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2018.11.27Vol.376 中途半端な教え方

 いかにも無駄の多そうな風景、志高塾らしさが戻ってきた。先日、生徒4人に対して講師6人という状態が1時間ぐらいは続いただろうか。6人の内2人は研修中であったものの、「生徒2人に講師1人」と謳っているので、数字上は2人いれば約束を果たしていることになる。カルロス・ゴーンではないが、効率性を求めることはそれほど難しいことではない。無慈悲にやり切るという意思の強さは求められるが、それだけではアイデアとして陳腐である。たとえば、サプライヤー5社に1個100円で1,000個ずつの注文を出していたのを1社に絞る。下請け業者としては、5,000個の受注が得られる。当然その分、単価は下げられる。「80円でやります」という業者が出てこれば「いや、うちは75円で」となる。その結果、無理が生じる。トヨタも同じようなことをして、確か、不良品が大量に出たときにその考えを改めた。下請けの工場があるところが、災害に見舞われても似たようなことになる。効率性からリスクヘッジに舵を切った。リスクヘッジと言うのは、マイナスを少しでも減らそう、という考えである。私にもその考えはあるが、内容は180度異なる。講師の数だけ増えて同じ仕事をするのであれば、一人当たりの仕事量は減る。それでは意味がないどころか害悪である。だらだらと指導することになるからだ。本来想定されるプラスを減じることにつながるリスクを避けるために、ボーっと立っている人を出さないための役割分担が必要になる。さすがに全自動とは行かないので、講師が多いときにはいくつか具体的な指示は出すものの、各人が自覚を持って指導に当たってくれているのはありがたいことである。生徒が休みになれば「必要ないから帰ってください」ではなく、「その分を、今授業を受けている生徒に注ぎ込んであげてください」という考えである。
 前置きと言うか、本題に関係のない話が長くなってしまった。たとえば、広告において、西宮北口校は「作文がカリキュラムの中心」、豊中校は「国語専門」という文言を用いる。HPでは双方を包括する必要があるので、より範囲の広い「作文がカリキュラムの中心」に合わせることになる。西宮北口校では算数や数学を教えているからだ。過去にもブログではそのことに触れて来たので隠しているわけではないが、HPの中で明確にそのことをアピールすることはない。国語と算数、どちらか教える教科を選べ、と言われれば、何の躊躇もなく国語を選ぶ。語弊を恐れずに言えば、算数を教えたいわけではない。しかし、何らかの理由でそれを我々に求めていただけるのであれば、その期待には応えたい。さらにややこしいことを言えば、算数を教えること自体は好きなのだ。個人的に好きなのと、塾としてそれを教えていくべきかどうかは別の話だということである。位置づけとしてはおまけではあるわけであるが、だからと言って質が低くていいわけではない。逆に、おまけだからこそ、質が高くなくてはならない、といった方が正しい気がする。
 その算数、ある問題をホワイトボードに書いて解説して「後はやって」と声を掛けたら、10分以上経って「先生、あれ何書いてるん?意味がよう分からへん」と生徒が訴えてきた。その後「教え方が下手や」などと暴言を吐いていたような気もする。実は、一緒に聞いていたもう1人の生徒は「分かるやん」となっていた。ヒントが順番に出されていき、分かった時点で司会者の耳にこしょこしょと内緒で答えを伝えると、いう形式の芸能人が参加するクイズ番組がある。仮に10人参加していたとする。最初のいくつかのヒントでは2, 3人だけが正解する。そのとき、彼らの顔に喜びがある。そして、ある決定的なものを境に一気に正答者は増える。彼らに漂うのは安堵感である。最後まで残らなくて良かった、という。一視聴者としても、後者の側に含まれたとき「全然わからんかったなぁ」という無念さしか残らない。そこに満足感はない。
 国語の研修では、最初の4コマ(1コマ90分)は、授業中に個人的にメモを取るだけ。その次の4コマでは、月間報告の元となる、生徒ごとの「授業メモ」を記入する。その次の4コマで『コボちゃん』や『ロダンのココロ』の内容確認をしてもらう。そのときに九分九厘起こるのが、「ここでの気持ちはどう表現する?」「これを言い換えるとどうなる?」といったように隅々まで生徒に考えさせるということである。抜けがあるのが怖いのだ。それは責任感の表れともいえる。しかし、それをしてしまうと生徒は確認した内容を思い出しながら、ただそれを書き写す「作業」をすることになる。教えるのに慣れてくると、ポイントだけになる。すると、子供たちは作文のときに、その点と点をどのように結べばきれいな線になるかに頭を使うことになる。その余地を最大化することに責任を負う、というのが講師の本当の役割である。
 勉強を教えるとうのは、生徒個人の力で再現できるように導いてあげる、ということである。「国語は教えにくい」と言われるが、ある問題を詳しく解説したところで、別の文章になったときに再現されるという自信が教えている側に持てないことに起因している。しかし、私に言わせれば、実は算数こそ気を付けなくてはならない。簡単に再現されそうな錯覚に陥りやすいからだ。宿題で問題番号の横に「つるかめ算」と書かれていれば解ける。しかし、テストになったらそんなヒントはないから基本的なものでも手が出ない。家での直しのときに「これはつるかめ算でしょ」と親が教えると「なるほど」となって、すぐに正解する。それを持って「ちょっとヒント出したら解けるから大丈夫」と親は安心する。何も再現していないにも関わらず。
 私は、今も昔も算数の方が国語より断然得意である。あくまでも私の中での話である。だからと言って、特別に頭が良いわけでも、研究熱心なわけでもない。それでも悪くない程度に結果が出せるのは、いかに多くの考える余地を残すかということに気を配っていること、また、生徒ごとにどこまでのレベルなら理解できるかをある程度つかめていること、の2つがあるからだと自分では思っている。公式なども含めた基本的なことは理路整然と教えなければならない。しかし、それを個々の問題でどう活用するかが分かっていない生徒に、10人いれば10人がスムーズに納得できるような状態にして、何かを与えたような満足感を得てはならない。
 目指すは完璧な教え方ではない。より完璧な中途半端な教え方に向かって進んで行かなくてはならない。しかし、教え方には作文同様正解はない。そう考えると、より精度の高い中途半端な教え方、というのをずっとずっと先に見据えながら前進あるのみである。私個人としても、もちろん志高塾全体としても。

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