
2019.05.14Vol.397 「うまい」の善悪
前回、文書を書きながら「ちょっと待てよ」となった。『vol.395「かっこうまいとは言わへんもんな」』において「うまいは悪だ」ということを述べながら、「うまい」という言葉を使いそうになったからだ。結局、どのように処理したかは忘れてしまったが(読み返せば分かるのだが)、「辻褄合ってへんやん」と心の中で突っ込まれるのを避けるために別の言葉に置き換えた気がする。
8, 9年前のことだろうか。志高塾に通う生徒が初めて灘中に合格した。こういうことに言及する度に補足するのだが、少しでも高い偏差値の学校に合格させることが我々の目標ではない。格好良く言えば、志高塾のミッションではない。その子供にとってどこの学校を目指すのがいいのかを考え(小学生であれば主に親御様の意向を伺い、高校生であれば本人の意見を聞いた上で)、受験の後も役に立つ本質的な力を付けてあげながら、合格の手助けをするのが我々の果たす役割の1つである。あくまでも1つである。特に高校生の場合、受験とまったく絡めずただ純粋に意見作文をするために通う生徒もいる。小学生においても、過去問を教室で解かせるものの、別にそれすら必要のない場合もある。あえて避けるものでもないので、勉強の一環としてそれに取り組ませ、丸付けの際にこれまで身に付けたものがどのように生きているのかを一緒に確認したり、我々がその子に足りないものを掴む1つの手段として利用するに過ぎないこともある、ということだ。
GWの休みに入る少し前に、高3の女の子がいつもより遠慮がちに「先生」と私に呼びかけ、話をし始めた。小1の頃からの付き合いであり、日頃は私に好き勝手言っているにもかかわらず、どうにかこうにか話の端緒を見つけた、といった風の滑り出しであった。私としては、少し前から「そろそろかな」と思っていたので、「やっと来たか」という感じであった。近頃うまく行っていなかった恋人にやおら別れを切り出されたときの心境と似ているような気がする。「やっぱ、私立文系にしよっかな」ということを私に伝えたかったのだ。本人は口が裂けてもそんなことは言わなかったが、「国立文系を目指すのが大変だから」以外の理由はない。2次試験対策の数学を勉強する必要があること、教科数が増えることから逃げたかったのだ。高校からの友人で、現在カービングを本職にしている女の子がいる。ちなみに、西宮北口校の玄関に飾っている石鹸の作品は彼女にお願いして制作してもらったものである。現役で京大の農学部に進み、卒業後は大学で学んだことを生かして食品関係のいくつかの会社で働き、5, 6年前に独立した。今では東急ハンズや東京の美術館に販売のために作品を置いてもらえるようになったらしい。本人に聞いたことはないのだが、もっと早くから始めれば良かったとは考えていないはずである。いわゆる畑違いのことを仕事にしているのだが、それまでのことが無駄になっているわけではない。昔から興味を持ったことがあればそれを突き詰めようとし、ある程度のところまで到達した時点で別の事柄に移る、というのが彼女のスタイルであり、たまたまカービングというのがもっと掘り下げたい対象として選ばれただけの話である。何かを身に付けるうえでどのようなステップを踏むべきか、というのはそれまでの経験が生きているはずであり、また、それまでに様々なことに挑戦してきたからこそ、カービングが他のものに比べて奥が深く、極めるものだと認識したのではないだろうか。彼女の経験の中でも、受験というのはそれなりに大きなポジションを占めているに違いない。高3の女の子にその友人の話をしたわけではないが、そのときに話したのは「勉強をやり切る自信がないんやろ?俺にとっては、あなたがどこの学校に行こうが構わないのだが(大学受験の実績を上げたいわけではない、という意味である)、人生の中で、何か明確な目的を持って、それに向けて頑張る、という機会は中々ないで。仮に、私立文系にしたとして、大幅に減る勉強時間(正確には、クラブを引退して、これから大幅に増やさないといけなかった)の代わりに何をするの?そんなんないやろ」というところで話が終わった。このようにまとめたが、実際には1時間ぐらいは話していた。先週、中3からセンター試験直前まで約4年間通い、阪大歯学部に現役で合格した女の子が算数、数学の講師として加わった。ちょうどその高3の女の子がいたコマに入っていたときに、「現役で阪大歯学部に合格してんで」と伝えたら、思わず「すごっ」と漏らしていた。そのときの表情を私はまじまじと見ていたのだが、心底そのように思っているのが伝わってくるものであった。その大学1回生の講師は生徒の頃から、いつもにこにこしていて言葉も柔らかい。まだ2回しか入ってもらっていないのだが、ちゃんと取り組んでいない生徒にふとした瞬間鋭い言葉を浴びせる場面が何度かあった。「鋭い」のであって「きつい」わけではない。そういうのは、「自分はやることをやった」という自信に裏打ちされている。ただ、その自信にも賞味期限があるので、新たなことに挑戦し続けなければ、いつの日かその子の言葉は生徒に響かなくなる。
そうそう「灘中」の話。「東大」もそうであるが、「志高塾のやり方では、ここぐらいのところまでしか狙えません」と思われたくないために分かりやすい学校名を出しているだけで、それ以外の含意はない。これも過去に何度も書いてきたことである。もう少し断っておくと、誰に対しても国立を勧めるわけではない。以前、ブログか内部配布の『志高く』のいずれかで書いたが、高卒で就職をした男の子がいた。その時は、就職試験でパスするように、履歴書の書き方、面接試験での話す内容など、できる限りのサポートをした。もちろん、それがその子にとっていい選択だと私自身納得できたからである。
いつもの倍ぐらい脱線してしまった。さて、初めて灘中に合格した生徒のお母様が受験後「当たりました」と感想を漏らされたことがあった。実は、この文章を書き始めるまでは「うまく行きました」だったような気がしていたのだが、それは思い違いで実際は「当たりました」だったのだろう。それからさかのぼること1年、「お話があるので、教室に伺ってもよろしいでしょうか」と事前に連絡をいただいた。先の恋人の別れ話ではないか「またあれかぁ」という予感があった。当時、新6年生になったようなタイミングでやめる生徒が多かったのだ。要は、志高塾で作文を通して基礎力を身に付けさせ、残りの1年は中学受験に関する経験が豊富な進学塾で応用力を磨かせる、と考えられていたのだ。そのお母様の話は予想に反して「先生のところ、週2コマにして、1コマは作文、1コマは読解問題という風にしていただけないでしょうか?」というものであった。灘を目指しているのは分かっていたので、当事者であったにも関わらず、「すごい決断をするなぁ」と第3者のような感想を持った。確かに「当たりました」だっただろうが、思い違いをしていたように、それは「うまく行きました」と同義であった。
「うまい」に関して、この1週間ぐらい折に触れて考えていたのだが、自分の中で分かったことがある。良い結果を楽に得るために「うまい」やり方を求める姿勢が好きではないのだ。いつでも誰にでも当てはまるような「うまい」など存在しない。「英語がうまくなりたい」、「野球がうまくなりたい」というのはもちろん何も問題でない。その「うまい」は固定化された具体的なものではなく、ベクトルで言うところの「向き」なのだ。それ以外に、うまくいく、ということもある。それは方法でもなく向きでもなく結果である。それは当然好ましい。
私がよく考えるのは「生徒たちにとって本当に良いものを提供できているだろうか」ということである。うまくいっていることもあればそうでないこともある。前者はエネルギーを、後者は課題を与えてくれる。そして、より良質の良いものを追い求める。それの繰り返しである。真摯に向き合い続ける限り、私の自信は賞味期限切れにはならないはずである。それは生徒の心の奥底に言葉を届けられることを意味している。