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2020.02.04Vol.433 働き方改革 in 志高塾

 宿に逗留しながら、原稿に手を付け始めた。日本三景の天橋立はすぐそばである。
 3か月ほど前に、タイトルを決め、格好をつけて冒頭の2文だけ書いてそのままになっていたテーマが、日の目を見るときが来た。何のことはない、宿泊していたのは早朝の釣りに備えてのことであり1泊だけなので「逗留」というのは適切ではないのだが。
 この仕事をしていて「(受験生の頃)あまり勉強をする方じゃなくて良かった」と思うことがある。浪人生の頃、河合と駿台の京大模試をそれぞれ2回ずつ受けて、確かA判定が1回、B判定が3回であった。もしかすると、Bが4回だったかもしれない。いずれにせよC以下は取らなかった。普通であれば、Aを目指して努力するのであろうが、「間違いなく合格できる」という自信があったのでそのままのペースを維持していた。人生を通して、1日8時間、いやおそらく7時間以上自習したのはどれだけ多く見積もっても10日もない。6時間としても大差はないだろう。こういうことを話すと「集中力があったのですね」と言われることがあるのだが、単に長時間勉強できなかっただけの話である。ただ、目標とするところに到達するためにはやるべきことはあったので、学んだことの吸収率をあげるための工夫は最低限していた。自分でやるべきことを設定してそれをこなしていく、というのは中1の時点で悪くない程度にできていたはずである。
 なぜ「良かった」と思うのか。進学塾では、5年生になれば他の習い事もせず、旅行などにも行かず、受験勉強に集中しろ、6年生になれば読書の時間も無駄だ、などと言われたりする。「習い事を続けたいのですが、甘いのでしょうか」、「旅行に行きたいのですが、この時期にそんなことをしていたら合格できないのでしょうか」というような相談を受けることがしばしばある。もし、私がすべてを犠牲にして勉強をしていたタイプであれば「すぐにやめてください」、「旅行は合格してから行けばいいじゃないですか」となっていたかもしれない。そのままでは合格できないレベルにある場合、単に勉強時間を増やして解決することはほとんどない。大抵は、勉強における最も大事な「考える」ということの質が低いからだ。その状態で時間を増やすというのは、フルマラソンに向けて変てこなフォームで長距離を走る練習を積み重ねるようなもので、必ずけがにつながる。我々の役割は良いフォームにしてあげることであり、それによって走ることが楽しくなればいくらでも風を感じながら走ればいい。本人が走りたいとなっているのを止めはしない。オーバートレーニングになっていないかは見守ってあげる必要はあるが。大学受験までのことで唯一後悔していることと言えば、読書をしなかったことである。受験のために本を読むわけではないのだが、もしそれをしていたら、2次試験の英語で苦しまずに済んだはずなので、もっと少ない勉強時間でA判定が取れたような気がする。繰り返すが、そんなことのために読書をするのではない。読書をしなかったことの弊害は、その後いろいろなところで出てくるのだから。
 「働き方が改革」が叫ばれている。結論から述べると、志高塾のそれは世間のものに逆行している。私とやり取りをすることが少なくない親御様は、私が「人に任せずに、全部自分でやろうとする人間」ではないことはよくご存知である。ちなみに、志高塾の社員は、授業の1時間前に来て、終われば帰っていいことになっている。もし、平日の授業開始が16:40で終了が19:50であった場合、15:40に来ればよく、20:30に帰ることは可能なので、その場合の拘束時間は5時間程度である。仮に終了が21:30だとして22:00に出れば7時間弱である。もちろん、仕事を適当にしてもいい、ということでそのようにしたのではない。8時間労働であれば1時間の休憩を含めて9時間拘束することになる。9時間いました、では意味がないのだ。6時間しかいなくても9, 10時間分の仕事をしてくれればいい。
 放任主義から考えをかえるきっかけになった契機は生徒が増えたことである。2年ぐらい前までは、塾で起こることのすべてが、ほぼ私の手の届くところにあったが、それが難しくなった。その時点で、社員を積極的に育てる必要性が出て来た。手を打つタイミングが遅れたのだが、それは、生徒の増加の勢いが私の予測を大きく上回っていたからだ。もちろん、それは嬉しい悲鳴である。ただ、それはその時点での我々自身にとってであり、期待に見合った価値を提供できなければ、遅かれ早かれ子供や親御様の痛切な悲鳴に変わってしまう恐れのあるものであった。必要に迫られての方進転換であったのだが、そのとき、私は社員に対して役割を果たしていないのではないだろうか、という疑問が湧いてきた。そして、やりがいを与えること、仕事を通して成長させることができていない、という結論に至った。正確にはやりがいのある仕事自体は与えられていた。しかし、そこで成果を発揮できる状態にしていなければやりがいは感じられないのだ。例えるとこうである。すごい球を投げるピッチャーと対戦できる機会を与えて私は満足していたのだ。それを打てるようにしてあげて初めて本当の意味での喜びを感じることができるのだ。勉強と同じく、私はサラリーマン時代長時間労働をしなかった。自分が嫌ことは人にはさせない、という考えのもと、長時間の労働を押し付けなかったのは良かったとは思う。ただ、私は新入社員の頃から誰に言われるでもなく、いろいろと提案をしていた。私の中では長時間働かないのと同様にそれは当たり前のことであった。何かを生み出すのが仕事だと考えていたからだ。その創意工夫が自身を成長させ、今で言えば、生徒たちを成長させることにつながっていくのだ。
 これからも、時間で仕事の成果を計ることはない。良い授業をすることがすべての評価の基準である、そのためにはそれ以外の時間を充実させる必要がある。今後半年、これまでになく、改変も含め、新たな教材を生み出していけるはずである。その過程で培われた力は間違いなく生徒に還元される。

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