
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2023.12.22Vol.9 「率直」に一聴の価値があるように(徳野)
先日、国語講師の求人に50代の女性が応募してきた。過去に某大手メーカーのコールセンターでお仕事をしていた方である。そして、面接での一場面。私が月間報告についての説明を行う中で、作成したものには代表によるチェックが入る旨を伝えたところ、「代表って厳しい方ですか?」と不安げな表情と共に尋ねられた。自分より遥かに多くの人生経験を積んできたはずの人からそんな質問を受けるとは思わなかったので少々面喰いつつも、「言うべきことはストレートに述べる人物なので、始めのうちはそこを厳しいと感じるかもしれません」と答えた。本当に驚いたのはそれに対する女性の言葉である。彼女曰く、「コールセンターで罵詈雑言を受けて付いたスキルを生かします!」とのことだった。「率直なコメント」と「人格否定」を結び付けてしまっている様子が窺えたため、採用を見送ることにした。ただ、たとえ上で取り上げた発言が無かったとしても、会話の端々で感じた「子どもは褒めて良い気分にしてあげないと伸びない」という価値観は我々の方針とは異なっているので結果は変わらなかっただろう。
ところで、「罵詈雑言」などという言葉がすぐに出てきてしまうのはなぜだろうか。一般企業の窓口に寄せられる意見など大半が理不尽な内容で、聞くに値しないようなものばかりであるのは容易に想像が付く。それでも、「掃きだめ」の中に商品やサービスの改良のヒントとなる「宝」が潜んでいる可能性はあったはずだし、大企業なのでその日に受けた相談内容を簡単なレポートとして提出する機会だってあったかもしれない。ビジネス書を通して知ったことだが、化粧品メーカーのオルビスは購入者から寄せられた言葉を「知恵の泉」としてデータベース化して社員全員が閲覧できるようにしている。さらに、そのシステムが商品開発に還元されたという少なくはない実例が電話対応に当たるスタッフのモチベーションに繋がっているおかげか、オルビスのカスタマーサービスの質の高さには業界でも定評がある。はっきり言ってこれは出来すぎたケースだとは思うが、もしかしたら、あの女性が属していた組織は消費者からの少々耳に痛い意見を取捨選択した上で積極的に受け止めるための仕組みが構築されていなかったのかもしれない。あくまで私の勝手な推測ではあるが。
話題は面接を行ってから何日か経った、コーヒーチェーン店での出来事に移る。(またしても)50代くらいの男性客がバイトリーダーを呼び出して「この店のサービスは最悪です。本当に最低。もう二度と来ない。」という風に真正面から不満をぶつけている場面に遭遇した。遠くから耳をそばだてている身としては「何が」最悪なのかを知りたかったのだが、残念ながら男性は「自分は怒っている」以上の情報を明らかにしないまま去ってしまった。リーダーを含めまだ学生であろう若いスタッフたちに自身がどのような過ちを犯したのかを振り返ってほしかったからなのだろうか。しかしながら、せっかく物申すのだから、彼らの学びになるような言葉を残してあげてほしかったし、スタッフさんが「何か失礼がありましたらご教授いただけますでしょうか?」という質問を返せるように教育をしていないのは店舗責任者の怠慢ではないかと感じた。「クレーム」が本当に意味を成すためには、聞く側と訴える側の双方が歩み寄る必要がある。こうやって言葉にしてみると至極当たり前のことなのだが、その重要性を肌で感じ取れたという点で貴重な経験を二つもさせてもらった。
作文の添削とクレームは全くの別物であるのは承知だが、講師からの指摘が生徒にとって嬉しいものばかりでないという面では通じていると言えるだろう。子どもは「ご機嫌取り」のための褒め言葉には敏感なので、長い目で見れば、多少手厳しくても自分に新しい景色を見せてくれる講師に信頼を寄せる。そして、「新しい景色を見せる」ためには、単に「これがダメ、あれが出来ていない」と修正点を羅列するだけでは不十分であり、課題に向き合うことの先に何があるかを示してあげなくてはならない。そういったやり取りを通して、生徒たちの内面に他者からの言葉に耳を傾ける姿勢が培っていくだけでなく、いざ自分が誰かに意見を述べる際も前向きに受け止めてもらうための工夫にエネルギーを使えるようにしてあげたい。
2023.12.08Vol.8 逃避の行方(三浦)
昔、どこかで「好きなことを仕事にするときに必要なのは、その『好きなこと』のために、どれだけの『好きじゃないこと』を我慢できるかだ」という内容を見かけた覚えがある。本当にどこだったか思い出せないし、もしかするとインターネットの投稿だったかもしれないが、私としては腑に落ちる言葉だった。仕事に限った話ではない。「好きなことをする」というのは決して逃避の先に得られるものではない。
さて、とある中学校の過去問に取り上げられていた村山由佳氏の『雪のなまえ』に、以下のような内容がある。いじめにあって東京の小学校に通えなくなり、長野の曽祖父母の家へと引っ越した主人公の少女が、「学校の勉強なんかより、農業の方が役に立ちそうだし、生きてるって感じがする。ばぁばの手伝いをしたい。だから農業を教えてほしい」と頼む。そしてまあいろいろなやり取りがあって、その最後、曾祖母の答えが以下のようなものだ。
「無理に学校行けって言ってるんではねえよ。そこんとこは、お父さんお母さんの意見もよーく聞いて、自分で考えて決めたらいいだ。ただな、時々、ちょこっと考えてみてほしいだよ。今の自分は、何をどれだけ辛抱してるかなあ、ってな。畑仕事を教わりたい気持ちは本当でも、それはもしかしたら、したくねえことから目を背けてるだけなんじゃねえかな、ってな」
「休みもなしに走り続けたら、心臓が潰れっちまうだわ。だもの、心の底から苦しいばっかりだったら、そんなものはやめたらいいと婆やんも思うだよ。だけどもそれは、とりあえずいっぺん走り出したモンにだけ、当てはまることなんじゃねえかなあ」
小説を通読した訳ではなく、出題されているだけの一部分に目を通しただけなので、この後がどうなるのかはわからない。この前がどうなっているのかもわからない。ただ、この一部分を出題箇所としたということは、出題校はここに何かしらのメッセージを見出し、それを受験生に伝えようとしているのだろう。
私自身、自分にとても甘いたちだし、精神的にタフなわけではない。高校生の頃には実際に学校に行けない日もあって、そこから心のどこかに「逃避」という選択肢、いや、癖がついてしまっているようにも思う。もちろん、逃げることがいつだって悪いわけではない。何からも逃げずに無理を重ねて折れてしまうくらいなら、逃げてしまえばいいとも思う。
ただ、それでも、「逃げていい」という言葉を言い訳にしてしまうのは違う。ほんとうにわずかな例外を除けば、たいていの場合、「逃げる代わりに、何をするの?」という問いがセットになるのではないだろうか。追い詰められているその時にする問い掛けではないにしろ、逃げた後で、それを問うことは必要なはずだ。私はそれを頑張ってこなかった人間だった。本来であれば、環境から逃げる代わりに、いくらでも勉強なり他の努力なりをすることができたのだ。
耐えている人に「逃げればいい」と言ってやることは簡単で、だからこそ無責任になりかねない。相手にとって本当に大切なのは逃げることではなく、「耐える場所」を変えることかもしれないし、「耐える理由」を考えることかもしれない。先ほど挙げた物語でも、「東京の学校とこっちの学校は違うはずだし、こっちには幼馴染もいる。絶対こっちの学校にも行かないと決めてしまうのは、少し早い気がする」という内容の曾祖母の話が上がる。
嫌なことが何一つ起こらない場所、なんてものはない。何は耐えられないのか、何なら我慢できるのか、そういったひとつひとつの内省なくして全てほうり出してしまったら、いつまでも「頑張る」ことはできないままだ。それができなければ、結局、「好きなこと」すらできないままになってしまう。
夏休みの終わり、二学期が始まる直前。図書館からの生徒の呼び掛けを目にしたことがある。調べてみれば8年前の鎌倉市図書館のポストだった。
「もうすぐ2学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね」
もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。
— 鎌倉市図書館 (@kamakura_tosyok) August 26, 2015
逃げればいい。逃げた先で一息つけたら、そこでようやく、何か頑張れることを見つければいい。何か好きなことを見つければいい。なかなかどうして、うまく伝えることの難しいメッセージだ。
2023.12.01Vol.7 対話の力(竹内)
日大のアメフト部の問題。2018年の危険タックル事件の後、年度内の対外試合禁止処分を経て、外部から監督を招聘し再スタートを切り、翌年関東学生リーグの1部昇格を果たした。昨年春からは日大OBを監督に据えての新体制が始まっていたのだが、今回の部員による寮内での薬物所持・使用という不祥事を受けて、「廃部」へと進むことになった。大学のこの対応に関しては、この問題に関与しない学生たちもが活動の機会を失ってしまうとして、「連帯責任」の是非も問われている。現状として活動停止中なのだから、少なくとも部の今後は、全貌がもっと明らかにされたうえで決めていくべきである。
さて、この「連帯責任」は、本来は不法行為を働いた複数の者が連帯して責任を持つことを指している。つまり、ルールを破った誰かのために、それをしていない誰かまでが罰を受けるというのは正しい形ではない。ところが、人を管理する上でこのような考え方が用いられることは決して珍しくなく、例えば教育の場では誰かが提出物を忘れたり、掃除をさぼったりすればその人物が属する班の全員を減点し、子ども同士での監視に発展させることもある。私自身が中学生だった頃にはもっと意味の分からないことがあって、拾い忘れたボールが1球あったせいで、野球部全員が放課後の練習時間中延々とボール箱に向かって大声で謝罪させられていた(弟がその時の野球部に入っていたのでどうしても忘れられない)。他の部活をしている同級生に見られることになるので恥ずかしさこそあれど、もし、それを大事にすることを説きたかったのだとしたら、それを使用するメニューを当面外すなり、対策について話し合わせるなりした方がよっぽど自分たちで考える時間になったと思う。
責任感とは、想像力である。「こうなるかもしれない」「相手はこう感じるかもしれない」と考えを巡らす時間を持たずして、「気を付けよう」とはならない。それなのに、この「想像する」という過程がゆるがせになっている。「このままじゃだめだ」と一度は自分を奮い立たせても、律し続けることはすごく難しい。そんなに大変なこととじっくりと向き合わないままに何か事が起きて追及を受ければ、結果だけに目を向けること、失敗への恐怖、さらにはそれを隠そうとする意識に繋がってしまう。責任は「取らせる」ことよりも「持たせる」ことの方が成長を促すはずだ。
人は家族なり学校なり職場なり、何かしらの社会の中でその一員としての役割を担っている。本当は、大人も子どもも関係なくそれぞれに、自分の言葉、行動、なんだったら生きているということに対してすらも責任が発生している。それは自分では意図しない、希望していないことかもしれない。だが、その周囲と接する中で「誰かがやってくれる」のではなく、ほんの少しでも自分が背負っているものがあるのだと自覚できれば、自らを見つめ直せるのではないだろうか。コミュニケーションは相手の想像力を刺激すること。そのことを自分の頭において、目の前の人とかかわっていきたい。