
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2023.11.24Vol.6 ちいさな哲学者(徳野)
弊塾の代表から紹介していただいた「BizHintニュース」というメールマガジンを読むようになった。私があまりにも一般社会に対する知識が少なすぎる現状を踏まえて情報を吸収していくための取り組みの一環である。そして、最近の記事で印象に残ったのが、鹿児島の濵田酒造株式会社の濵田雄一郎社長のインタビューだ。(最後にURLを貼ってあります)濵田氏は自社の魅力を高めるべく32年間奮闘してきた方であり、京セラの創業者である稲盛和夫氏とのエピソードを中心にお話をされている。稲盛氏は濵田氏に向けて次のような助言をされていた。
「フィロソフィに沿っている。間違っていない。」
「フィロソフィ」つまり「哲学」。先述の「BizHintニュース」では、様々な資本が限られている地方の中小企業で改革に成功した経営者の方々が多く取り上げられており、皆さんが揃って重視されているのが「理念」である。言葉は違えど「哲学」もそれと同等のものとみなせる。小手先の解決策を探るより先に「守るべき価値観は何か」「企業としてどこを目指すのか」という指針を定めないとメンバー間の精神的な結束は望めないし、コストをかけるところを見誤ってしまう。苦難の末にしっかりと結果を出した人々の説得力ある言葉は、ビジネスの世界における根本的な思考の重要性を改めて教えてくれる。
さて、今回は哲学との関わり方についてもう少し掘り下げていきたい。
まず、学問としての定義を説明すると、哲学は大きく「倫理学」「認識論」「美学」に分類される。ちなみに、私は大学の文学部で3つ目の、アートやデザインを通して人間の感性を研究対象とする美学を専攻していたので、いちおうは哲学者の端くれだった。「好き嫌い」や「センス」といった漠然とした言葉で片付けられてしまう感覚的な事柄に論理的にアプローチし言語化すること。そして、日常で当たり前のように用いられている言葉を一つひとつ疑い、より包括的に定義付けられるよう自分なりにアップデートを繰り返していくこと。そうやって過ごした3年間は楽しかったし、理解が及ぶ次元を少しだけ高めてくれたのは事実だ。
しかし、我ながら残念なことに、研究室での学びが大学の外にある「社会生活」の糧になるという気づきには至らなかった。私個人の問題として捉えるとあまりにも視野が狭く様々な経験を積んで来なかったせいなのだが、周囲で哲学系を専攻していた、特に就職活動を始めた頃の知人たちも「自分の卒業論文のテーマは将来の仕事には役立たない」と漏らしていたのだからなかなか深刻である。あくまで私が見た範囲での話になるが、講義で取り上げられる題材はあまりにも抽象度が高く、まず資料の内容を把握するだけでも膨大なエネルギーと時間を要するので、指導する側も知識の伝達や文献の精読だけで精一杯という面は否めないだろう。また、そもそも大学から出たことのない教員にとって、利益追求を狙いとする組織についてイメージを膨らませながら自身の専門分野との繋がりを見出すのが容易でないのも分かる。それでも、わがままなのは承知だが、哲学が実社会から切り離された研究者のための「別世界」ではなく、どんな人生を歩む場合でも助けとなることを学生たちが実感できるような機会があれば、受け止められ方はもっと前向きになるはずだ。我が母校でも、鷲田清一先生がかつて「哲学カフェ」という対話を中心に据えたスタイルの授業を展開していたが、現在はどうなのかを同校に通う学生講師に尋ねてみようと思う。
そして今、次は教育に携わる者の端くれとしての私の目標は、「フィロソフィー」の重要性を伝えていくことだ。たとえ身近なレベルであっても「自分がどうありたいか」を浮き彫りにするために己を徹底的に見つめ直す過程は、物事の根本原理を追い求めるという意味で立派な哲学的思考であり、特に意見作文はこれ以上無い教材である。さらに、考える習慣が付けば知識も血肉になるものとして捉えられるようになる。
志高塾を卒業した生徒たちに私と同じ専門分野に進んでほしいなどとは望まない。ただ、人文科学系の教養を「無くてもいいもの」ではなく「あればあるほど良いもの」と認識した状態で旅立てるようにしてあげたい。
(濵田雄一郎氏のインタビュー記事)
https://bizhint.jp/report/858631
2023.11.10Vol.5 消費者として(三浦)
NHKの「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」を気に入ってよく見ている。以前はアメリカ、すこし前には日本の70年代、80年代、90年代…といった時代ごとのサブカルチャー、主に映画や音楽を紹介していくものだ。しかしただの紹介が主軸なのではない。サブカルチャー史というだけあり、当時の時代背景や世間のうねりというものがいかに当代のサブカルチャーを生んだのか、それを専門家たちが語っていく。忘れがちだが、「時代背景」という視点は大抵の作品に存在しているのだ。
以下に例を挙げるが、うろ覚えなのと私自身がラストシーンしか見たことがないものなので、的外れであれば申し訳ない。近く最新作が公開されていた『トップガン』の初代作品では、戦闘シーンを売りにしながらも、何と戦っているのかが明言されないままに話が進んでいく(らしい)。しかし冷戦真っただ中の当時、観客たちは「アメリカの敵」というポジションから即座に「ソ連」を連想し(敵の戦闘機もソ連のものだそうだ)、その戦闘に自分たちを投影する。だからこそ、最後に撃破するシーンでは、観客は単なる「主人公の勝利」にではなく、「ソ連に対してアメリカが勝利した」という幻想に高揚を得ていたそうだ。
単なる事実の羅列としての歴史ではなく、そういった消費する群衆の視点から、揺れ動いていく時代を見ていくのは面白い。何より、当時のカルチャーに詳しい母と見ているからこその楽しさもある。その時代には日本ではこういうのが流行っていて……だとか、この俳優は他にこういうものにも出ていて……だとか。そういったものは、その時代を謳歌していた人間にしか話せないものだ。しかし、そんな母でもアメリカの時代背景を知っていることは少ない。先の『トップガン』もリアルタイムで観ていたらしいが、アメリカの熱狂それ自体を実感することは全くなかったそうだ。一緒に感心しながら、テレビに耳を傾けている。作品と文化は地続きだが、意識しなければ見えてこない部分ではある。
さて、時代背景という一点で、思い出したことがある。この間、といってもかなり前に、新海誠監督の『すずめの戸締り』を観に行った。地震、震災がひとつのテーマであるこの作品の中では、「3月11日」という日付が登場し、しかもそれは東北の地と結びつけられている。もちろん、見ている私たちは、その日付だけで東日本大震災を想起する。また、震災というテーマをもって見れば、他に作中で取り上げられている神戸や東京といった土地も、阪神淡路大震災や関東大震災と即座に関連づけられながらの鑑賞になるだろう。
だが、もし十年、二十年後になれば、その連想はどうだろう? 十年と言わずとも、今の若い世代はもう既に、過去のこととしてなにもかもを忘れていっているかもしれない。そんな人々は、果たして東北の地や「3月11日」という日付を見て、現実の出来事と即座にリンクさせることができるだろうか? させることができたとして、それは現実的ではない「記録」に他ならないのではないだろうか。
ここまで長々と語ってきたが、実はテーマは「教養」である。多くの意味を内包するこの言葉は、同じように多くの目的を持って「必要だ」とされている。教養が必要な理由を一言で述べるのは難しい。
今回は、この「教養」を「下敷きとなる知識」と定義してみる。そうすれば、教養が必要な理由など、私にしてみれば「その方が楽しいから」だけで十分になるからだ。面白いから、でもいい。かっこいいから、でもいい。知っている方が楽しいから学ぶ。
もう、ワールドカップもずいぶん前の話になるのだろうか。ルールを全く知らない私はただボールがどこにあるのか目で追うだけで必死だったが、家族は「ここから焦ってくるやろなあ」「押してるなあ」とやいやい言いながら観戦していて、楽しそうで羨ましかった。どっちがリードしているかもわからないまま見ているより、(多少知ったかぶりだったとしても)戦況を踏まえながら見守っているほうがずっと面白いに違いない。
これが、「知ること」の原点な気もする。そして「知識」は、決して過去のものに限らない。今起きていること、今の世の中の空気感、それらすべてが下敷きになって、いつかにつながっていくのではないだろうか。
いつかずいぶん先の未来、この2010年代、2020年代を振り返った時、自分はどのように回想するのだろう。今のエンターテイメントについて、社会の潮流について、どのような時代背景を解説できるのだろう。そう思ってみると、消費者としての無知に気づかされる。振り返って初めて語るのではいつも手遅れになるのだろう。日本のサブカルチャー史、学生運動やバブル期という過去を他人事のように眺めていた。
2023.11.03Vol.4 「その言葉」である意味を見つけられるように(竹内)
高槻校の高2の生徒とオンライン授業で関わる機会がある。新型コロナの流行をきっかけにリモート対応できるようにとzoomを導入したのがそもそもの始まりであったが、それによって現在は遠方への進学や親御様の転勤等によって通塾が難しくなってしまった場合であっても、継続してもらうことが可能になっている。先の高槻校の彼女も、開講日の都合ゆえにオンラインで授業を行っていた一人である。
いきなり話が脱線しかけたが、その生徒は意見作文に取り組んでいる。つい先日の授業中、友人たちとの過去の接し方の変化を振り返る内容を書き進めている際に、「自分を『改革』する」という言い回しは適切なのだろうか、と立ち止まっていた。本人としては、それまでに具体的なエピソードを列挙していたことで柔らかい印象を与えていたため、「改革」という硬い言葉を用いるとアンバランスになってしまわないか、というのが気になったようだ。硬さを感じる所以は例えば「組織を改革する」という用例に見られるように、大きなものに対して「改革」を使うことにあるのかもしれない。しかし、「意識改革」のように個人のことにも当てはめられるので、言葉の選択としては悪くない。加えて、この時はそこまでに述べていた内容を踏まえて「変わらなくてはいけない」という意志が生まれたからこそ、強い言葉が必要なのではないかとアドバイスし、そのまま進めることになった。この授業で扱っていたテーマは教材の中の1つでしかなく、完成したものを学校なりコンクールなりに出す予定もない。中高生にもなれば、必ずしも毎回出来上がった作文を親御様に見せているわけでもないかもしれない。だからこそ、彼女のその一語に対する疑問は、まぎれもなく彼女自身を豊かにするためのものなのだと断言できる。これまでにも何人かの生徒の作文が松蔭のブログに掲載されてきたが、それは彼・彼女らの紡いだ言葉の一つ一つが立っているからである。きれいな文章を書くことがゴールではない。しかし、自分の伝えたいことを表すにふさわしい言葉を模索した結果としての文章には、人を動かす力がきっと宿る。LINEやその他SNSであまりにも簡単に言葉を発せられてしまう昨今、それに対して誠実に向き合う時間を持つことにはとても大きな価値がある。
意見作文に限らず、というよりも『コボちゃん』や『ロダンのココロ』といった要約作文と日々対峙している生徒たちには一層、見直しの意義を伝えている。「同じ語を繰り返さない」というルールは、表現にこだわれるようにするためのものである。それを疎かにしてしまっては、読解問題において筆者の主張や登場人物の内面を汲み取ることや、自分自身の気持ちを表す術となる言葉を蓄えていくことはできない。
NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』という番組がある。とある回で、校正者の大西寿男氏が取り上げられた。池井戸潤の『陸王』や、宇佐美りんの『推し、燃ゆ』などの校正を担当し、多くの作家から多大な支持を得ている人物である。つい2週間ほど前にも2度目の再放送があったようなので、ご覧になった方もいるかもしれない。本放送は今年の1月にあり、私は4月末の再放送で初めて彼のことや、校正という仕事の奥ゆかしさを知った。
「積極的、受け身」。大西氏は校正者の姿勢をこのように表したのだが、個人的にこれにすごく共感できた。作家や出版社から送られた原稿に目を通し、誤字脱字に留まらず時には登場する事柄に関しても裏を取り、必要に応じて内容について提案をする。これは、「作者の書きたかったものは何なのか」ということを理解しようとする姿勢があるからこそできることである。原稿を介して対話しているのだ。言葉に対する知識という点では、言葉そのものの使い手である校正者には当然ながら私は劣る。けれども、生徒の作文のように人の血が通ったものに触れ、より良くする手助けをするために、まずそれを分かろうとする態度で臨んでいる点には近しいものを感じた。やり取りをしていく中で生徒の考えているものを引き出し、それを通して言葉に対するこだわりを持てるようにしてあげたい。