取るのもうまいのだが、地味なことゆえ攻撃に比べて興味が薄い。だからこそ「まずは守備で頑張りなさい」と以前から伝えていた。「前から言ってるやろ。守備で頑張れ、と。人より走って、体張って、それでもボールを取れなければしょうがないけど、それをしていないのが許せない。チームメートも、頑張ってるのを見たら『あいつ下手やけどパス出してやろう』ってなるのが人間や」と。さらに「次、同じことをやったら絶対に許さないからな」と付け加えた。許さなければ、何かが起こるわけでもないのだが。
そして先日、私は一生懸命プレイしている長男の姿を見ることができた。半年間やってきた成果が私には感じ取れた。半年前は10人中9番(実際には10番だったかもしれない)であったのが、7番ぐらいまでは来たな、と。1番にいるのは、センスがあって努力もできる子。2番は、センスは少し劣るが努力できる子。3番はセンスだけでやる子。このまま継続していけば、まったくセンスはないが4番ぐらいならなれそうな気がする。5番でもいいのだが。1年生からサッカーはしていたもののそれはお遊びに毛が生えたようなもので週に1回ゆるい練習をするだけであった。4年生になって、本格的なチームに加わり、本人の意思ですぐに週1から2回に増やした。「うまいやつは自主的に練習する」と発破をかけてみても「やってやる」という気配はまったくなかったのだが、この夏、一人ではなく弟達を連れてではあるが、近くの公園でサッカーをするようになった。仮に10人中4番になったとしても、サッカーにおける価値はほとんどない。ただ、できないことでもやり方によっては上達するという経験を積めたこと(いわゆる成功体験のようなもの)、うまくなるためには何が必要かを考え工夫したこと、というのは先の人生どこかで役立つものである。
その日、同じ場所で二男も練習をしていた。すると、半年前の長男と同じような状況に陥っていた。現象的には似通っていても中身は違う。長男は、自分が下手であることを認めているからこそ、人に迷惑をかけないように遠慮していたのだが、二男はその事実が受け入れられず、プレイに関与しないことで自分が下手なのがばれないようにしていたのだ。日ごろ大口を叩いているので、帰りの車では「口だけで、ださいな」というに留めておいた。性格も違うので、同じ怒り方もしても意味がないからだ。
明日からは10数年ぶりのヨーロッパ。思う存分楽しんでくる予定である。
2019.08.20Vol.411 ひとつのニュースいろいろな視点
今朝、「内定辞退率 リクルートも利用」というタイトルのネットニュースが目に飛び込んできた。そりゃそうだろう、といったところである。逆に、利用していない方が不思議である。以下、時事通信社からの引用である。
就職情報サイト「リクナビ」を運営するリクルートキャリア(東京)が学生の「内定辞退率」の予測データを企業に販売していた問題で、同社は19日、親会社のリクルートホールディングス(HD)と自社でもこのデータを利用していたことを明らかにした。リクルートキャリアは「採用の合否判定にデータは使っておらず、すでに廃棄した」(広報)と説明している。
内定辞退率は、学生によるリクナビのサイト上の閲覧履歴などを、人工知能(AI)で解析して予測。リクルートキャリアは、合否判定に使わない条件で38社に販売した。
詳しく調べたわけではないが、前年度までの内定を辞退した人の閲覧履歴の傾向と照らし合わせて、今年の辞退者を予測できるようにしているのだ。このことがニュースとして初めて取り上げられたのは1か月ぐらい前だろうか。そのときは「『合否判定に使わない』とかありえへんやん」となったが、その後「意外とその用途では使われていないかもしれない(少なくとも、それがメインの用途ではない)」となった。うまく引き留めるために利用されているのでないだろうか、と。まず一転。バブルの頃、内定者を長期の旅行などに連れて行き、他社の選考を受けられないようにしていた、という話がある。今、そのようなことをするのは難しいので、辞退しそうな学生にどのような対策を取っているのか興味がある。そのうちに、それも表に出てくるのだろうか。
ややこしいことを言うようだが、この文章を書きながら、やはり「合否判定に使う」ためか、という気がしてきた。ここで二転。なぜ、このように二転三転するかと言えば、視点が変わるからだ。今の私の立場で言えば、志高塾が好きです、という人より、優秀な人を採りたい。もちろん、我々がどのようなことをしているかを理解してもらっている必要はあるが、好きになるのは仕事を始めてからで構わない。私は、こういうことをよく恋愛に例える。要は、自分のことを好きでいてくれる人より、自分が好きな人と付き合う方が良い、というのと同じということである。この前、あるお母様と教室で話しているとき、いつものように恋愛に例えていたら、横で聞いていた別のお母様が大爆笑していた。その顔で恋愛を語るな、と言うことなのだ。「すみませーん。男性雑誌で読んだことを、さも自分で経験したかのように語ってしまって」とその場で謝罪した。話を戻す。大企業の人事部門の立場になったら、ものの見方は変わってくる。営業部門と違い、売上を上げられるわけではない。人事部門にとって、新卒採用というのは、1年に1回数字で表れる結果を残すチャンスである。上が勝手に決めた予定の人数をクリアすることが一番の目標になる。内定を多く出しすぎて予定よりたくさん入社しても困るし、逆に絞りすぎてそれに満たないのも困る。航空会社であれば、直前のキャンセルを見込んで、座席数より多くの予約を受け付けている。過去の実績から適切なオーバーブッキングの数を割り出しているのだ。「内定辞退率」のデータがもらえれば、それと近いことができる。
こういうのを見るたびに「やっぱり俺は大企業では働けないな」となる。仮にデータを提供する側であった場合、「合否判定に使わない」ということを条件に付けているから自分は悪いことはしていない、とはならないし、提供される側であった場合、あくまでも参考データに過ぎない、などとはならない。38社に提供したことは発表されているが、現状自ら名乗り出ている企業は12社であり、その3分の1に満たない。その事実が、データがどのような扱われ方をしているか如実に物語っている。甘ちゃん、と言われてしまえばそこまでなのだが、そういうことが嫌いなのだ。大企業には大企業の論理がある。頭では分かっていても、心が受け付けない。
最後に、大学生の講師にも生徒にも、将来就職活動をする際にこのようなものに接したら、腹を立てて終わるのではなく、「社会ってそういうもんだよな」と冷静に現実を受け止め、どのような人が求められるかを理解した上で、できる限り自分らしく振舞って内定を勝ち取って欲しい。その段になって、どのように装うかを考えても手遅れなので、それ以前に人間を磨いている必要がある。志高塾でやっていることはそれに大いに役立つはずです。小泉進次郎議員が婚約発表の際「彼女といるときだけは鎧を脱ぐことができる」というようなことを語っていた。彼のようにクリーンに見える人間でも、政治という世界で生き残り、結果を出していくためにはきれいごとだけでは済まない。鎧をまとって防備をしなければ、目標を達成できない業界も少なくないのだ。
冒頭「ネットニュースが目に飛び込んできた」と表現した。何のことはない。当日の朝になっても、テーマが決まっていなかったから「これで行くしかない」となったのだ。夏期講習が始まって最初の1, 2週は「さっ、やるぞ」と気合十分だったので、頭が活発に働きテーマがいろいろ浮かび「どれにしよう」という感じだったのが、昨晩は「どうしよう」となっていた。それだけこの夏は頑張ったということである。鎧をまとっていない私でも、これだけ授業をすればそれなりに疲れる。
2019.08.13Vol.410 志高く
現在大学3回生の元生徒が孫正義育成財団の財団生に選ばれた。喜びを感じると共に少し不思議な気分になった。それは、「志高塾」という名が、孫正義の自伝『志高く』に由来しているからだ。なお、HPに財団の目的として「未来を創る人材の支援」とあり、「『高い志』と『異能』を持った若者に自らの才能を開花できる環境を提供し、人類の未来に貢献する」とあった。「高い志」という言葉が使われているのは、さもありなん、といったところである。
「志高塾って志が高い塾なんですよね」と言われることがある。誤解されるのも無理はない。私自身、電話などで漢字表記を伝える際「『志』が『高い』『塾』と書いて、『志高塾』です」と説明する。物事には慣れというのがあるが、未だにどこか照れくさい。説明しながら「おいおい、自分で『志が高い』とか言うなよ」と突っ込みたくなる。
2007年に志高塾を立ち上げ、その1年数か月後に生まれた長男に「理想を求め続けて生きて欲しい」という願いを込めて「理求(りく)」と名付けた。その「理想」というのは、もちろん「親の」ではなく「長男自身の」である。将来、自分なりの自分らしい理想を持てるように視野を広げてあげるのが親としての役割だと考えている。長男が大人になって壁にぶち当たり易きに流れようとしたときに「自分は理想を持って生きているか」、「そもそも自分の理想って何だろう」と自問して、また歩を進めてほしい。このように、私にとって「名前」というのは、何か物事がうまく行かなくなったとき、迷いが出たときに立ち返る原点である。「志高塾」も例外ではない。
20代の頃、『志高く』を「こういうのが、志が高いってことやねんなぁ」、「自分にはとてもではないができへんなぁ」と思いながら読み進めていた。自分だけのことであれば、安っぽい価値観を持って生きていても構わない。しかし、親御様から未来あるお子様を預かる以上、それは許されない。たとえ「志高塾にはほどほどの期待しかしていません」と思われていても、である。「志高く」生きるなんてことは自分にはできない。だが、少なくとも志高い方を向き続けることはできる。「志高塾」にはそんな思いが込められている。これまで大きく道を踏み外さずに来られたのは、その名と無縁ではない。
5~10年前のことであろうか。その頃は、もっと生徒が増えてもいいはずなのに、という思いが強かった。それでも「どうしたら生徒を増やせるだろうか」とはならずに「とにかく、今いる生徒にいい授業をすることこそが大事なんだ」と自らに言い聞かせていたような気がする。それは「生徒を増やすこと」が「志が高いこと」だとはならなかったから。この文章を書くにあたって、当時のデータを見返してかなり驚いた。8月の時点で現在の中1は15人弱なのだが、彼が中1の頃は同じ8月でなんと1人しかいなかったのだ。当時「この子を育てるんだ」と強く思っていたのだが、それもそのはず、こと中1に限れば彼しかいなかったのだから。
先週、ある中1の男の子のお母様とのメールのやり取りにおいて、「この時期は、うまく作文を書くことよりも、目の前のことと真剣に向き合って、それでも書けない、という経験を積むことが何よりも重要です」ということをお伝えした。先の彼のことを思い出しながら、私はメッセージを発した。彼は、他のどの生徒よりも中高の6年間を通してそのような作文を積み上げた。これだけたくさんの知識があって、書く力もあるのに、なぜこんなにもうまくまとまらないのだろう、と当時は添削をするたびに不思議だったのだが、最近その理由が少し分かったような気がする。与えられたテーマに対して、「こんな形にしておけば無難だな」とお利口さんのもので済ませずに、自分なりの糸口を見つけることにエネルギーを費やしていたのだ。野球に例えるなら、自分が打てるようになった球を打とうとしなかったからなのだ。90km/hの球を打てるようになれば100km/hに挑戦し、その次は110km/hと常に一段上を目指していたのではないだろうか。私が目にしていたのは、以前よりも速い球に空振りを恐れずにフルスイングしていた姿だったのだ。
世の中にはピカピカの学歴の人がそれなりにいる。灘から東大の医学部に進んだ彼は、紛れもなくその1人である。それをはいでしまえば、「なーんだ」という人も少なくない。だが、彼の場合は、内側の方が圧倒的に面白い。結局、私がしたいことというのはそういうことなのだ。本当に面白い人間を育てることに少しでも貢献したいのだ。学歴が輝いているに越したことはない。しかし、それはおまけに過ぎない。大事なのは社会に出てからである。それは、社会的地位が高いとか低いとかではない。面白いか面白くないか、なのだ。私は今なお志高い方を向き続けている。
2019.08.06Vol.409 丁寧な取り組み
自習中の私立に通う中1の女の子から「先生、このプリントなんですけど、どのようにやっていけばいいですか?」と質問された。そこには英単語が縦に並んでいて、それぞれの単語の横にマスが6つずつ用意されていた。それぞれ6回ずつ練習しなさい、ということである。おそろしいことに、同じプリントがもう1枚配られていた。同じ単語を12回も書かないといけないのだ。彼女は、縦に1回ずつ違う単語を書いて覚えて行くのがいいのか、それとも同じものを横に6回続けるのがいいのか、ということを聞きたかったのだ。もし、お子様から同じような質問をされたらどのように答えますか?少し考えてみてください。
私は、できるだけ学校の先生の悪口は言わないようにしているが、これに関しては「ひどいな」と率直な意見を述べた。その先生曰く、「書かずに覚えられる人はいない」とのこと。何を根拠にそんなことを言っているのかまったく持って不明である。最近ブログで触れた気もするが(途中書いていたものの削除したような気もする)、私は高校時代、英単語はすべて見て覚えた。長文の中で出てきた知らないものは単語カードに書き出したが、それも見て覚えるためであった。
「何を根拠に」ということで言えば、数か月前にあるお母様から「先生、この本面白いですよ」と『「学力」の経済学』という本を勧められお借りした。そこには、世の中で話題に上る教育にまつわる事柄(ゲームが子供の学力に悪影響を与えるか、少人数学級の方が学力は伸びるか、など)の正否がデータに基づいて検証されていた。タイトルに「経済学」という言葉が含まれているように、それを踏まえて教育に関して、国はどのようなところに税金を投下すべきか、親がどのようなタイミングでどのような習い事を子供にさせたらコストパフォーマンスが上がるか、ということなどが語られていた。読了するまでドキドキであった。「私がこのブログなどで主張していることが、間違いだらけだったらどうしよう」というのがあったからだ。どうにかそれは免れることができたので、今後も好き勝手なこと発言をしていく所存である。「国語塾に通わせるのはお金をドブに捨てるようなものである」ということが述べられていなかったことも付記しておく。
個別に習い事の相談を受けることもある。「先生、ロボットプログラミングってどう思われますか?」というのもその1つである。それには基本的に反対である。それっぽいことをして、すぐに身につくようなプレゼンテーションをさせて、それを見た親を少し喜ばせて終わりだからである。基本的に、としているのでもちろん例外はある。教室だけで終わらせずに、家に帰ってから子供自らそこで習ったことを発展させるなどのことをしているのであれば悪くはない。反対する理由として、いい加減な先生が多いことが挙げられる。プログラミングに関する知識を有しておらず、ただマニュアル通りに教えているだけの人が少なくないのだ。今もプログラミングの仕事をしながら、東京で子供向けのスクールを経営している友人がいる。彼はエキスパートなわけだが、この春に会った時、素人がやっている教室との差別化って難しいな(それを世の中の人に認知してもらうという意味で)、という話をした。その彼が確かブログで、プログラミングは目的ではなくて、それを通して何を学ばせてあげられるか(物を作り上げていくプロセス、プログラミングでどのようなことができるかを知ること、など)が大事、というようなことを語っていた気がする。
さて、冒頭の質問に対する私の答え。その単語を覚えるのに必要なだけ書いて、次に行きなさい、というアドバイスをした。どのようなものが列挙されていたかはよく見ていないのでほとんど掴んでいないのだが、たとえば”beautiful”はややこしいから5回、”summer”は”m”が2つ続いていることを頭に入れるために3回書いて、”cap”や”hat”(この2つはそこに含まれていて、「なんで、こんな単語を書いて覚えなアカンねん」と突っ込んだので記憶している)は1度も書かない、などの区別をしなさい、ということである。そうすると、12回に対してそれぞれ7回、9回、12回の残るわけだが、それは単なる作業として、何も考えずに書いておけばいい、と付け加えた。もし、生真面目に12回書いて覚えられなければ、「12回でダメだったから、これからはすべて15回にしよう」という訳の分からない方向に行きかねない。こういうものに対して、12回、きれいな字で書くのが「丁寧な取り組み」という人がいるがそれは違う。何のためにそれをするのか、という目的を明確に意識した上で、工夫をしながら進めていくことこそが「丁寧な取り組み」なのだ。私の役割は、ベターな方策を提案することである。それも参考にしながら、子供達が各々のベストなやり方を作り上げて行くことを強く望んでいる。