
2019.05.07Vol.396 近くのグラスより遠くの鹿威し
1週間の休みを利用して京都に3泊してきた。大学受験のための宿泊を除き、京都市内に泊まったのは人生で初めてではないだろうか。目的は寺社巡り。4日間で15か所を訪れた。たくさん行けば良いというものではないが、たとえば、金閣寺、龍安寺、仁和寺のようにバスで10分程度のところに有名な寺が位置していることも少なくないため、それぞれで1時間以上過ごしたとしてもそれなりに回ることができる。GWであったためもちろん混んではいたものの、平日のTDLやUSJよりも随分とましなはずである。御朱印のために並ぶのは15分ぐらいで、書いてもらうのに1時間待たないといけないとしても、最初に預けていろいろと見て回った後で帰り際に受け取ればいいだけなので苦ではない。その御朱印帳、平成最後の日に初めて購入した。その存在を知ったのもそれほど前ではないので狙ったわけではなく、偶然その日になっただけのことである。
「塾の宿題が終わったらゲームしていいからね」、「塾のクラスが上がったらスマホを買ってあげるね」などのように、物などで子供を釣るのは好きではない。これをやっている親は少なくないため、道端でもそのようなことを話している母親を時々見かける。それはまだいいが、小さい子供の方から親に向かって要求しているのを聞くと「大丈夫か?」となる。大抵の場合「AできたらBしてあげるからね」のAとBは無関係である。そのような意味では「英語のテストで90点以上取れたら、電子辞書を買ってあげるからね」と紙のものしか持っていない子供に伝えるのであればまだ分かる。
一概にそのようなやり方を否定する気はないが、私は子供を上手に釣り続ける自信がない。だから、その手は使わない。極端な例ではあるが、麻薬と似ている気がする。自分ははまらない、と軽い気持ちで手を出す。その後抑制が効かなくなり、大量に求めるようになる。教育に携わっているというのも少なからず関係しているが、まったく別の仕事をしていてもおそらくは変わらなかったであろう。だからと言って、そういうものを全く利用しないかと言えばそうではない。御朱印帳を買い与えるのは、その一種である。子供はスタンプが好きである。置いてあるのを見つければ、それがどんなものであれとりあえず押す。押す以上に子供が取りつかれるのは集めることである。ドングリが落ちていれば、袋がいっぱいになるまで拾い続ける。私は子供のその習性を利用したのだ。ただ、引っ張る場合も見えない糸に限る。「お父さんは君たちを寺に連れて行きたいから御朱印帳を買うね」と仕掛けを見せることは絶対にない。
そうまでして、なぜ私が寺に連れて行くかと言えば、いろいろと感じて欲しいからである。また、感じることとも関係しているが、会話の材料があちらこちらに落ちているからだ。勉強以外のことを通して、いろいろなことを伝えたいという気持ちが強く働いているのであろう。勉強を通して伝えられることもたくさんあるのだが、私がそれなりに知っているためどうしても教えるということになってしまう。しかし、寺であれば、私自身にも新しい発見がそれなりにあるため、心から「これって面白いな」と思いながら子供たちに話しかけたり一緒に考えたりできる。そのような言葉の方が子供たちに響くはずである。
本を自主的に読もうとしない3年生の二男。語彙が貧しいことは理解していたものの、1週間ほど一緒にいてあまりにも漢字を知らないことに驚いた。書けないにしても、もう少し読めてもいいはずなのだ。実際にあった例ではないが「土産」を「みやげ」と読めなくても「どさん」と読むならまだ分かる。習っているものですら怪しいところだが、そうでないものになると当てずっぽうですら答えることができないのだ。それは、日常生活でほとんど文字の情報が入って来ないことを意味している。知識というのは磁石みたいなもので、知っていることが多いほど磁力は強くなり新たなものを引き寄せる。それを自分のものとすることでまた引き付ける力は強くなる。なぜ今のような状態に陥っているかと言えば、興味の幅が狭いからである。それを広げるために、いろいろと感じながら会話をしてあげないといけないな、という思いを改めて強くした。
寺に行くと、庭の前で腰を下ろし、鳥のさえずり、葉擦れの音を聞きながら独特の時間が流れていることを感じる。どこの寺であったかは忘れてしまったが、広い庭のどこかで鹿威しの音が心地よく響いていた。それは一定の間隔で鳴るわけだが、子供を育てるというのはこういうことではないだろうか、と考えながら耳を澄ましていた。子供のためになることをしても、すぐにそれが結果として現れるわけではない。見かけ上は何も変化はないが、ある瞬間、カランと音を立てることで、水がちゃんと溜まっていたことを知る。確かに、目の前の透明なグラスに水がどれぐらい注がれたかを確認しながら進めて行くことも大事である。そして、それは一定の安心感を与えてくれる。しかし、見えないからこそ工夫しようという気持ちになれる。不安の中で試行錯誤していると、思いがけず音がなる。その喜びをエネルギーとして、また、見えないものを追い求める。
文章にしてみたもののそれほど簡単なことではないので、「頑張れよ、俺」と自分への励ましの意味も込めてみた。