
2017.08.29Vol.315 計算間違いをしない“唯一”“絶対”の方法
今回は1年生の二男の話。3年生の長男と年中の三男は、大体こんな感じかなぁ、と予測が付く。その2人の発言を聞いていると、身の回りで起こったことがそれなりに整理されて頭に入っていることが分かるからだ。三男は、YMCAの体育活動とスイミングを習っているだけである。よって、勉強系の習い事をしているわけではなく、家で親が教えるわけではないので、ひらがなも読めないし、最近ようやく10ぐらいまで数字が読めるようになった程度であるが、普通にしていれば勉強で特別困ることはなさそうである。
ここでも何度か書いた気がするが、長男は1年生からZ会の通信教育を始め、3年生になってからは中学受験コースに移行した。中学受験をさせる気はないのだが、通常コースではあまりにも簡単すぎるというのが変更の理由。とは言うものの、月末の確認テストでは初回の4月は国算理社の4教科でどれも全体の平均点が80点程度にも関わらず、我が子はそれを大きく下回ってすべて50点ぐらいを取っていたので驚いた。5月も同じような状況であったが、「平均点以下は話にならないから、工夫してやりなさい」と注意したら、最近は理科と社会は90点を超えるようになった。算数と国語はまだ一度も平均点に届いていないが、そのうちにきっとどうにかなる。初めて結果を見たときは一瞬「おいおい」となったが、親がチェックして間違えているところを直させてから提出していたり(時間制限があるわけではなく、テキストについている問題を普通に解くだけなので)、塾に通っていたりする子もそれなりにいるだろうから、まあそんなものなのだろう。大事なのは平均点を超えることではなく、どうすればできるようになるか、自分なりのやり方を自力で見つけることである。そういうものは一度身に付ければ、一生使えるので、1年、2年とかけてじっくりとやって欲しい。
年中の三男に関してこの時点で予測がついているように(見込み通りになるかどうかはもちろん定かではない)、逆に二男に対しても同じぐらいの時点で「大丈夫かなぁ?」というのがあった。物事の捉え方が浅いのだ。この文章に関して5日ぐらい前にはテーマを決め、タイトルをどうしようかと考えていた。その中で「一筋縄」という言葉が思い浮かんだ。辞書で引くと、「普通の方法」、「尋常な手段」とあった。要は、二男は「一筋縄では行かない」わけなのだが、考えてみたらそういう子供をどう育てるかが親の腕の見せどころである。「腕の見せどころ」と言っても、何かしらの結果を出して「ほら」と誰かに誇示するわけでもなく、20歳になる頃ぐらいに「それなりに、この子らしく育ててあげられたかな」と親として思えればそれで十分である。
志高塾の生徒でも、ある種勝手に成長していく子供が10人に1人や2人はいる。もちろん、作文の添削をし、いろいろと教えるから我々が何もしていないわけではないのだが、その子達に対しては気苦労みたいなものがないのだ。そういう子供たちというのは、いわゆるどこに行ってもうまく行く。一方で、この子は他のところでは適当にあしらわれるだろうが、志高塾ならどうにかできるかもしれないとなることは少なくない。あしらわれるというのは、理解するのに時間がかかるため、考える時間を取り上げ、「とりあえずこうしていればいい」と訳も分からないままやり方を覚えさるような教え方を指している。実際、2, 3日前にも、6年生のある生徒が「(他の塾で)こうやれって言われたけど、よく分からんねん」と漏らしていた。元々考えるのが得意でない上に、そのような考えない癖をつけられた子供は大変である。勉強は嫌いでもいいのだが、考えることは好きであって欲しい。勉強ができて(正解がある問題は解けて)優秀でない人もいれば、勉強ができなくて優秀な人もいる。そう言えば、昨日も考えようとしていない子供に「勉強ができるかどうかちゃうねん」という言葉を掛けた。もし、私がスポーツのコーチをしていたら「スポーツができるかどうかちゃうねん」と間違いなくなる。
二男のことに話を戻す。予測が付かない、ということは私の常識の範囲内で考えるからダメなのではないだろうか、と自分なりに結論づけた。そこで、自分が子供の頃はやろうとは思わなかったし、子供にもさせようと考えたこともなかった習い事として、ボーイスカウトや武道(剣道、柔道など)をさせてみようかとなった。「あれをさせればこうなるかな」などと思い描いているうちに今回のタイトルに行き着いた。知らず知らずのうちに計算をしていたのだ。国語の選択問題でも、「唯一」、「絶対」などという意味の言葉が含まれている選択肢は消去できること(答えにならないこと)がほとんどである。それは、世の中には九分九厘はそれなりに存在していても100%というのはまれだからである。でも、これに限ってはある。「そりゃそうだろ」と言われてしまいそうであるが、計算をしなければいいのだ。計算をしないのだから間違える可能性はゼロである。そして、まだ1年生なのだから、親が余計なことなど考えずにたくさん遊べばいい、となった。一件落着。
2017.08.15Vol.314 自分が欲しいモノ
来週の火曜日は、個人的に休みをいただいていますのでブログはお休みさせていただきます。代わりに、9月のシルバーウィークの塾が1週間休みの期間にアップします。
相場英雄の『震える牛』からの引用。
「息子と親類の家に遊びに行きました。その時、近所のスーパーに出かけ、棚で自社製品を見つけました。息子に買ってくれとせがまれましたが、買うことができませんでした。」
小松は目を充血させ、写真に見入っていた。
「自社製品を食べられない社員は失格だ。なんとか混ぜ物を止めさせることが父親の役目だと遅まきながら気づかされたわけです」
(中略)
<安物に慣れ切った消費者に繊細な舌などない>
<オックスマートの売り場を見ろ!半額セールをやると飛びつき、列を作るようなバカがたくさんいる。こんな連中が味なんか分かるわけがない!>
鶴田は震える指で停止ボタンを押した。
「安ければなんでも良いという消費者にも問題はあります。しかし、あまりにも顧客は実態を知らなさ過ぎる。ミートボックスは歪んだ現状を逆手に取ったデフレの申し子です。そんな企業とオックスマートを許しておけますか?」
小松はそう言い、唇を強く噛んだ。唇から血が流れ出しそうだった。
この本は社会派ミステリーという分類になるのだろうか。ここで、登場人物の説明などを。小松はミートボックスの元従業員。息子とのやり取りがきっかけで、消費者を騙して質の悪い肉を売りつけるべきではないと社長に進言した結果首に。<>の中はその社長の朝礼での発言。それを隠れて録音したものをジャーナリストの鶴田に聞いてもらっている場面。いわゆるマスコミへのリークである。オックスマートは明らかにイオンをモデルにしている(イオンがそのようなことをしているのかどうかは知らないが)。ミートボックスは老廃牛(乳牛としての役目を終えた牛)のクズ肉を原型がないようにし、かつそこに添加物などを大量に混ぜて臭いなどをごまかして製品にする機械を売っている。
読んでいてこの部分が目に留まったのは、新しく講師を採用した際に渡すプリントに「講師心得」という項目があり、「子供に好かれようとしない」などと並んで「自分にとって最も大事な人に紹介できる教室にする」というのを入れているから。小松は、我が子に自分が売っているものを食べさせることができなかった。
この文章をどのように結ぼうかと考えていたとき、偶然ネットニュースで株式会社ほぼ日を経営する糸井重里の「儲ける知性を休ませ、親切を」という記事を見つけた(この文章の最後にURLを貼り付けておきます)。その中で売上の7割が手帳であることに関して、「60万部以上売れるほど支持されているというのは、よっぽど良い手帳なんですね」というインタビュアーの質問に対して、
「自分たちが使いたいモノを作るというのが僕らの姿勢です。生意気な言い方をすれば、『良いに決まっている』というモノを出すようにしているので、それがよかったんだとおもいます」と答えている。
一度でき上がってしまえば、手帳は翌年まで、車なら次のモデルが出るまでの一定期間、基本的にモノは変化しない。しかし、教育はそうではない。その時々で常に変化をする。質が下がるという危険性をはらんでいるものの、自分たちの振る舞い次第では、昨日よりも今日、今日よりも明日、質の高い授業を提供することが可能になる。夏期講習中は生徒も講師も曜日、時間が通常と違い不規則になるので、私としては質を少しでも上げるため例年のように生徒に対する講師の数に余裕を持たせた時間割を組んだ。きっと、それに満足していた自分がいたのだろう。ある日の授業が終わった後、「子供が『今日教えてもらった先生が分かりづらかった』と申しておりました」という報告を受けた。こういうのは言われてから対処しているようでは遅い。何も、この親御様がこれによってお子様をやめさせるとかそういうことではない。期待してくれているから、わざわざ言いづらいことを私に伝えてくれたのだ。改めて、本当に自分が受けたかった授業を行えているのか、我が子にどうしても受けさせたい授業になっているのかを厳しくチェックする必要がある。
https://news.yahoo.co.jp/feature/713
2017.08.08Vol.313 予定通りプログラミング
4年生の男の子に「算数は得意なの?」と尋ねたら、「別に得意じゃないけど好き」と返ってきた。こういうことについて時々このブログでも書いている気がするが、非常にいい考え方で私は大好きだ。「好きこそものの上手なれ」と言うが、上手ではないからという理由で好きでなくなり、上手になる可能性を失うということは少なくないのではないだろうか。大人でもこういう風に考えられることはとても重要なのだが、子供にとってはそれと比べ物にならないぐらい価値ある思考法である。
さて、自分の中では既にあまりホットではなくなっているのだが、今回はプログラミングについて考察していく。テレビで「プログラミンが学校の授業に組み込まれるそうですが、どう思われますか?」とインタビューを受けた母親が「何か役立ちそうでいいですね」と答えているのを見て驚いた。嘘をついてしまった。実際は驚いてなんかいない。きっと世間ではこのように考える親が少なくないのは重々承知だからである。子供向けのプログラミング教室で働いていながら「こんなことやっても意味はない」と思いながら教えている人がいるというのを聞いた。彼ら自身がプログラミングをよく分かっておらず、マニュアル通りに指導しているだけなのだ。そもそも、近い将来、今の小学生が大人になる頃にはAI(人工知能)によって仕事が奪われると言われているのに、初歩的なプログラミングを学ぶだけで何になるというのだろうか。断っておくが、将来役立ちそうなことをやっているところもあるので、プログラミング教室自体を否定しているわけではない。ちなみに、この件で数ヶ月前に知人から立ち話程度のものではあるが相談を受けた。私が子供向けの教育に携わっているからである。当然のことながら、(子供向けのプログラミング教室を)やるのであれば本格的なものにしなければ差別化できない、というような話をした。分かりやすいように「差別化」という言葉を用いたのだが、それ自体が目的ではない。意味のある教育を追求すれば自ずと「差別化」される。これは何も教育業界に限った話ではない。つまり、「差別化」は目的ではなく結果である。それこそ、「差別化」を目的として、「プログラミング」を「英語」で行なう教室が最近増えてきているらしい。「プログラミングを英語で学べるなんて一石二鳥!」といったところであろうか。実に単純な発想である。開校当初は「本物」という言葉を好んで使用していたが、かなり早いタイミングで「本質的」というものに置き換えた。ことの経緯は忘れてしまったが、「本質的」なことを追い求めていたら「本物」に近づいていくはずなのだが、「本物かどうかは決めるのは自分ではない」というのが理由であったような気がする。最近、「本物」というフレーズを用いた広告を目にして、「あっ、俺も昔はこうやったなぁ」と過去を振り返っていた。
私は、ただひたすらに本質的なことを追求し、その我々が実際に行っていることをキャッチーな言葉を使うことなく正確に伝えることで、本当に我々のようなところを求めている人により着実に届くことを願っている。今日道路サイドに豊中校向けの2m×3mぐらいの看板が立てられる。コピーは自分で考えることが多いのだが、今回はあえて業者の方に任せた。最初は、納得の行くものを中々提案していただけなかったのだが、最終的には「書く力 伝える力 作文力」というものになった。デザインも含め、結構気に入っている。通勤路の途中にあるので、帰りに見るのが楽しみである。
2017.08.01Vol.312 作文の行き着く先
先に、本題とは関係のない事柄から。しばし、私の自己満足にお付き合いください。先日お問い合わせいただいた方に、きっかけを尋ねたところ紹介とのこと。ただ、紹介者自身は志高塾にお子様を通わせたことがあるわけではなく、教育事情に詳しい方とのこと。3ヶ月ほど前にも似たようなことがあった。詳しく聞いたわけではないが、おそらく紹介者は別々の方である。もしかすると、他の塾ではもっとこのようなことがたくさんあって、我々のところはこの1年でそのようなことがたった2件しかないということなのかもしれない。いずれにしても、そのように認めてくださる方がいるのは大変喜ばしい。
この2, 3ヶ月で体験授業に来てくださった親御様から2回ほど、また、プライベートで志高塾の説明をした際に、「作文をすることの最終的な目標は何ですか?」というような質問をされた。もちろん、これまでにも似たようなことを聞かれたことがないわけではないが、頻度が少し多いように感じた。そこで、今回はそれについて考察してみる。
志高塾では、作文を「要約」と「意見」の2つに大別している。「要約作文」というのは、題材があって、その内容を自分の言葉で言い換えてまとめる。そこに感想などが入り込む余地はない。たとえば、『コボちゃん』ではあれば、絵を見ていない親御様が、お子様の持ち帰った作文を読んで内容が思い浮かべば、それなりのものになっていると言える。志高塾のルールとして、漫画の中のセリフをそのまま使用することを禁止しているので、「要はどういうことか」を考えざるを得ない。たとえば、体験授業で親御様にお見せする話に「少しはママのくろうも考えんにゃいかんぞ」というおじいさんのセリフがある。これは「お母さんの身にもなりなさい」と言い換えられる。要約と称して、本文の大事そうなところに線を引いて、それをつなぎ合わせて文章を完成させるようなことを子供たちにさせるところがある。それは、「要約」ではなく「線引きと書写」である。実体は異なるのに「要約」などとそれっぽい名前をつけることで、それっぽいことをしているという錯覚が生まれてしまう。最近、よく取り上げられる「プログラミング」なんかも危ない。間違いなく「プログラミング」なので名称自体は適切だが、10年後には多くの仕事がロボットに取って代わられるのに、何ゆえに、今さら基本的なものをありがたそうに学ぶのだろうか。まだこの話題が自分の中でホットであれば、来週これを取り上げてみる。
「意見作文」に話を移す。これは結構誤解されやすい。要約作文の訓練を積むのは、自分の頭の中にある意見を、読み手に伝わるように論理的に表現するためと思われがちなのだ。あながち間違えではない。韻を踏んでみた。どうでもいいか。「思われがち」と表現していることからも実際はそうではない。たとえば、今、私が作成しているこの文章の8割程度は元々頭の中にあった事柄である。書き出す段階では完成品が存在していて、後はそれを言葉にするだけと思っているのだが、少なく見積もっても2割ぐらいは使えない。割合的には大したことないかもしれないが、この2割が体でいうところの関節のような役割をする。あくまでも強い骨と筋肉が主ではあるが、関節なしにはそれらは機能しない。言葉にしていく過程でほころびが出る。そして、その部分を調整していくことで意見作文は練られたものになっていく。説明が長くなったが、作文を学ぶ目的というのは「意見作文を通して、自分の意見を作り上げていくため」となる。では、最初から意見作文に取り組めばいいではないか、となるかもしれない。もちろん、そうではない。要約作文を学ぶ過程で、論理的思考、客観的思考などが身についていき、それが意見を作り上げていく中で多大なる効果を発揮するのだ。