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2018.12.18Vol.379 ジレンマ

 「Vol.359 研修レポート3部作」で説明した通り、我々は研修中に3つのレポートを課している。タイトルにある「ジレンマ」であるが、何に対するものかと言うと、ここで紹介したいレポートがたくさんあるのだが、それをしすぎると「あいつ、手を抜いてるんじゃないか」と思われるだろうから、そのはざまで揺れ動いているのだ。手抜きを今さら隠してもしょうがないか。今回紹介するのは、大学2回生が提出したものであり、最後の課題「志高塾の教え方」に関するものである。実は、彼女のものは1つ目の「志高塾に通う生徒に将来どのような人材になって欲しいか」もかなり面白くて、ジレンマに相談しながらその掲載の頃合いを見計らっているうちに、今回のものが出てきたのだ。
 私が志高塾で実現したいことの1つに「質の高い教育を提供したい人」と「質の高い教育を子供に受けさせたい親」のマッチングというのがある。道半ばであり、そもそもそのようなものにゴールなどないのだが、我々が進んでいる道を照らす光の明るさが増している、という確かな手応えを感じている。それではどうぞ。

先日、大学で講義を受けていた際、私は久しぶりに教員に質問をした。どうしても理解できない英文があったからだ。ここで理解できないというのは、和訳が出来ないという意味ではない。その英文は、「 (主張)…….For example…….(主張)…….For example…….」と記されていた。通常、何か明確な主張がある場合、それを後押しするために具体的な例を挙げることは作文において珍しくない。勿論、それが複数の場合もあるだろう。しかし、上述した文章は明らかに著者の主張が二つあり、それに対応する例がそれぞれ1つずつあるようで、私には結局何が言いたいのか分からなかったのだ。それなりの人数が受講する中、私一人の質問で長々と時間をとるわけにもいかないだろうと思った末、「ココの部分、こんなに近くでFor exampleが重複して、読んでいて気持ち悪いんですが。」と言った。直後、これは質問というよりむしろ感想ではないかと心配になった。それを聞いた教員は、「確かに。恐らく著者は先述した主張を伝えたかったのだろうけど、二つ目の例示で主張がすり替わってしまっている。和訳が出来ても、内容は理解しにくいね。」と答えた。そして、選んできた教材を気持ち悪いと評した学生に笑顔でこう付け足した。「上手に和訳することがこの授業の目的ではありません。だから、その気持ち悪いと思える感覚、とても素敵だと思います。大事にしてください。」
 その時私は、「質問してみるものだな」と、疑問に回答してもらえて安心した。一方で、最近無意識に自身が質問することを避けていたのだと気づいた。なぜ、このタイミングで質問しようと思ったのか明確には分らないが、恐らく志高塾で働くようになったことも関係しているだろう。様々な研修課題に取り組む中で、日常生活においても言葉への関心が深くなった自覚はある。
 この体験から私は、志高塾において、まず教える生徒との対話を積極的に行うよう心がけていきたい。特に、最初に扱う『コボちゃん』や『ロダンのココロ』では、内容確認作業がある。これに関して研修中に感じたのは、確認時に正解以外を話したがらない傾向にある生徒が居るということだ。つなぎ言葉や言い換えに詰まった際、自信の無い回答を避けようとするのである。すると、私自身も生徒の理解度を認識し辛く、思わず沈黙してしまいそうになった。しかし、その沈黙を破る役目はやはり教える側にある。勿論、それは正解を教えればいいということではなく、生徒が正解を模索して発言しようとする雰囲気を作るということだ。例えば、生徒の述べた見解が不適切だったとしても、何故それが適切ではないのかを伝えることは、生徒の学びを手助けできる。一方で、自分が沈黙を防ごうとするあまり、上記の教材内容の過剰確認やこちらが話し続けることになってしまわないよう留意していかなければならない。
 もし、これらの課題で生徒の積極的発言が引き出せたなら、それはきっと次の教材『きまぐれロボット』や『小さな町の風景』で活かされる。なぜなら、これらの教材では内容確認作業が無くなり、生徒は自発的に書く姿勢へと変化していくからだ。自身が研修課題に取り組む中で、『ロダンのココロ』と『きまぐれロボット』の間にはかなり難易度の差があると痛感した。まず後者の教材では、視覚的な情報はほぼ無く、代わりに内容の情報量が一気に増える。だから、生徒は情報の取捨選択を求められるが、要約の際に教材を読み返すことは許されていない。だからこそ、文章を具体的に想像し、それを視覚的な手がかりとして要約に取り組む必要がある。教える立場としては、単なる抜粋の組み合わせではなく、生徒がこのような思考を働かせているかどうかを見極めていきたい。またこの教材では、最後に主題を読み取らなくてはならない。ここで初めて、生徒は教材の内容の枠を越え、自身を含めた一般と物語の共通点を探す。その回答の正誤に関わらず、生徒が私達全体への教訓になると思ったなら、その具体的な例を求めることも忘れずに行いたい。
 次に、この抽象化は、『小さな町の風景』において本文の特徴になっていることがある。この教材は、心情描写や行動の意図等において抽象的な表現が見られ、生徒はそこから具体的な内容を読み取らなくてはならない。課題表面の記述2題に関しては、私にとっても難しく、教えることに懸念が残る。しかし、ここに至るまでの3つの教材で培われる力は、この段階で役立っている確信できる。生徒自身にも、同様の自信をもって取り組んでもらえるよう、私自身がその教材まで到達した生徒の力量を信じたい。その期待は、生徒が恐れず表現の幅を最大限に使い、さらにはその枠を広げようと試みることに繋がるのではないだろうか。
 最後に授業全体に関する私の目指す教え方を提示する。冒頭の教員とのやりとりに戻るが、私は彼から頂いた最後の言葉も印象的だった。上述したような褒められ方をした経験がほとんど無かったからである。私にとって、叱ることは伝え方を考えなくてはならないため容易ではなく、それに比べ褒めるのは簡単なことだと思っていた。しかし、実際はどちらも単純なものではないと、その教員の言葉や研修中に気付いた。
 例えば、研修中にある講師と生徒が入試の読解問題の答え合わせをしていた。生徒はある選択問題で正答したが、講師は生徒を叱った。なぜなら、具体的な根拠が無いまま回答を行った結果だからである。一方で、たとえ生徒が適当ではない記述をしても、講師はなぜそう書いたのかを尋ね、その質問に対して具体的な理由が説明できていれば、まずそのことを褒めてから解説に移った。以前まで、その生徒は記述問題も感覚的に解いてしまうことがほとんどで、根拠を述べようとする姿勢は一つの成長だからである。
 つまり、問いに対する正誤と、褒める・叱るという行為には直接的な関係がほとんど無い。最も重要なのは、生徒がどのようにしてその答えに辿りついたかという過程である。指導を行う上で、その過程を探ることがどの教材・課題においても不可欠で、むしろそれは教える者の責任である。答えが正解か不正解か判断するのは私達の本来の役目ではなく、それは問題集の解答解説に載っている。生徒が志高塾に通っている以上、私は積極的に対話し、生徒自身が何を考え、どのようにそこへ至ったのかを理解したい。そして、それに対して、出来る限りの反応を示すことを念頭に置き、働いていこうと決心している。

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