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2017.08.01Vol.312 作文の行き着く先

 先に、本題とは関係のない事柄から。しばし、私の自己満足にお付き合いください。先日お問い合わせいただいた方に、きっかけを尋ねたところ紹介とのこと。ただ、紹介者自身は志高塾にお子様を通わせたことがあるわけではなく、教育事情に詳しい方とのこと。3ヶ月ほど前にも似たようなことがあった。詳しく聞いたわけではないが、おそらく紹介者は別々の方である。もしかすると、他の塾ではもっとこのようなことがたくさんあって、我々のところはこの1年でそのようなことがたった2件しかないということなのかもしれない。いずれにしても、そのように認めてくださる方がいるのは大変喜ばしい。
 この2, 3ヶ月で体験授業に来てくださった親御様から2回ほど、また、プライベートで志高塾の説明をした際に、「作文をすることの最終的な目標は何ですか?」というような質問をされた。もちろん、これまでにも似たようなことを聞かれたことがないわけではないが、頻度が少し多いように感じた。そこで、今回はそれについて考察してみる。
 志高塾では、作文を「要約」と「意見」の2つに大別している。「要約作文」というのは、題材があって、その内容を自分の言葉で言い換えてまとめる。そこに感想などが入り込む余地はない。たとえば、『コボちゃん』ではあれば、絵を見ていない親御様が、お子様の持ち帰った作文を読んで内容が思い浮かべば、それなりのものになっていると言える。志高塾のルールとして、漫画の中のセリフをそのまま使用することを禁止しているので、「要はどういうことか」を考えざるを得ない。たとえば、体験授業で親御様にお見せする話に「少しはママのくろうも考えんにゃいかんぞ」というおじいさんのセリフがある。これは「お母さんの身にもなりなさい」と言い換えられる。要約と称して、本文の大事そうなところに線を引いて、それをつなぎ合わせて文章を完成させるようなことを子供たちにさせるところがある。それは、「要約」ではなく「線引きと書写」である。実体は異なるのに「要約」などとそれっぽい名前をつけることで、それっぽいことをしているという錯覚が生まれてしまう。最近、よく取り上げられる「プログラミング」なんかも危ない。間違いなく「プログラミング」なので名称自体は適切だが、10年後には多くの仕事がロボットに取って代わられるのに、何ゆえに、今さら基本的なものをありがたそうに学ぶのだろうか。まだこの話題が自分の中でホットであれば、来週これを取り上げてみる。
 「意見作文」に話を移す。これは結構誤解されやすい。要約作文の訓練を積むのは、自分の頭の中にある意見を、読み手に伝わるように論理的に表現するためと思われがちなのだ。あながち間違えではない。韻を踏んでみた。どうでもいいか。「思われがち」と表現していることからも実際はそうではない。たとえば、今、私が作成しているこの文章の8割程度は元々頭の中にあった事柄である。書き出す段階では完成品が存在していて、後はそれを言葉にするだけと思っているのだが、少なく見積もっても2割ぐらいは使えない。割合的には大したことないかもしれないが、この2割が体でいうところの関節のような役割をする。あくまでも強い骨と筋肉が主ではあるが、関節なしにはそれらは機能しない。言葉にしていく過程でほころびが出る。そして、その部分を調整していくことで意見作文は練られたものになっていく。説明が長くなったが、作文を学ぶ目的というのは「意見作文を通して、自分の意見を作り上げていくため」となる。では、最初から意見作文に取り組めばいいではないか、となるかもしれない。もちろん、そうではない。要約作文を学ぶ過程で、論理的思考、客観的思考などが身についていき、それが意見を作り上げていく中で多大なる効果を発揮するのだ。

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