
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.06.20Vol.61 いつでも続きから(三浦)
この間、久しぶりに一日で映画を最後まで観た。90分程度、さほど長くもない映画なのに、それでも何度か途中で「続きは明日でもいいかな」と頭を過った。とんでもない集中力不足である。
集中力不足でもあるし、そもそもの性格として、「キリのいいところまで」というのがなかなか無い性分なのかもしれないと、最近になって思う。上で久しぶりにと書いたように、いつもAmazonプライムやレンタルDVDで借りてきた映画は、人と一緒に観るのでさえなければ、数日に小分けにして観ている。それもシーンごとに区切るとかでもなく、つまらなくなったからでもなく、ふとなんとなく、「今日はここまででいいか」と思った瞬間で途切れている。だから翌日に再生すると、シーンの最中どころか登場人物が話している台詞の真っ只中であることも珍しくはない。それでも話を忘れていることはないので、特に困ることはない。母に尋ねても同じようなタイプだったので、あるいは遺伝なのかもしれない。
ゲームも読書もそうだ。特にゲームに関しては、たとえばニンテンドーSwitchなどは途中でスリープモードにできることもあり、一週間ぶりに起動すると何かのアクションの真っ最中……ということもしばしばある。我ながらなんでこんなところでやめたんだろうとそのたびに過去の自分に疑問を投げかけつつ、でも、また同じような微妙なタイミングで区切ることになる。
そして上記のいずれも、なんなら「最後まで」観たり読んだりプレイしたり、というものはそれほど多くなかったりもする。入りの10分を観ただけ、序章を読んだだけ、序盤までプレイしただけ……そんなやりかけのものが、たくさんある。
その一方。勉強を時間で切り上げようとする生徒には「キリがいいところまでやりなよ」と声をかけるし、本に関しては読みかけで返そうとする生徒に、「最後まで読んでみなよ」とも話す。矛盾しているな、と思った。自分の行動を棚に上げて何を言っているんだ、とふと冷静になった。
しかし、と言い訳を探してみた。必死で思い返してみると、例えば腕立て伏せやスクワットなどの筋トレは、「〇〇回までやる」と決めたらそこまでは頑張ろうと決めるし、実際にやり通していた。そこで、「なんとなくここまででいいか」とはならない。三日坊主ゆえに日数は持たなくても、回数はきちんと守っていたのだ。インドアなので、運動は苦手だ。筋トレなんかは特に苦手で、体重を支えるだけで腕が震え始める。でも、だからこそ、「終わり」があることがひとつの救いになるのかもしれない。
弊塾で扱う読解問題、『トップクラス』で取り上げられている話題に移る。そこでは心理的時間と実際的時間というものについて、「興味のあることや頭を使うことは集中度合いが上がり、それゆえ心理的時間が短くなる。一方で苦手なものは時間が過ぎるのが遅く感じられる」という説明をした後に、勉強の方法のひとつとして、「好きな科目は分量で区切り、嫌いな科目は時間で区切る」ことを勧めている。これまで述べてきた、私の性質上の区切り方とは正反対である。おそらく嫌いな科目は基本的に集中できないものなので、分量ではなく「集中できる」時間で区切った方が良い、ということなのだろう。
私の感覚と反対だ。嫌いなものは時間を決められたところで、早く終わらないかが気になって集中できなくなりそうだし、だからこそせっかく気が乗ってきたところで区切りになったらつまらない。苦手なものは、再び気を乗らせるまでに労力がかかってしまう。本の読みかけは耐えられても、数学の解きかけは耐えられなさそうだ。
そう考えてみると、本にしろ映画にしろゲームにしろ、それは私にとって好きなものだからこそ、キリの悪いところでも気にならないのかもしれない。いつ再開してもそれ以前と同じ熱量で没入できるという安心感があるからこそ、いつでも手放せてしまう。
であれば、生徒への「キリのいいところまでやりなよ」、「最後まで読んでみなよ」は、次へのハードルを少し下げるという意味で、あながちずれた声掛けでもない。特に本の苦手な子にとっては開くまでが億劫だろうし、会話の途中で区切てしまったら、それまでのやり取りを思い出すのが大変な子もいるだろう。やりかけの状態でほうり出してしまわないこと、それもひとつの方法なのかもしれない。
さて、余談というか、本題というか。前回、高槻校の講師に『志同く』を書いてもらった。一気に読みながら、数年前に短歌にハマり、一日に一首は詠もうと日記代わりにしていたことを思い出した。愛犬が亡くなったことや、学校時代の記憶、それを31字に収めるためにこねくり回す過程で、それらと向き合ったことも思い出した。三日坊主ならぬ七日坊主くらいで終わってしまったが、また初めてもいいかもしれない。いつでも戻ってこられるものとして。