
2018.12.11Vol.378 AI vs. 教科書が読めない子どもたち
新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』。この本を検索した人が、何かしらの理由で志高塾にたどり着いてくれないかな、という邪な考えとともにそのまま使用した。こういう扇情的なタイトルの本は通常手に取らない。大抵は面白くないからだ。それにも関わらず買おう、となったのは、20年来の友人が勧めてくれたことがきっかけである。そのときのコメントは次の通りである。
「AI vs. 教科書が読めない子どもたちの本を読んだ親は、どうにかして自分の子供の読解力を上げたい、と思うはずだから、その親たちがどういう単語で検索するか考えたら、たくさん入塾してくれるんじゃない?」
この直前に「どうしたら生徒増えるかな?」と相談していたわけではなく(もしかすると、飲むたびに「なんで生徒が増えないんやー」と管を巻いていたのかもしれないが)、何の前触れもなく送られてきた。
実際に読むと、予想をはるかに上回る面白さであった。ここからは本の内容に移るが、その前に筆者の経歴について簡単に触れておく。
「一橋大学法学部およびイリノイ大学数学科卒業。2011年より人工知能プロジェクト『ロボットは東大に入れるか』プロジェクトディレクタを務める。2016年より『リーディングスキルテスト』の研究開発を主導。」
理系、文系という言葉は好きではない。それらに「国語は嫌い」、「数学ができない」という意味が含まれることが少なくないからだ。あえてそれらを使って表現するのであれば、筆者は文系から理系に移っている。詳しく知っているわけではないが、欧米では日本より圧倒的にそのような横断的な学び方は多いはずである。言葉と数字のバランスの良さが際立つ文章であった。どちらかに偏ってしまうと、すごく感覚的なもの、逆に論理だけのガチガチのものになってしまいかねない。私は、HPの冒頭部分で「『言葉』と『数字』は思考をする上での両輪です」と述べているが、正に、それが体現されているように感じられた。
ブックカバーのそでの部分には次のようなことが書かれていた。
「大規模な調査の結果わかった驚愕の実態
日本の中高生の多くは、中学校の教科書の文章を正確に理解できない。多くの仕事がAIに代替される将来、読解力のない人間は失業するしかない・・・・
気鋭の数学者が導き出した最悪のシナリオと教育への提言。」
AIによって、人間の仕事が奪われても新たな仕事が生み出されるから大丈夫だ、という楽観論に、筆者は警鐘を鳴らしている。新たな仕事など生み出されない、と考えているからではない。工場がオートメーション化されることによって、確かに事務作業を行う、ホワイトカラーという新しい労働階級が生まれた。しかし、工場労働者はホワイトカラーになる教育を受けていなかったため、そのまま失業状態に陥ったという事実があるからだ。つまり、新たな仕事と言うのは、AIに奪われた仕事よりも高度な技量が求められることになる。
途中にはなったが、表現の仕方についてここでことわっておく。この文章では本の内容を紹介することを主な目的としている。筆者の考えと私の個人的な感想を区別するためには、本来であれば「筆者は~と語っている」、「私は~と思う」などとすればいいのだが、その都度それを差し挟むのもまどろっこしいので毎回明記しているわけではない。要は、2つが混在しているということである。その点はご了承いただきたい。
巷ではAIという言葉が氾濫しているが、その定義自体があいまいである。それについては次のようにある。
「人工知能と言うからには、人間の一般的な知能とまったく同じとまでは言わなくても、それと同等レベルの能力のある知能でなければなりません。基本的にはコンピュータがしているのは計算です。もっと正直に言えば四則演算です。言い換えると、人工知能の目標とは、人間の知的活動を四則演算で表現するか、表現できていると私たち人間が感じる程度に近づけることなのです。」
筆者は「今後も、遠い未来はともかく、近未来に人工知能が誕生することはありません」と断言している。この「近未来」というのは「我々の子供世代が生きている間」という意味である。
「人間の知的活動を四則演算で表現する」とは何か。我々の指導も「知的活動」の1つである。たとえば、登場人物が笑っているのを生徒が「嬉しい」と表現したとする。『ロダンのココロ』以降は、「思う」の使用を禁止している。無意識に「思う」を使っていた生徒であれば「ようやく言われてたことを意識できるようになったやん」、平仮名で書いていた生徒であれば「漢字で書けるようになったか」と褒める。一方で、表現を工夫しない生徒であれば「プラスの心情を表すときに、『嬉しい』と『喜ぶ』の2つをあほみたいに使い回すな」と注意しなければならないし、中高生であれば「もう少し気の利いた表現にせなアカンで。たとえば『笑みがこぼれる』とするとか」とより高いレベルを求めてあげなければならない。その作文において、別の個所の修正で多くの時間を費やしていたのであれば、あえてその部分の考え直しはさらっと済ませることもある。その1つの作文だけでなく直近の1か月ぐらいのことを考慮して「最近は、添削に時間が掛かりすぎているから、ここはあっさりと」、「先生にヒントを出してもらう癖がつきつつあるから、10分でも20分でも考えさせるか」など状況に応じて判断することになる。時には授業を延長する必要が出てくるのだが、その場合、親御様の考えにも配慮しなければならない。「終わるまでやらせてください」という方もいるし、女の子であれば「少し遅くなりますが大丈夫でしょうか?」とお母様が心配しないように連絡を入れないといけないこともある。その他、延長したことにより、次のコマの生徒を待たせることになってはならないので、そのことも頭に入れておかなければならない。決断するまでに、どの要素を加味して、それらをどのように扱ったのかという過程をすべて数式で表せれば、私の仕事はAIに任せられるのだが、それは容易なことではない。
この本に関わることをこのまま書き続けると、この10倍以上のボリュームになるのでここらへんでやめる。是非、読んでみてください。すると、子供の将来を明るくするために何をしないといけないかが見えてきますし、少なくとも5年以上は「AIによって将来は・・・」みたいな、いたずらに不安を煽り立てるようなものは読まなくて済みます。
最後に、最近あった嬉しいこと(生徒であれば、「考え直しをさせる」と偉そうなことを言っていたにも関わらず)を報告して終わりとする。中学入学のタイミングで卒業した中1の男の子が帰ってくることになった。この夏休みも短期的に通ってくれていたし、いつか戻ってくることはほぼ確定していたものの随分と早い復帰である。そのご連絡をいただいた際「ありがとうございます。どうしたんですか?」と尋ねたら、彼の兄が「早く戻った方がいい」と勧めたのが、早期復帰の理由とのこと。その兄は、国語が散々な状況で高2から通い始め、現役で京大の経済学部に入学した。合格の報告に来てくれた時には「京大にも本当にできるやつとそうでないやつがいるから、後者になるなよ。俺はあほやったけど、人間的に賢くなりや」というような言葉と共に、具体的な本を勧めるなどして送り出した。兄は高校の2年間だけで、弟は小学校に3年間通っていたから、大学受験だけのことを考えれば、「高校になってからで十分やろ」となるはずである。大学に入って、志高塾で学ぶことの意義を理解してくれたのだろうか、などと良いように考えた。弟が帰って来てくれることももちろんだが、それ以上に、兄が勧めてくれたことが私を喜ばせた(こちらも使っちゃうという荒技)。この心の動きも式でなんかは表せない。