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2019.01.29Vol.384 中学入試総括

 本日、「2019年度中学入試結果に関して」と題して、結果をHP上に掲載した。
 その内容に関してここでいくつか補足を行う。受験生は13名としているが、正確には14名いた。1名は公立中学に進むことになったので含めていない。1つの文章の中で触れる分にはそれほど大きな問題はないはずだが、1年間、目につきやすい形で「公立;1名」とするのは好ましくないと考え、このようにした。14名中10名は第一志望に合格した。9月以降志望校のレベルを上げた生徒はいても、下げた生徒はいない。それほど悪くない結果であろう。総合的に見て、ということである。上記の1名は、受験校を確定した時点で苦しい戦いになることは予想された。完全に滑り止めと呼べるようなところを選ばなかったからだ。私自身もそのような中学受験を体験した。私の場合は2校とも予定通り不合格になり、公立中学に通った。受験後話はしていないが、この経験を生かすためにも、本人が拒まなければ受験の準備段階で私が感じていたこと、今後のことなどを話してあげたい。
 その他、1年前の時点で甲陽学院は14名中11名、今回17名中14名としている。つまり、今年は3名中3名合格したということである。実際は4名受験している。残りの1名に関しては、12月の時点で岡山中学に専願で合格し、そのときに志高塾は卒業した。つまり、過去問対策もまったく行っていないということである。この扱い方を人がインチキと考えればインチキなわけであるが、私は、いかに親御様に落ち着いた状態で中学受験を迎えていただけるかを大事にしている。傲慢と言われるかもしれないが「私が大丈夫と言ったものは大丈夫です」というようなことを伝えたりする。そのときに、灘、甲陽の数字を一つの根拠として使うことがある。今年に限っては3名中3名とすることが、適切なデータであると判断した。もちろん、過去にそのようなことは行っていない。
 親御様から連絡をいただいた時点で、その都度関係のある講師には結果を伝えていた。ある生徒が不合格になったことを伝達した際「力になれず申し訳ございませんでした」というコメントが返ってきた。私に謝ってもしょうがないし、志高塾としてやれるだけのことをやった、というある種やり切った感のようなものが自分の中にはあった。それを踏まえて私は「〇〇さんに関してはやれるだけのことをやりました。結果は出ませんでしたが、結果が出たからいい、出なかったからダメ、というものでもないです。もちろん、結果を出せなかったことを胸に留め置いておかなければいけないですが。」と返答した。名前を伏せた以外は原文のままである。その彼女、国語は今週から再開することが確定していて、数学も4月からの予定になっていたらしい(私は忘れてしまっていた)が、昨日お母様からお電話をいただいて「先生のところで折角勉強する癖をつけてもらったので、間を開けずにやらせようと考えているのですがどうでしょうか?」と尋ねられた。「中学校の進度的には先取り学習は不要ですが、そう考えておられるのであれば来週から」ということで話がまとまった。それに関しても、親御様にそのように言っていただけたという一つの事実をもってして「やっぱりやるべきことはやれていた」とはならない。そもそも「合格できるところまで持って来ました」と私はお母様に断言していたのだ。
 今回の受験に関して、私が一つ胸を張れることがある。それは、直前の授業の追加も含め、希望していただいた時間に授業をすべて行えたことだ。親御様から出された要望に対して「この時間に誰か出てもらえませんか?」と講師全員に投げかけたわけではない。その生徒に対して、過去問を教えたことのある講師に絞って、誰が教えるかを私の方で決めていった。もちろん、すべての親御様がかなり限定された時間を指定されれば、それは不可能であった。ある程度の幅を持たせてくださった方がそれなりにいて初めて実現できたことである。それ以外にも、6年一貫校に通う中1の生徒がこのまま行けば取り返しのつかないことになりそうだったので、冬休みからまるで受験生のように数学の授業数を増やした。かなり切羽詰まっていたので「中学受験が終わってから」では遅かったのだ。そのような緊急の要望に応えられたことには一定の満足感を得ている。
 10月半ばに両校の体験授業をストップしたのだが、今振り返ってもあのタイミングで正解であった。2週遅ければ、かなり時間割がグチャグチャになったはずである。既に新5, 6年生の受け入れを停止した。その理由は、新5年生が多すぎるからだ。おそらく、両校の受験生は25人を超える。今回よりも10人は多いのだ。過去の経験上、一人当たり週1.5コマ(2人の内1人は週1コマ、もう1人が週2コマという計算である)なので、10人増えれば1週間当たり15コマ増えることになる。空いているところに機械的に埋め込むのであれば、何も難しくはない。両校で1日1コマずつ良質の枠を増やすことは容易ではない。受験生なので、受講できる時間もかなり限定される。今は、2年後の年末年始に過去最高の質を確保するために何をするべきかを考えている。もちろん、その一番忙しいときにそういう状況を作り出せているということは、それ以外の時には志高塾に通うすべての生徒に良い授業を行えているはずなのだ。あまり心配はしていない。特にこの半年ぐらいはかなり採用がうまく行っているからだ。HPやブログをかなり読み込んでから応募してくれる人が明らかに増えた。我々が求める人物であれば何人でも採るし、そうでなければ一人も採らない。1年後の中学受験であれば、今のメンバーで十分に乗り切れる。昨日、塾講師の募集を専門に行っている会社から春休みに向けて採用を強化しませんか、というメールが来ていた。以前にも似たようなことを書いたが、1か月でどうやって志高塾だからこその授業を提供できるようになるのか。
 昨日、いろいろな生徒に軽口をたたきながら、随分と自分の心が軽くなっていることに気づいた。この1か月間、顔を合わせた生徒には声ぐらいは掛けていたのだがあいさつ程度だった。情けないことに知らず知らずのうちに心の余裕を失っていたのだ。取り返すという発想は間違えている、その都度きっちりと授業をしないといけないからだ。ただ、自分が果たすべき役割のいくつかは疎かになっていたのは紛れもない事実である。取り返して、さらにおまけつけちゃうぞ、ぐらいであれば正解でもないが、不正解にもならないか。
 兎にも角にも、志高塾は受験専門塾ではない。同じことばかり言うな、と思われるかもしれないが、大事なこととしつこいぐらいにきちんと向き合い続けなければ、気づいたら後戻りできない状態になってしまうのだ、きっと。自分の中だけでその作業を行えばいいのだが、私はここで文章にすることによって自分に言い聞かせている。次回は、もう少しましなことを書きますので、今回は多めに見てやってください。おまけつけて返しますから。

2019.01.22Vol.383 (仮)

 1年半ぐらい前だろうか。ある親御様から「先生のところ、最近、中学受験で結果が出てませんよね?」と言われた。5秒ぐらいだろうか、それとも10秒ぐらいだろうか。その意味を理解するまでに少なくない時間を要した。電話ではなく面と向かって話していたのだが、それでも5秒と言うのはかなり長く感じられるものである。実際に沈黙の時間を計ったことはないので、実感とどれぐらい差があるのかは分からないのだが。直近の2年ぐらい最難関校と呼ばれる学校へ合格していないというのが、その理由だったのだ。だが、生徒がどこの学校に行くかはある意味どうでもいいことなのだ。「じゃあ、なぜ、灘と甲陽だけ累計の合格実績を出しているのですか」と指摘を受けるかもしれない。それには単純な理由がある。「志高塾は、中堅校には良いけど、最難関校を目指すならやめた方が良い」などとなるのが嫌だけなのだ。それは、私個人のつまらないプライドとの連関が強い。「大したことないな」という評価をされたくないのだ。なぜ、それだけ時間が掛かったかと言えば、それなりの結果を出し続けている、という自負が自分の中にあったからだ。それは一人一人の生徒と真摯に向き合ってきた、という自負である。もちろん、すべてがうまくいっていたわけではなく、思うような結果を出せないこともあった。
 上記は、以前に書き留めていたものから引っ張り出してきたものである。2,000字近く書いて完成させたものも含め、一度お蔵入りさせたものは十中八九、日の目を見ることはない。時間が経ったことで、扱っていたテーマが自分の心のど真ん中からずれてしまうためだ。自分の中で旬ではなくなってしまうのだ。例外的に復活させたのには訳がある。中学受験がほぼひと段落したものの、完全には終わり切っていないからだ。この1か月は中学受験が心のど真ん中にあった。しかし、現時点でそれが完全に立ち去らず、それゆえ新たなものもそこに入って来ていない。宙ぶらりんの状態で今朝を迎え、「さてどうしたものか」と思案しようとしたところで、「(仮)」と題したこの文章にたどり着いた。通常、仮のタイトルを付けておいて「(仮)結果を出せない志高塾」などとするのだが、それすらもなかった。
 字数稼ぎはこれぐらいにして、本題へ。今年で言えば、甲陽に合格した生徒が、去年で言えば灘に合格した生徒が一番手は掛からなかった。その2人に関しては、100回受験したら99回は合格したはずである。しかも、2人とも既に4年生の時点でそれは明確であった。私からすれば彼らが志望校に合格したところで我々が結果を残したことにはならない。彼らが結果を出しただけの話なのだ。それゆえ、その2人の結果を踏まえて「結果出てますね」と言われても、やはり「?」となったはずである。その甲陽の生徒で言えば、「文中の言葉を引用しない」という志高塾のルールをとりあえず守っているものの、ただ少し言い換えているだけだった。たとえば「(時間が経つのも忘れて美しい絵を)見ていた」と本文にあれば、「眺めていた」にするというようなレベルのものである。そうではなく、その状況を思い浮かべれば「目を(心を)奪われていた」、「目が釘付けになる」などとすることもできるのだ。そのような後ろ向きの取り組み姿勢を踏まえて、半年に1回の面談では入塾後ずっと「まあ、受験には合格するでしょうが、面白くないんですよね」と親御様に言い続けていた。その彼が、何が原因かは分からないが、6年生になった頃から急に思い切った表現を出すようになったのだ。時に不適切な言葉になっていることはあったが、そのような時でも「おっ、良い表現使おうとしてるやん」と声を掛けてきた。既に述べた通り合格は間違いなかった。言われていることを最低限やるだけではなく、なぜそれをする必要があるのか、ということを自分なりに消化して取り組めるようになったことが私には嬉しかった。彼は人間的に成長したのだ。そして、それは未来を明るくしてくれるはずのものなのだ。HP上で「受験専門塾ではない」と謳っている。それは、先のようなこととも関係している。ただ、合格すればいいという話ではないのだ。
 今後、高校、大学受験を迎える生徒もいる。そして、何よりも我々は受験専門塾ではないのだ。すべての生徒の成長を促せるように、私自身また気持ちを新たに前に進んで行かなければならない。ただ、今週いっぱいはまだ中学受験が心の中心付近をうろついていそうである。

2019.01.15Vol.382 「それ」も含めた多様性

 ヴェイパーフライ4%フライニット。これだけでピンと来る人は中々いないであろう。これではどうだろうか。ナイキズームヴェイパーフライ4%フライニット。スポーツに関わる物かな、となるぐらいで、きっとほとんど変わらないはずである。長距離用シューズの名称である。今年の箱根駅伝出場者230人の約4割に当たる95人が、10区間の区間賞(各区間の1位)を記録したうちの実に7人がこれを履いていた。これらの数字から強豪校の選手ほど着用率が高いといえる。今後、占有率はさらに高まるか、場合によっては他のメーカーが追随してナイキ一強の度合いは弱まるかもしれないが、いずれにしても、しばらくは「この型」のシューズの人気はさらに高まっていくはずである。
 池井戸潤原作の人気ドラマ『陸王』が年末に再放送されているのを偶然目にした。本は読んでいたのだが、ドラマは見ていなかった。思わず引き込まれてしまった。老舗の足袋製造会社である『こはぜ屋』が足袋を元にした裸足感覚のマラソンシューズを開発し、大手のスポーツメーカーと競う、というストーリーである。そのスポーツメーカーの靴も、底が薄くて軽いものである。薄さ、つまり軽さとクッション性を兼ね備えたものを極限まで追い求める、というのがこれまでの理想とされてきた。常識と言い換えてもいいかもしれない。それゆえ『陸王』における靴は『こはぜ屋』の物であろうが、スポーツメーカーの物であろうが、「軽さ」=「薄さ」いう図式が根底にあるのだ。それに対して「この型」とは厚底なのだ。クッション性はもちろんのこと、軽さも追求されている。10、20年前と比べて新しい素材が開発されたことが影響している。少々厚くしたところで、重さは大して増えなくなったのであろう。一言断っておくと、分かったようなことを書いてきたが専門的な知識があるわけではないので、事実と異なるかもしれない。その点はご容赦いただきたい。
 先のナイキのシューズ。推進力が増す、つまり、前に進む力が生み出されやすい、というのはどこかで読んでいたので知っていた。それを踏まえて「4%」というのは、かかとの部分を上げて従来品よりも4%分の傾斜をかけている、という意味だと理解していたのだが、事実はそうではなかった。普通に走るより(きっと、一般的なシューズで走るよりも、という意味なのであろう)も4%の推進力が増す、というものであった。余談ではあるが、5%, 10%などより、4%の方が実質的な感じがする、ということで、この数字に決まったのではないだろうか。
 この一連のニュースに接したとき、頭に思い浮かんだのは2つ事柄である。一つは、厚底というのが画期的であること。逆転の発想と呼んでもいいかもしれない。もう一つは、数年後に故障を発症しないかと言うことである。推進力を獲得することの代償にどこかに無理が生じた結果致命的な怪我を負ってしまう、ということである。靴の特性を生かすために若干ではあるがフォームを変更する必要がある、というのをどこかで読んだ。これも真偽のほどは定かではない。一流のスポーツ選手にとっての一番の敵は故障である。プロ野球のピッチャーであれば、肩、肘である。それゆえ、高校野球では常に「球数制限」ということが話題に上がる。あの松坂大輔は、メジャーリーグのピッチャーマウンドの土が日本よりも硬いせいで、日本の時のようにグッと踏み込まずに歩幅を狭めた。踏み出すことによって生み出されていた力を、腕の力に頼ったせいで肘を壊したと言われている。
 長期的な視点に立ったとき、ナイキの靴の良し悪しは私には分からない。ただ、私は、仮にナイキの靴で良い結果が出る傾向にあったとしても、従来の靴を履かせた上でそれなりのタイムが出るように育ててあげたい。もちろん、たとえ話である。箱根駅伝に話を戻すと、10区間の内5区間で新記録が出た。その5人中3人はナイキのシューズであり、残りの2人は違った。5人なので母数は小さいが、4割はその他なのだ。世の中では「それ」ばかりが注目され、「それ以外」には目を向けられない。そして、「それ」だけが成功への唯一の道のように錯覚する。長いものに巻かれるな、と言いたいわけではない。ちなみに「それ」は1種類であるのに対して、「それ以外」は少数派であるにも関わらず、その中でも多種多様なのだ。結果的に「それ」を選ぶにしても、豊かな「それ以外」がたくさんあることを知った上で、自分に合った選択ができるようになって欲しい。

2019.01.08Vol.381 ボーダー

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 冬休みに入って、ある6年生の男の子を2回途中で帰らせた。午前の自習中に話しているのを私が見つけ、40分間の昼休みを10分短縮して席に付いておくように指示していたものの、その時間を3分ほど過ぎてもふざけていたから、というのが1回目。2回目は、私が帰った後、他の講師の時に調子に乗って騒いでいたというのを翌日他の生徒達から聞いたから。
 生徒達に対して「人によって態度を変えてはいけない」、正確には「俺の前ではふざけてもいい。ただ、俺の前でできないことを他の先生に対してするな」と日頃から伝えている。わざわざそのような注意をするぐらいだから、通常変えてしまうものなのだ。この時期、弁当の時間でも静かにしてないといけない進学塾もあるらしい。大人数を統制するのにはそういうものが必要だというのは分からないでもない。だが、私は単純にそういうものが好きではない。ずっとオンの状態というのは非効率この上ない。
 ただ、ある程度自由にさせていただけるのも親御様の理解があってのことだ。もし「受験前だから、許してもらえないでしょうか?」などと言われてしまえば、私は余計なことに気を配らなければならなくなる。私に言わせれば受験前だからこそ重要なのだ。話が飛躍しすぎかもしれないが、上のような受験勉強を経験した子供たちが将来、「頑張る」の意味を間違える大人になるのではないだろうか。効果を最大化するために、どこにどのようにエネルギーを注ぐかを考え、それを実践する。思ったようにいかなければ修正をして結果を出し切る。「頑張ったけどできませんでした」という人の「頑張る」は取り掛かる前にできないことを想定している。予定している、と言い換えてもいいかもしれない。だからこそ「頑張る」のだ。頑張っているように見せるのだ。頑張ってもできないことに挑戦している人など、世の中に3%もいない。もちろん、私は97%の側にいる。仮に、本当に頑張って何かを達成できなければ、その人は「頑張ったけど」という言葉を吐かないはずである。イチローや羽生結弦がそんなコメントをしているところは想像できない。
 タイトルの「ボーダー」というのは「境界(線)」という意味である。私は、子供たちにはその境界線を自分で引ける人になって欲しい。上の話で言えば、オンとオフの間に明確に線を引く。これからの時代はそういうことがより一層求められるようになる。我々が子供の頃はテレビゲームと言うのは、正にテレビの前で行うものであった。外に出てしまえば、やりようがないので自然とオフになったのだが、今は違う。持ち歩けてしまうのだ。最近は中学生になるとスマホを持つが、私の頃は大学生になると携帯を持つ、というのがスタンダードであった。ほとんどの友人が1回生のときに持っていたが、私は1年ぐらい遅らせて確か2回生であった。理由は単純で人につかまりたくなかったから。私はみんなの番号を知っていて、当時は公衆電話もあちこちにあったから、こちらが呼び出したいときに困ることはなかった。中学生の頃、定期試験の前などは図書館の自習室で勉強をしていた。人と行くのは好きではなかった。自分のタイミングと違うときに、休憩しようと誘われたりするからだ。そこまで意志が強くなかったので、甘い誘惑に負けてしまうことも少なくなかった。そうなると「もう一度勉強しよう」とは中々なれないのだ。一緒に行くと線をうまく引けないから、「一人で行く」と「友達と行く」との間に線を引いた。
 私が「ファイルの法則」と名付けたものがある。中高一貫に通い学校帰りに直接塾に来る生徒に関するものなのだが、難関校に通いカバンにいろいろなテキストを詰めた、つまりカバンが重い生徒の方が、教室で使っているファイルをちゃんと持ってくるのだ。そのファイルにはその日教室で書き上げた作文を挟むことが主な目的なので、無くても授業自体はできる。彼らは要領がいいはずなので、彼らこそファイルを持ってこない、と言う方が私にはしっくりとくる。その理由ははっきりと分からないのだが、私が思うにこうである。彼らは、いちいち「これを持って行く必要があるかどうか」というところに無駄にエネルギーを割かない。使うかもしれないものをカバンに入れておき、臨機応変に対応できる状態を作っているのだ。一方で、持ってこない生徒は「楽か」、「楽でないか」の間に線を引く。できる限り楽をしようとする。「要領が良い」のではなく単に「手抜き」なのだ。仮にAというテキストをやる予定で自習に行く。予想より快調に進んでもBを持って来ていないので、それ以上やることがなくなってしまう。また、Aをやらないといけないのだが、どうしても気分が進まない。テスト期間中なのでやることが山積みの時には遊ぶわけにもいかない。そんなときCの勉強をして気分転換をはかればいいのだが、それがないので気乗りしないままAを続ける。
 私は、オンとオフの間にそれなりに線を引ける。ただ、悲しいかなオンの状態が長くない。適切な場所に私より濃い線を引いた上で、かつオンの状態をより持続できるような人になることを生徒達には望む。

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