
2020.02.11Vol.434 良い人めーっけ
その名は百里奚(ひゃくりけい)。この続きは後程。ちなみに、この数か月は文章を書いてもしっくり来ることがほとんどなかったのだが、今回は納得の行くものにできそうな予感。乞うご期待。
「そろそろ(西北の駅に)着くよ」
「なんで分かるの?」
「そりゃ、13年も通ってたら(アナウンスが流れなくても、周りの景色とかで)分かるよ」
長男と一緒に西北まで電車で来た時のやり取りである。「それなりの年数やって来た」ということを、本当の意味で初めて実感した瞬間だったような気がする。体験授業の際に、「今年で〇年目です」という話をすることは少なくない。しかし、それは、少しは経験を積んできました、ということをアピールするために伝えているに過ぎない。教室までの道すがら銀行に寄ったのだが、ATMでお金を下ろしながら、「なんでもっと早い段階で、教室を増やそうとしなかったのだろう」という疑問が湧いてきた。
遡ること数日、私はあるお母様との電話で「20代の頃は、本当に何も持っていませんでした」という発言をしていた。「何も持っていませんでした」というのを「先がまったく見えませんでした」という意味で私は使った。先を照らしてくれるものを持ち得ていなかったのだ。20代の頃、特に20代の後半は、自分はどこで間違ってしまったのだろうか、という後ろ向きの考えに支配されていた。そういう自分が嫌で、そこから抜け出すために考えたのが「90歳まで生きる」というものであった。このことは一度書いた気がする。あほみたいなアイデアだが、自分の中では真剣そのものであった。90歳を30年ずつ3つのブロックに分けたとき、「まだ1つ目のブロックの途中で、後2つが丸々残っているじゃないか。俺の人生はこれからだ」と前向きになれた。どのタイミングで知ったのかは覚えていないが、ケンタッキーのカーネル・サンダースも、マクドナルドのレイ・クロックも、フランチャイズ経営を始めたのは60代なのだ。
20代の頃の私の焦りは、中学受験に向けて大手塾に入塾させたばかりの親の心境に似ている。うまく滑り出さなければ、未来がないかのように考えてしまうのだ。最初は良くても後から駄目になる子供もいれば、その逆もある。そして、いずれのパターンの子供も決して少なくない。私は、その先にある社会人人生に希望が持てなかったのだが、今なら分かる。希望が無かったのは、会社人人生だったのだ。私にとっては会社で評価されることよりも、自分が関係した人に意味のあることをする方が重要であった。1年ほど前、ディーラーの担当者からあまりに必死にお願いされて自動車保険に加入したことがあった。もちろん、ノルマがあるのも分かっていて「ネットの方が安いけど、お世話になっているから」という気持ちだったのだが、あまりの喜びように冷めてしまった。その様子を眺めながら「俺が同じ立場やったら、他社のコストパフォーマンスの良い保険をこっそり教えたやろなぁ」となっていた。何も、会社で昇進して行く人が客のことを考えていない、と言いたいのではない。ただ、私はそういうことに対しては潔癖なのだ。
1年ぐらい前から豊中校の体験授業を完全に任せるようになった。入塾率が悪くても文句を言うことはないが、入塾後1年以内にやめる生徒が出た場合には、「何でなの?」と理由を聞くことはある。引き留めるように促すことはなく、むしろその逆で、あっさりと受け入れるように、と日頃から伝えている。話を切り出された時点で志高塾は信用を失ってしまっているからだ。1年以内にやめるということは、親御様の期待にまったく応えられていない。考えられる理由は2つ。1つ目は、親御様の求めるものと志高塾がやっていることが元々ずれていた場合。さらに入塾率を下げてでも、ずれが明らかになるように体験授業で説明して「志高塾には行かない方が良い」とその時点で思っていただく必要があったのだ。2つ目は、期待しているものがあるのに、教育の質が低かったことが原因となる場合である。ベクトルの向きは合っていたのに、長さが十分でなかったのだ。生徒が増えれば嬉しいが、「よっしゃあ!」とはならない。短くないある一定期間通ってくれた生徒がある区切りでやめるときに、それなりに期待に応えられたかな、と安堵する、というのが正直なところである。
ATMで湧き出た「なぜもっと早く増やさなかったのだろう」という疑問の答えは、その日の夜か翌日ぐらいに自然と浮かんで来た。30代の10年間は、自分の中にぽっかり空いた穴を埋めるのに必要な期間だったのだ。それは1つ目の30年間でできたものであり、言葉の力が足りなかったせいでできたものだったのだ。子供の頃に自分がやっておけば良かったはずのことを、志高塾で今、実践している。教えながら私は自分自身の穴を埋めていて、ある程度埋めるにはそれだけの期間が必要だったのだ。仕事が忙しくなかったおかげで、自分と向き合う時間も多かったし、幼稚園で4年、小学校で1年PTAの会長を務めることができた。それだけ子供のことに関わっていたのだ。幼稚園を訪れた際には、教室や園庭で我が子の姿を探しては、目を細めていた。現状、そのような役を引き受ける余裕はなくなってしまった。
さて、百里奚。中国の歴史上の人物である。昨年末に、ポッドキャストで歴史系のラジオを聞いていて、その存在を知った。ある程度の地位にいたものの捕虜となってしまい、秦のある役人の召使にさせられてしまう。60歳を超えてからの話である。秦はまだ一小国に過ぎず身分に関係なく優秀な人材を求めていたところ、その役人が「うちの召使は優秀だ」ということで推挙する。それがきっかけとなり、70歳を過ぎて重要なポストに就き、90代で宰相となる。日本における総理大臣のようなものである。秦の始皇帝が中国を統一できたのも百里奚がその基盤を作ったから、と言われている。詳しいことを知っているわけではないので、情報に誤りがあっても悪しからず。歴史小説家で有名な宮城谷昌光が『侠骨記』という短編小説の中の1つで百里奚を扱っていることを知り、注文したので届き次第読む。
本を読んだりして、目標、理想とする人物が見つけられればそれはそれでいいが、もっと大事なのは、いろいろな生き方(生き方だけに限らず、やり方などにも当てはまる)があるということを知ることなのだと思う。私の20代の頃の焦りは「こうじゃなきゃだめだ」という固定観念が生んだものである。穴はそれなり埋まったので40代から、と考えていたけど、もっともっと自分と向き合って、最後の30年で勝負をしようかな。20年後に私は輝きます。だいぶお待ちください。