
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2024.01.26Vol.12 (受験)戦争反対(徳野)
上下巻合わせて約800ページを一気に読破してしまったほどの小説に久しぶりに出会った。桐野夏生の『グロテスク』である。有名作家の代表作を私がこの場でわざわざ取り上げる必要はないのかもしれないが、物語に「はまる」という感覚を味わったのはおそらく1年半ぶりくらいなので、自分が感じたことを掘り下げていこうと思う。
この『グロテスク』は、発生から27年経った現在でも未解決の「東電OL殺人事件」に着想を得て書かれた作品である。ネットで調べていると、命を奪われた女性が大企業の管理職でありながら夜な夜な風俗業に勤しんでいた、という強烈な二面性が当時を知る人びとの好奇心を掻き立てた様子が窺える。だが、本作の主人公は事件の被害者をモデルとした「佐藤和恵」ではなく、彼女の高校と大学の同級生である「わたし」だ。区役所でアルバイトをしている中年の独身女性なのだが、人間的な弱さに関しては登場人物たちの中で突出している。長くなるが、和恵と「わたし」のクラスメイトだった「ミチル」のセリフを引用する。ちなみに、ミチルは東京大学を卒業して医者になったものの、家族ぐるみで入信したカルト教団での地位を上げるために罪を犯し、懲役刑を終えたばかりの頃に「わたし」に再会する、という壮絶な人生を送っている。以下は獄中から戻って来た時の言葉である。
あなたと和恵さんは、とてもよく似ている。あなたは本当はガリ勉だった。しこしこ勉強して、努力を積み上げ、運よくQ女子高に入学できたけれども、実力の拮抗している女子高ではそんなにできる方ではなかった。だから、あなたは勉強の面で勝つことを早々に諦めたのよ。そして、あなたも和恵さんと同様、高等部から入って来た時にあたしたちとの差に驚いて、何とか差を縮めたいと願ったはずだわ。(中略)でも、こういっちゃ悪いけど、あなたはお金がないからそうすることも諦めたのよ。あなたはファッションや男の子や勉強なんかに興味のない振りをして、悪意を身に付けてQ女子高で生き抜こうとしたんだわ。あなたは高校1年の時より2年、そして3年の方がより意地悪になっていった。あたしがあなたと離れたのもそのせいよ。一方、和恵さんは必死に皆に追い付こうとしていた。和恵さんの家は経済的にも可能だったし、勉強もできたから、中途半端ではあったけど付いていけるはずだった。だけど、あの人の懸命さがイジメの対象になった。夢中で追いかけて来るのが見え見えだったからよ。思春期の女の子って残酷だから、それがださく見えたのね。
あまりにも明快な人物評からも分かるように、『グロテスク』は、学生時代に過酷な競争社会に身を置いた子どもたちの「その後」を主題の一つにしている。彼らは、人間の価値は成績や経歴によって決まり、ヒエラルキーの上位を目指すのが人生の目的であると教え込まれる。その中で優秀な和恵とミチルは学業や就職活動に猛烈に打ち込み、社会的に成功を収めたかのように見えたが、いざ実社会に出ると数値だけで評価されるわけではないし、理不尽な慣習に頭を打たれることもあった。そこで生まれた心の空白を埋めようと売春や宗教にすがった結果、一線を越えてしまった。
しかしながら、もし物語の語り手が和恵だったら、私は本作を「社会の闇」を描いた過激なサスペンス小説としか受け取れなかったはずだ。いわゆるレースから脱落した自身から目を背け続ける凡庸な「わたし」の内面がどう変化していくかを追う構成になっているからこそ、そのきっかけとなった和恵の「崩壊」を少しでも自分に近づけて捉えようという気持ちが湧いてくる。卑屈ゆえに傲慢で臆病な「わたし」を、自己認識能力が痛々しいほどに弱い和恵を、他人事だとは思えなかった。そう感じながら読み進めていく中で心を抉られるような気分に陥ったことも何度かあったものの、客観視の機会を与えてくれる本の力を改めて認識させられた。
『グロテスク』を手に取ったのは、統一入試日に行われた中学入試の結果が発表された頃だった。あくまで世間一般の話をすると、4年生から進学塾に通い、様々な我慢と重圧を乗り越えた末に難関校合格を果たしたような子にとって、今は12年の人生の中で最も希望に胸を膨らませている時期なのではないだろうか。それこそ都内屈指の名門校であるQ女子高の校門を初めてくぐった日の「わたし」や和恵のように。その一方で、受験を通して世界の広さを痛感させられた子(とその保護者の方々)もいるだろうし、志望校に入学してからショックを受けるケースも少なくはないはずだ。状況は人それぞれだろうが、子どもたちには自分の結果に対して「勝ち負け」という捉え方をしないでほしい、と伝えたい。勉学における競争には偏差値や順位といった数字による明確な優劣の判断が付き物だ。一度「勝て」ば誰かに優越することが目的になるのと同時に、「負け」れば自尊心を守るためにかえって自身の可能性に見切りをつけてしまいかねない。そんな表層的な部分で他者や自己の価値を決める生活の先に幸福は存在しないという「悟り」に至るよう、生徒たちを導いていくのは国語講師としての責務だと心に刻んだ。
2024.01.12Vol.11 ゴールのない道(三浦)
受験直前。本来であればそれをテーマに話をしたいところなのだが、思いのほか余裕がないので、以前に書きかけていた内容を活用させてもらうことにする。
少し前に読んだ本の話である。
日々過ごす中、自分の数字への弱さに辟易すると同時に理系への憧れが増していき、本を読むのが手っ取り早いなと、本屋で偶然見かけた『ウォール街の物理学者』というハヤカワ・ノンフィクションに手を出した。めちゃくちゃに面白かった。細かな内容は忘れているので(覚え違いをしている可能性もあるので)、正確な情報が必要であればぜひ読んでほしい。
ざっくりと言えば、クオンツと呼ばれる、数学的手法を用いる金融の人々に関するものである。物理学者たちが金融の数値変化にパターン、つまりはモデルを見出し、それに伴って様々な予想を立てられるようになったという歴史をさながら伝記のように辿っていく。数字に強くなろうと思って読み始めたにも関わらず、実際にグラフや理論が出てくると驚くほど全然頭に入ってこなかったのだが、興味深く読めたのはその根底に流れる歴史、そして「研究者の姿勢」ゆえ……だったのかもしれない。
物理学者たちは仮説を立てる。その実証を行いながら、モデル化できていないところへの改善を重ねていく。つまりモデルはアップデートすることが前提にある。しかし金融界はそのことを知らないまま、あるいは見て見ぬふりをしたまま、まるで盲信するかのごとく古いモデルを使い続けるから、結果的には金融危機のような崩壊に直面するのだ、と筆者は述べている。急激な暴落を予測することは不可能だと言われているのは、単にアップデートが行われていないからだ、と。
そういったプロセスも興味深くはあったのだが、なにより惹かれたのは、ずば抜けた才覚を持つ研究者たちが、分野の垣根を越えて研究を重ねていたことである。
ルーレットを当てるために物理法則を用いて計算を行う、というのも面白いものだが、例えば大暴落を予知した研究者については、「大きな崩壊の直前にはあらゆることに共通のパターンがある」として、大地震の予知も行っている。しかもその発端は、宇宙船に使うタンクがどれだけの負荷に耐えられるかを検証したことにあった。
閑話休題。占いを押し付けるつもりは全くないことをご了承いただいた上での話になる。他人を当てはめることは滅多にないが、自身の紹介として、ふたご座のO型という事実以上に簡素なものはない。性格占いで言われているだいたいのこと、つまりは「飽きっぽく、ひとつのことが長続きしない」が該当しているからだ。さて、そんな私にとっては、この本に出てきた物理学者のように「複数の物事に興味を持ち、共通点を見出し、新しいものを生み出す」ことは、その欠点を最大限有効活用した形として、理想のように映る。
以上、感想文の再利用である。金融モデルというとどうしても実利的なイメージが先立つが、本書を読んでいるときには、研究者たちはそのためだけではなく、好奇心のもとで研究を行っていることが伝わってきていた。ありきたりな言葉に任せれば、だからこそ結果に繋がったのだろうとも思うし、それは素敵なことだとも思う。
しかし、それはある一定の知識があって初めてたどり着く段階であることも事実である。それでもどうか、その道中を、学びを蓄積していく階段を、ひとつひとつ登っていく力が備わってほしい。そして辿り着いたところで、「他にも面白いものがあるな」と周囲を見回すような、そんな視野を身に着けてほしい。
完璧なモデルがないように、道が一つに限らないように、明確なゴールはない。目に見えるひとつの「ゴール」とされがちな受験に思いを馳せながら、いろいろと考えだけを巡らせている。
2024.01.06Vol.10 「いつか」のための「今」(竹内)
気付けばもう年が明けて5日が過ぎている。そしてそれは中学入試が、あるいは共通テストが、もうすぐそこまで迫っていることを意味している。この時期はいろんな生徒のいろんな志望校の対策をするので、私自身様々な文章に目を通す。以下は、その中の1つの甲陽学院で出題された物語文である(宇山佳佑『恋に焦がれたブルー』より)。父からの反対を押し切って靴職人になった主人公が、5年間修業を積んだ後、父が癌で余命3ヶ月であることを知って、思いを込めて靴を作りたいと申し出るものの、頑なに拒まれてしまう。師匠からの助言を受けて、ずっと父と向き合うことから避けてきた自分に気付き、主人公は再び父の病室を訪れる。そんな場面が描かれている。
「僕はこの靴で一人前になってみせる。父さんの靴で、一人前の靴職人になりたいんだ」
何も言わない父に「ねえ、父さん」と呼びかけた。
父は視線だけをこちらへ向けた。その瞳がかすかに輝いているように思えた。
「僕は今まで父さんから何一つ教えてもらわなかったね。(中略)だから教えてほしいんだ。最後にひとつだけ、どうしても教えてほしいんだ。父さん、僕に……僕にさ……」
車いすの肘掛けに乗せてあった父の手に、歩橙はそっと手を重ねた。あまりの細さに涙があふれた。
「大切な人の靴を作る喜びを教えてほしいんだ」
父は力なく首を横に振った。父の手も震えていた。
「俺はお前の靴は履きたくないよ……」
「どうして?」
「だって――」
父の目から一粒の涙が落ちた。
「歩きたくなるだろ。お前の靴を履いたら、俺はまた、きっと歩きたくなる……」
その涙は薄くなった父の胸板を濡らし、細くなった腕を濡らし、もう立つことのできなくなった二本の足を濡らした。父は左手で枝のようになった太腿を強くさすった。
この場面に関して、設問では涙をこぼした父親の心情が問われている。自分を思って息子が作ってくれた靴を履いて歩くことが叶わないことへの無念をまとめることができれば、解答としては適切である。直後にも「悔しくて泣いている」という描写があるので、方向性は比較的押さえやすいだろう。
しかし、である。その「悔しさ」がどれほどに深いものであるかを、一体どれだけの子どもが分かるだろう。いや、私だって、その気持ちをどれだけ重く受け止められているのだろう。大人になった今でさえも、かろうじて体感しているのは、家族としての視点からの、細くなってしまった腕の切なさや、それを受け入れるしかない寂しさくらいかもしれない。主人公が同年代であったり、学校が舞台であれば、自分の経験と重ねられるところがある分子どもたちにとっては読みやすい。そうではない作品の場合でも、共感はできなくても、論理的に読み解けば問題に答えることはできる。ただ、何かが分かることと同時に「まだ分からない何か」があることも浮き彫りになる。解くことを通して、まだ味わったことのない思いがあることを知り、「これがあの気持ちなのか」と理解できるようになった時は、一つ成長した時でもある。何も「志高塾で読んだ文章にもこんな気持ち描かれてたな」と覚えていてほしいわけではないが、今教室で取り組んでいることはある種の「先取り」であって、確実にこれからに続いているのである。
毎年、「受験は通過点」という言葉を噛みしめる。そのように表すからには、振り返った時に確かに通った点であることを認識できるようにしてあげないといけない。受験を終えた時点では、子どもたちはまだ完成していない。これから先、学生の時期を経て、社会に出て、いろんな立場で長い人生を生きていくことでそれぞれが自分の形を作り上げていく。入試問題で取り上げられる文章は、その学校の在り方を最も分かりやすく示すものであるだけに、よく選び抜かれている。だからこそ、ただ正解か否かに一喜一憂するのではなく、そこからできる限り多くのものを得させてあげたい。
国語の講師としてできることは、1つ1つの文章とじっくり向き合わせて、「いつか」に繋がるようにしてあげること。そうなるようにとことんまで力を尽くして、この1週間を走り抜くのみだ。