
2019.12.10Vol.426 PISAでしょ
先週は、PISAにおける読解力試験の結果が芳しくなかったことがあちこちのメディアで取り上げられていた。メディアで取り上げられると言えば、私は今日の朝刊に写真入りで載った。2kgを超える大きなタコを釣ったため、個人的に取材を受けたのだ。生徒たちに「先生、釣りばっかりやん」と突っ込まれるたびに「当たり前やろ、釣りが本業で、塾が副業なんやから」と返していた。面目躍如である。それがデイリー新聞であったというのも阪神ファンの私にとって喜びである。
PISAに関してこれから述べていくのだが、正確な情報を持っていない。特段の興味がないので調べていないからだ。興味はないが、文章を書く上での材料にはなり得るのでテーマにした次第である。
前回の試験も良くなかったらしいのだが、文科省に言わせれば日頃手書きに慣れているので、入力作業において手間取ったり、本文に線を引けなかったことなどが原因のようだ。先にも述べた通り、正確な情報を持っていないがゆえに「らしい」、「ようだ」だらけになるので、以後省略する。もし、原因が実際に上のようなものであれば、それは読解力とは直接関係ないので放っておけばいい。記述問題が含まれない公開テストにおいて良い点数が取れないことで親御様から責められることがある。その怒りはよく分かる。そこで5点、10点と上げることはさほど難しいことではないが、そのような対策はしない。大事なことに割く時間が削られるからだ。自己保身を優先して「我々がきちんと手を打った結果、公開テストで以前より20点も上がったのに入試本番では国語でこけて不合格になってしまい申し訳ございません。良い調子で来ていたのに、なんでこんなことになってしまったか分かりません」とでも言うのであろうか。「きちんと」は公開テスト対策に対してのものに過ぎない。こけたのではなく、実力通りのペースで走り切ったのに、合格とされる順位内でゴールできなかっただけの話なのだ。
入力の問題に話を移す。私は、タブレットを使用しての学習には反対である。メリットは動画が見られることぐらいではないだろうか。ただ、それにしても動画である必要はなく、テキストを分かるまでじっくりと読み込んだり、紙に書き込んだりする方がよほど意味はある。受動と能動のことを言っているのだ。デジタル世代と言われている彼らが入力で問題を抱える、という冗談のようなことが起こるのは、スマホか、その画面を大きくしただけのタブレットしかいじらないからである。せめてキーボードでの入力ぐらいはできた方がいいので、「タブレットではなく、パソコンにしたらいいのに」と考えていたら、数日前に政府が「すべての小中学校の生徒に1人1台パソコンやタブレット端末が行き渡るように整備する」ということを発表した。パソコンとタブレットが並列されていることがそもそもおかしい。ちなみに、私は「タブレットよりパソコン」と2つを比較しているだけで、パソコンが小中学生の学習に必要だとは考えていない。この前、妻が帰宅後に留守番をしていた長男に「(家庭教師の先生から出されたZ会の)宿題終わったの?」と聞き「(いない間に)やってたよ」と答えたのだが、タブレットだといつやっていたか分かるようになっているので嘘がばれていた。私にすればいつやるかはどうでもいい。期限までにちゃんと終わるかどうか、もっと言えば、ただ終わらせればいいのではなく理解しているかどうかが大事なのだ。
次は線引き。確かに、それができていれば平均より+10点であったが、実力を発揮できなかったせいでいつもより20点減り、結果的に他の国と比べて‐10点になった、ということも考えられはする。ただ、別の見方をすれば、他の国の生徒はそれをせずに日本人より文章が読めている。そう考えると、線を引くことの意義を問い直さなければいけない。志高塾では線を引かせない。少なくとも高校受験までは基本的に傍線部の前後5行にヒントがあるからだ。その中でも重要な個所はあるが、範囲が狭いのでわざわざその作業をする必要はない。理解できていない生徒は正しく線を引けないし、できている生徒は線を引かなくても解けるのでいずれにしても意味はない。ちなみに進学塾の先生は、解説の際に大事な部分に線を引かせた上で「ここに注目するとだな・・・」というような説明をしているはずなのだが、線を適切に引けないことが問題なのに、その後から話を始めてどうするんだ、といった感じである。算数で言えば「やり直しの際に『つるかめ算だよ』とちょっとヒント出すだけでできるんです」という親のコメントにつながるところがある。つるかめ算だと理解できなかったことが問題であり、理解できるようにするために何が必要かを考え、その足りない部分を補うようにしてあげないといけないのだ。線を引いて教えること自体を全否定する気はないが、それをしただけで何かした気になっているのは、公開テストで10点上げて役割を果たしたと勘違いしているのと同様である。
戦略の失敗は戦術で補うことはできない。最近知って気に入っている、プロイセンの軍事学者クラウゼビッツの『戦争論』の中にある言葉である。戦略の失敗は、心構えが間違えていることによって引き起こされる、というのが私の考えである。自分に、自分たちにそれができるかどうか、そんな疑問は横に置いておいて、子供たちの未来を真剣に考える。それが第一歩である。