
2018.12.25Vol.380 期待され、そしてそれに応えたい
今回は、月間報告を通したある親御様とのやり取りを紹介させていただく。内部生の向けの2018年10月版の『志高く』 Vol.138「若者よ」でも扱った、高等専門学校の4年生(大学1年生と同学年)の生徒(大学への編入試験の小論文対策のために、今夏、中学卒業以来、約3年ぶりに戻って来てくれた)に関するものである。
(月間報告)
先月は4回の授業を使って「日本的教育」という題材に関して取り組んでもらいました。いわゆる「暗記型の教育に対して、あなたはどう思いますか?」というよくある類のものです。その前の「自由の息苦しさ」もそうだったのですが、問題文のさわりを読めば「ああ、これはあれだな」と分からないとだめなレベルのものであり、同時に「これはああいう風に答えるのが1つの定型」というところまで思い浮かんでなければいけません。
編入試験の対策のために戻って来てくれたわけですが、最初から専門的なことを書かすのではなく、もっと一般的なテーマを扱うことで思考が柔軟になり、それが小論文対策になると考えていたのですが、思っていた以上に苦戦していますし、それが長引いています。正直、先月はもう少し上向いてくると予想していました。
具体的な内容に話を移します。たとえば、初めて取り組んだときには、一文目に「私は学校で学ぶときはひたすら暗記でも好いと思う」と安易な結論を持って来ていました。もちろん、その後にそのように考える根拠がしっかりと述べられていればいいのですが、そうではありませんでした。そこから分かることは、何だか知らないけどとりあえず結論ぽいことを言ってみよう、という考えを持っているということです。その翌週には、結論は置いておいて、まずは自分が受けてきた教育(中学校までは暗記型、高専ではそこに思考型も追加される)について考察するように、と指示しました。その結果、小学校の授業に関して「自分で深く考える機会は国語の作文や本読み、道徳の授業ぐらいしかなかった」などとしていたのですが、添削の際には「ほんまに作文では頭を使ってたんか?」、「本読みで深く考えるってなんや?」というような指摘をしました。また、教育内容の話をしているのに、なぜだか「中学生の頃にケアレスミスをしたせいで、数学のテストで満点を逃し悔しかった」ということを述べていました。
最重要課題(それは1つの事柄を、複数の事柄と結びつけて、その意味を考える)で挙げたことですが、具体例を出すように伝えても、あるAと言う事柄に対して、すぐそばにあるBと結びつけて終わってしまっています。それが、CやDとつながっているかもしれない、などと考えることはありません。
何ができていないかは分かっているのですが、中々根深いものがあるので、今使用している大学受験用の小論文試験の問題ではなく、もう少し型にはまっていないものにするなどして、思考に広がりが出るようにしていきます。
また、あまりにも物を知らなさすぎるので「TEDでも見たら」と勧めたら、「母から何度か勧められました」と返ってきました。付け刃的になってもうしょうがないのですが、もう少し世の中のことに対する知識を詰め込む必要があります。
(親御様のコメント)
いつもお世話になりありがとうございます。先生のご指摘の一つ一つ、まさに志高塾でしかなかなか言っていただけないことであり、私が言っていただきたかったことです。先生には、たいへんなエネルギーを使わせてしまうことになり、申しわけないのですが、、、、。よろしくお願いいたします。
ノーベル賞の授賞式があり、本庶先生のスピーチの一部が放映されていました。その中で「すべての人々に恩恵を」とおっしゃっているくだりがありましたが、先生が「on the planet」と表現しておられることが心に響きました。それを「世界中の」と訳していたテレビ局が午後の番組では「地球上の」と訳していました。しかし、「on the earth」ではなく「planet」とおっしゃったことに、地球を惑星、宇宙全体の一つの星と捉えておられるように思いました。なんと広い視野、そして、強い使命感かと感銘を受けました。これからを生きる人として、広く、遠くへと視線を向け、そこから、身辺、目の前で起こっていることへと視線を戻して、進む道、取り組むこと、つかむものを選択してほしいと思います。その意味においても、今、思考を耕し、掘り起こす機会をいただいていることは貴重な時間だと思っています。いつもありがとうございます。
少し補足すると、上記「これはああいう風に答えるのが1つの定型」は、それを書けばいいというのではなく、定型、いわゆる一般論を意識した上で、自分の意見を明確にしていくということである。自らの結論が、一般論と同様のものであるなら、そのように述べる理由で少し色を付けなければならず、逆にそれと異なるものにするのであれば説得力のある根拠を並べなければならない。
このお母様とは現在通ってくれている二男の兄が小学生の頃からの付き合いだ。調べてみたら開校1年目からなので、志高塾の歴史と同様の年数なのだ。当時、私にはまだ子供はいなかった。生まれてからは「先生、積み石(正式名称は知らないが、積み木の石版)はいいですよ」と紹介していただき、早速長男に買い与えた。その長男が10歳になるのだから不思議なものである。
このお母様の文章は、このブログか内部生向けの『志高く』で何度か紹介させていただいている。今回いただいたコメントは「月間報告」の内容にも触れているが、いつもはその裏面に掲載している私の『志高く』に関わることについてのことがほとんどである。今でこそ少しはましになったものの、当時の文章は本当にひどいものであった。それにも関わらず「先生の文章を読んだら、触発されて書きたくなるんです」という嬉しいコメントをいただき随分と励まされたものである。
何も、このようなものをすべての親御様に求めているわけではない。たとえば、3人の子供を合計20年(それぞれの子供の通塾期間を足し合わせたもの)通わせてくださっているご家庭もある。計算上240回月間報告をお渡ししたことになるが、どれだけ多く見積もっても何かしらのコメントをいただいたことは10回もない。しかし、月間報告にはしっかりと目を通してくださっているのだ。何も長い年数通わせないとだめだ、と言いたいわけでもない。
このまま文章が行き先を見失いそうなので、強制的に終えることとする。温かい親御様達に支えられながら、おかげさまで充実した1年を過ごすことができました。教育の質をさらに上げられるという手応えを今、私自身強く感じています。来年は志高塾にとって飛躍の年になるはずです。是非ご期待ください。
次の投稿は1月8日(火)です。この1年間ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
2018.12.18Vol.379 ジレンマ
「Vol.359 研修レポート3部作」で説明した通り、我々は研修中に3つのレポートを課している。タイトルにある「ジレンマ」であるが、何に対するものかと言うと、ここで紹介したいレポートがたくさんあるのだが、それをしすぎると「あいつ、手を抜いてるんじゃないか」と思われるだろうから、そのはざまで揺れ動いているのだ。手抜きを今さら隠してもしょうがないか。今回紹介するのは、大学2回生が提出したものであり、最後の課題「志高塾の教え方」に関するものである。実は、彼女のものは1つ目の「志高塾に通う生徒に将来どのような人材になって欲しいか」もかなり面白くて、ジレンマに相談しながらその掲載の頃合いを見計らっているうちに、今回のものが出てきたのだ。
私が志高塾で実現したいことの1つに「質の高い教育を提供したい人」と「質の高い教育を子供に受けさせたい親」のマッチングというのがある。道半ばであり、そもそもそのようなものにゴールなどないのだが、我々が進んでいる道を照らす光の明るさが増している、という確かな手応えを感じている。それではどうぞ。
先日、大学で講義を受けていた際、私は久しぶりに教員に質問をした。どうしても理解できない英文があったからだ。ここで理解できないというのは、和訳が出来ないという意味ではない。その英文は、「 (主張)…….For example…….(主張)…….For example…….」と記されていた。通常、何か明確な主張がある場合、それを後押しするために具体的な例を挙げることは作文において珍しくない。勿論、それが複数の場合もあるだろう。しかし、上述した文章は明らかに著者の主張が二つあり、それに対応する例がそれぞれ1つずつあるようで、私には結局何が言いたいのか分からなかったのだ。それなりの人数が受講する中、私一人の質問で長々と時間をとるわけにもいかないだろうと思った末、「ココの部分、こんなに近くでFor exampleが重複して、読んでいて気持ち悪いんですが。」と言った。直後、これは質問というよりむしろ感想ではないかと心配になった。それを聞いた教員は、「確かに。恐らく著者は先述した主張を伝えたかったのだろうけど、二つ目の例示で主張がすり替わってしまっている。和訳が出来ても、内容は理解しにくいね。」と答えた。そして、選んできた教材を気持ち悪いと評した学生に笑顔でこう付け足した。「上手に和訳することがこの授業の目的ではありません。だから、その気持ち悪いと思える感覚、とても素敵だと思います。大事にしてください。」
その時私は、「質問してみるものだな」と、疑問に回答してもらえて安心した。一方で、最近無意識に自身が質問することを避けていたのだと気づいた。なぜ、このタイミングで質問しようと思ったのか明確には分らないが、恐らく志高塾で働くようになったことも関係しているだろう。様々な研修課題に取り組む中で、日常生活においても言葉への関心が深くなった自覚はある。
この体験から私は、志高塾において、まず教える生徒との対話を積極的に行うよう心がけていきたい。特に、最初に扱う『コボちゃん』や『ロダンのココロ』では、内容確認作業がある。これに関して研修中に感じたのは、確認時に正解以外を話したがらない傾向にある生徒が居るということだ。つなぎ言葉や言い換えに詰まった際、自信の無い回答を避けようとするのである。すると、私自身も生徒の理解度を認識し辛く、思わず沈黙してしまいそうになった。しかし、その沈黙を破る役目はやはり教える側にある。勿論、それは正解を教えればいいということではなく、生徒が正解を模索して発言しようとする雰囲気を作るということだ。例えば、生徒の述べた見解が不適切だったとしても、何故それが適切ではないのかを伝えることは、生徒の学びを手助けできる。一方で、自分が沈黙を防ごうとするあまり、上記の教材内容の過剰確認やこちらが話し続けることになってしまわないよう留意していかなければならない。
もし、これらの課題で生徒の積極的発言が引き出せたなら、それはきっと次の教材『きまぐれロボット』や『小さな町の風景』で活かされる。なぜなら、これらの教材では内容確認作業が無くなり、生徒は自発的に書く姿勢へと変化していくからだ。自身が研修課題に取り組む中で、『ロダンのココロ』と『きまぐれロボット』の間にはかなり難易度の差があると痛感した。まず後者の教材では、視覚的な情報はほぼ無く、代わりに内容の情報量が一気に増える。だから、生徒は情報の取捨選択を求められるが、要約の際に教材を読み返すことは許されていない。だからこそ、文章を具体的に想像し、それを視覚的な手がかりとして要約に取り組む必要がある。教える立場としては、単なる抜粋の組み合わせではなく、生徒がこのような思考を働かせているかどうかを見極めていきたい。またこの教材では、最後に主題を読み取らなくてはならない。ここで初めて、生徒は教材の内容の枠を越え、自身を含めた一般と物語の共通点を探す。その回答の正誤に関わらず、生徒が私達全体への教訓になると思ったなら、その具体的な例を求めることも忘れずに行いたい。
次に、この抽象化は、『小さな町の風景』において本文の特徴になっていることがある。この教材は、心情描写や行動の意図等において抽象的な表現が見られ、生徒はそこから具体的な内容を読み取らなくてはならない。課題表面の記述2題に関しては、私にとっても難しく、教えることに懸念が残る。しかし、ここに至るまでの3つの教材で培われる力は、この段階で役立っている確信できる。生徒自身にも、同様の自信をもって取り組んでもらえるよう、私自身がその教材まで到達した生徒の力量を信じたい。その期待は、生徒が恐れず表現の幅を最大限に使い、さらにはその枠を広げようと試みることに繋がるのではないだろうか。
最後に授業全体に関する私の目指す教え方を提示する。冒頭の教員とのやりとりに戻るが、私は彼から頂いた最後の言葉も印象的だった。上述したような褒められ方をした経験がほとんど無かったからである。私にとって、叱ることは伝え方を考えなくてはならないため容易ではなく、それに比べ褒めるのは簡単なことだと思っていた。しかし、実際はどちらも単純なものではないと、その教員の言葉や研修中に気付いた。
例えば、研修中にある講師と生徒が入試の読解問題の答え合わせをしていた。生徒はある選択問題で正答したが、講師は生徒を叱った。なぜなら、具体的な根拠が無いまま回答を行った結果だからである。一方で、たとえ生徒が適当ではない記述をしても、講師はなぜそう書いたのかを尋ね、その質問に対して具体的な理由が説明できていれば、まずそのことを褒めてから解説に移った。以前まで、その生徒は記述問題も感覚的に解いてしまうことがほとんどで、根拠を述べようとする姿勢は一つの成長だからである。
つまり、問いに対する正誤と、褒める・叱るという行為には直接的な関係がほとんど無い。最も重要なのは、生徒がどのようにしてその答えに辿りついたかという過程である。指導を行う上で、その過程を探ることがどの教材・課題においても不可欠で、むしろそれは教える者の責任である。答えが正解か不正解か判断するのは私達の本来の役目ではなく、それは問題集の解答解説に載っている。生徒が志高塾に通っている以上、私は積極的に対話し、生徒自身が何を考え、どのようにそこへ至ったのかを理解したい。そして、それに対して、出来る限りの反応を示すことを念頭に置き、働いていこうと決心している。
2018.12.11Vol.378 AI vs. 教科書が読めない子どもたち
新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』。この本を検索した人が、何かしらの理由で志高塾にたどり着いてくれないかな、という邪な考えとともにそのまま使用した。こういう扇情的なタイトルの本は通常手に取らない。大抵は面白くないからだ。それにも関わらず買おう、となったのは、20年来の友人が勧めてくれたことがきっかけである。そのときのコメントは次の通りである。
「AI vs. 教科書が読めない子どもたちの本を読んだ親は、どうにかして自分の子供の読解力を上げたい、と思うはずだから、その親たちがどういう単語で検索するか考えたら、たくさん入塾してくれるんじゃない?」
この直前に「どうしたら生徒増えるかな?」と相談していたわけではなく(もしかすると、飲むたびに「なんで生徒が増えないんやー」と管を巻いていたのかもしれないが)、何の前触れもなく送られてきた。
実際に読むと、予想をはるかに上回る面白さであった。ここからは本の内容に移るが、その前に筆者の経歴について簡単に触れておく。
「一橋大学法学部およびイリノイ大学数学科卒業。2011年より人工知能プロジェクト『ロボットは東大に入れるか』プロジェクトディレクタを務める。2016年より『リーディングスキルテスト』の研究開発を主導。」
理系、文系という言葉は好きではない。それらに「国語は嫌い」、「数学ができない」という意味が含まれることが少なくないからだ。あえてそれらを使って表現するのであれば、筆者は文系から理系に移っている。詳しく知っているわけではないが、欧米では日本より圧倒的にそのような横断的な学び方は多いはずである。言葉と数字のバランスの良さが際立つ文章であった。どちらかに偏ってしまうと、すごく感覚的なもの、逆に論理だけのガチガチのものになってしまいかねない。私は、HPの冒頭部分で「『言葉』と『数字』は思考をする上での両輪です」と述べているが、正に、それが体現されているように感じられた。
ブックカバーのそでの部分には次のようなことが書かれていた。
「大規模な調査の結果わかった驚愕の実態
日本の中高生の多くは、中学校の教科書の文章を正確に理解できない。多くの仕事がAIに代替される将来、読解力のない人間は失業するしかない・・・・
気鋭の数学者が導き出した最悪のシナリオと教育への提言。」
AIによって、人間の仕事が奪われても新たな仕事が生み出されるから大丈夫だ、という楽観論に、筆者は警鐘を鳴らしている。新たな仕事など生み出されない、と考えているからではない。工場がオートメーション化されることによって、確かに事務作業を行う、ホワイトカラーという新しい労働階級が生まれた。しかし、工場労働者はホワイトカラーになる教育を受けていなかったため、そのまま失業状態に陥ったという事実があるからだ。つまり、新たな仕事と言うのは、AIに奪われた仕事よりも高度な技量が求められることになる。
途中にはなったが、表現の仕方についてここでことわっておく。この文章では本の内容を紹介することを主な目的としている。筆者の考えと私の個人的な感想を区別するためには、本来であれば「筆者は~と語っている」、「私は~と思う」などとすればいいのだが、その都度それを差し挟むのもまどろっこしいので毎回明記しているわけではない。要は、2つが混在しているということである。その点はご了承いただきたい。
巷ではAIという言葉が氾濫しているが、その定義自体があいまいである。それについては次のようにある。
「人工知能と言うからには、人間の一般的な知能とまったく同じとまでは言わなくても、それと同等レベルの能力のある知能でなければなりません。基本的にはコンピュータがしているのは計算です。もっと正直に言えば四則演算です。言い換えると、人工知能の目標とは、人間の知的活動を四則演算で表現するか、表現できていると私たち人間が感じる程度に近づけることなのです。」
筆者は「今後も、遠い未来はともかく、近未来に人工知能が誕生することはありません」と断言している。この「近未来」というのは「我々の子供世代が生きている間」という意味である。
「人間の知的活動を四則演算で表現する」とは何か。我々の指導も「知的活動」の1つである。たとえば、登場人物が笑っているのを生徒が「嬉しい」と表現したとする。『ロダンのココロ』以降は、「思う」の使用を禁止している。無意識に「思う」を使っていた生徒であれば「ようやく言われてたことを意識できるようになったやん」、平仮名で書いていた生徒であれば「漢字で書けるようになったか」と褒める。一方で、表現を工夫しない生徒であれば「プラスの心情を表すときに、『嬉しい』と『喜ぶ』の2つをあほみたいに使い回すな」と注意しなければならないし、中高生であれば「もう少し気の利いた表現にせなアカンで。たとえば『笑みがこぼれる』とするとか」とより高いレベルを求めてあげなければならない。その作文において、別の個所の修正で多くの時間を費やしていたのであれば、あえてその部分の考え直しはさらっと済ませることもある。その1つの作文だけでなく直近の1か月ぐらいのことを考慮して「最近は、添削に時間が掛かりすぎているから、ここはあっさりと」、「先生にヒントを出してもらう癖がつきつつあるから、10分でも20分でも考えさせるか」など状況に応じて判断することになる。時には授業を延長する必要が出てくるのだが、その場合、親御様の考えにも配慮しなければならない。「終わるまでやらせてください」という方もいるし、女の子であれば「少し遅くなりますが大丈夫でしょうか?」とお母様が心配しないように連絡を入れないといけないこともある。その他、延長したことにより、次のコマの生徒を待たせることになってはならないので、そのことも頭に入れておかなければならない。決断するまでに、どの要素を加味して、それらをどのように扱ったのかという過程をすべて数式で表せれば、私の仕事はAIに任せられるのだが、それは容易なことではない。
この本に関わることをこのまま書き続けると、この10倍以上のボリュームになるのでここらへんでやめる。是非、読んでみてください。すると、子供の将来を明るくするために何をしないといけないかが見えてきますし、少なくとも5年以上は「AIによって将来は・・・」みたいな、いたずらに不安を煽り立てるようなものは読まなくて済みます。
最後に、最近あった嬉しいこと(生徒であれば、「考え直しをさせる」と偉そうなことを言っていたにも関わらず)を報告して終わりとする。中学入学のタイミングで卒業した中1の男の子が帰ってくることになった。この夏休みも短期的に通ってくれていたし、いつか戻ってくることはほぼ確定していたものの随分と早い復帰である。そのご連絡をいただいた際「ありがとうございます。どうしたんですか?」と尋ねたら、彼の兄が「早く戻った方がいい」と勧めたのが、早期復帰の理由とのこと。その兄は、国語が散々な状況で高2から通い始め、現役で京大の経済学部に入学した。合格の報告に来てくれた時には「京大にも本当にできるやつとそうでないやつがいるから、後者になるなよ。俺はあほやったけど、人間的に賢くなりや」というような言葉と共に、具体的な本を勧めるなどして送り出した。兄は高校の2年間だけで、弟は小学校に3年間通っていたから、大学受験だけのことを考えれば、「高校になってからで十分やろ」となるはずである。大学に入って、志高塾で学ぶことの意義を理解してくれたのだろうか、などと良いように考えた。弟が帰って来てくれることももちろんだが、それ以上に、兄が勧めてくれたことが私を喜ばせた(こちらも使っちゃうという荒技)。この心の動きも式でなんかは表せない。
2018.12.04Vol.377 意外とね、結構ね
「先生は、自己責任やと思う?」。中1の男の子が私に尋ねてきた。安田純平氏の話である。質問に答える前に、いろいろ言われている中でどの説の可能性が一番高いと考えているかを、理由を添えて簡単に説明した上で、次のような話をした。「ちょうど、この数日間それについて考えててんけど、そもそも言葉の使われ方がおかしい。今回の件に関して、俺は、日本政府はお金を払っていないという考えを支持している。仮に払っていたとしても、それを他の人が『自己責任だ』ととやかく言うものではない。その場合、税金が使われることになるので当事者だ、というのもあるかもしれないが。本来、自己責任と言うのは、何かうまく行かないことがあったときに、それを誰かのせいにせず自分の責任だ、と受け止める。そうすることで、それを糧として成長することができる。そういうことのために使うべき言葉だ」と。「私が彼の自己紹介をします」とは言わない。その場合は「彼を紹介します」となるのが普通で、あえて言葉を当てるのであれば「彼の他己紹介をします」となるのではないだろうか。「自己」というのは、字の組み合わせの通り、自らのこと己のことに限って用いるべきなのだ。
先日、元生徒の5年生の女の子のお母様から「先生、また戻りたいんですけど」という話をいただいた。実は、彼女は過去に3回休塾しているのだ。私はそれをお断りした。回数の問題ではない。前回休みに入るときは、学校の友達とあまりうまく行っていないこともあり、習い事を全部やめさせます、という話であった。そのとき、私の中で「進学塾はやめさせないんだろうな」というのがあった。そのときにそんなことは言わなかったが、今回当時私がどのように考えていたかは正直に伝えた。もし、本当にその問題を解決するのであれば、それこそ志高塾でやっている言葉で考えるというのが役立つのではないだろうか、というのがあった。やはり、進学塾はやめなかったとのこと。その理由が「本人がやめたくないと言ったので」ということだったのだが、「それはずるいです。結局、親としてやめさせるのが怖かったから、それを受け入れたのです」と返した。そのお母様を恨んでいるわけでもなく、腹を立てているわけでもない。だから「将来のために志高塾に通わせる、と思っていただけるのであれば、中学受験が終わってから来てください。その時はウェルカムです。」と私の考えを述べて電話を切った。もちろん、それは嘘偽りのない本心である。
3, 4年前だろうか。中学受験生が多かった時に6年生の募集だけを締め切った。そのときも紹介だけは受け入れられる枠だけは残していたので、余裕がなかったわけではない。紹介ではなかったのだが「受験をしないので6年生だけど入れてもらえないか。公立の中学校に行った時のために基礎的な力をつけてあげたい」という話があった。迷った挙句、それであれば、ということで体験授業をして入塾の運びとなった。その数か月後、急に受験をすることになりました、と伝えられ、我々は対策をすることに。基礎が十分でなかったのだが、受験のためには応用問題にも対応する必要があり、正直かなり苦しかった。時間があまりにもなさ過ぎたのだ。やはり結果は不合格であった。そして、受験後退塾することになった。一体、我々は何を求められていたのであろうか。もちろん、人間だから途中で考えが変わることがある。一度口にしたことを守らないといけないわけではない。ただ、私にはそういうものは意外にこたえる。偉そうにしている奴ほど小心者だし、いかつい風貌の奴ほど傷つきやすいのだ。
「高校3年生の卒業まで通わせます」とおっしゃっていただいていたのだが、小1から来てくれていた女の子が中3の夏休みを前に退塾になった。それまでは集団授業が嫌いで志高塾だけだったのが、初めて本人が「他の塾に行きたい」と言い出したのだ。本人の考えが変わったことに成長を感じ、嬉しかった。高校受験が終わってから親子であいさつも来てくれた。今、高1のその子は、今年の夏休み、社会人に仕事に関するインタビューをする、という課題が学校から出され、私を選んでくれた。明らかな人選ミスである。夏期講習はそれなりに忙しかったのが、喜んで引き受けた。まあ、俺みたいないい加減な仕事の仕方は他の人と違いすぎて何の参考にもならへんで、と事前に伝えてはいた。長い付き合いなので、彼女自身そのことをよく知っていた。本人に直接話したかどうかは忘れてしまったが、大学に入学したら講師として戻ってきて欲しいとも考えている。今も、大学入学まで、とおっしゃってくださる方が数名いる。「先は長いですねぇ」と話しているのだが、もし、彼らが「志高塾では習うことがなくなった」と途中で卒業して行っても「そうか。そこまで来たか。次のところで頑張れ」と喜んでさようならをする。
先日、小1から通い中学受験後に志高塾を卒業した中1の男の子のお母様が半年ぶりぐらいに私を訪ねてきてくれた。お子様の話とは全然関係のない要件であったのだが、30分ほど入学後の話などを楽しく聞かせていただいた。親御様と密にコミュニケーションを取るぞ、などと意気込むことはないし、むしろある程度距離を取るようにしている。離れているのが心地いい人もいるからだ。何かあれば親御様の方から近寄ってきてくださるので、そのときに距離間の修正を行えばいい。
事がうまく運べば喜びを感じられる。そうでなければ時に辛い思いをすることになるが、自己責任だと捉えればその分だけ前に進める。自分の心がけ次第ですべてを自分のエネルギーに変換できる。闇雲に真正面からぶつかればいいわけではないので、タイミングや強さに対する配慮は不可欠である。ただ、常に真正面を向いている人でありたい。