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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2023.10.27Vol.3 「反面教師」を超えて(徳野)

 ここ1か月奇しくも、私が月間報告を担当している2人の生徒が「将来、何をしたいのか」について意見作文に取り組むことになった。(うちの1人はまだ完成していない。)両者とも「医者」「建築家」という希望する職業はすぐに出てきたのだが、「なぜ、その職業を志望するのか」や「仕事を通して何を実現したいのか」になると言葉に詰まっていた。そもそも、自分が興味を持っている分野に関する知識が少なく、漠然とした憧れだけで夢を思い描いていたからである。だから、彼らには「可能な限り多くの選択肢を用意した上で将来の方向性は定めるべきだ」と伝えた。
 と、ここまで偉そうに書いてきたものの、かく言う私自身が視野の狭い学生であった。今でこそ志高塾に手を差し伸べていただき居座ってしまっているが、中学生から大学生の頃は美術館の学芸員になりたいと、まさに夢見ていた。特に中高生時代は、それを周囲に話せば「もうそこまで決めているなんて凄いね」と耳当たりの良い言葉を返してもらっていたので、同年代と比べて自分は地に足がついた人間なのだと完全に思い上がっていた。しかし、学芸員は狭き門であり、生半可な努力でなれるものではない。大学生になって数年して初めて厳しい現状を知った私は、就職活動にも院試にもろくに身を入れないまま4年生を迎えてしまった。
 こうやって己の不甲斐なさを振り返っているうちに思い出されるのは、今年の夏期講習中に開催されたオンラインイベントである。スピーカーとして登場してくれた元生徒の川本君は現在、大学入学前に思い描いていたこととは違うことに取り組んでいるように見えるが、彼が「一本筋が通っている」という印象を人に与えるのは、根底にある価値観じたいには揺らぎが無いからだ。社会に出る上で誰とも関わらないというのはありえないので、自分の仕事が他者に、そして社会にどのような影響を及ぼすかをイメージすることが求められる。また、冒頭で述べたように選択肢を広げるとなると、「やりたいこと」をより広く抽象化して捉えておく必要もある、ということを教えてもらった2時間だった。
また私の話に戻るが、結局のところ「将来やりたいこと」を趣味である「アート」というジャンルだけで考えていたのが浅はかだったし、芸術鑑賞を単なる現実逃避先にしていた自分からも目を背けていたのだ。(誤解を招いているかもしれないが、今でも美術館に行くのは好きだ)そんな私が、生徒に対して一つの「あるべき姿」を示すなど逆立ちしても無理な話である。
 「だから、反面教師にしてほしい」この流れはもっともらしいが、落とし穴だらけである。今回のタイトルにもある「反面教師」とはもともと、1950年代から70年代半ばにかけて中国の最高指導者だった毛沢東が提唱した概念であり、「集団から劣った人物を排除するより、彼らを孤立させ、他の多くの構成員たちに正しい教育を施した方が理想的な組織ができる」、つまり、その他多数の構成員は「あるべきではない姿」を直接目にすることで自身のあり方に対して緊張感を持って向き合える、という理屈は当時の若者たちに支持された。しかし、彼らが実際に行ったのは年長者や伝統文化をむやみやたらに批判することにすぎず、自身の成長に何ひとつ繋げなかった。さらに、毛沢東の考えには「劣っている者を理想像に近づけるにはどうするべきか」という視点が欠けている。そんなものに甘んじているのでは、価値のある物事を伝えられるような講師には到底なれるはずがない。たとえ不甲斐なくても、そこから成長していくしかないのだ。
 ここまで長々と書き連ねてしまったが、今の私が志高塾の一員としてやるべきは「社会についてより深く知ること」だ。身の回りにあるモノ・コトがどのような人たちによって作られているか、それに携わっている人たちが何を考え、どのような道を辿ってきたのか。世の中には可能性が溢れているからこそ、自分を見つめ直す時間が重要だということを、説得力を持って実感させられるような人間になりたい。いや、なる。

2023.10.13Vol.2 教え、育む(三浦)

 noteに載せてもらえることになったので、ひとつここは「教育」と「書くこと」という大風呂敷をつなげて広げてみようと思う。そんなテーマを扱えるほど立派でもないので筆は重いが、背水の陣である。
 まず語るべきは、私が志高塾の講師になった過程だろうか。現状からは考えられないが、私は就職活動の際、いや、それ以前からずっと「教育には携わりたくない」と本気で考えていた。というのも、教えるのが苦手な自覚があったからだ。
 そんなわけで、私がまず志していたのはライターのような仕事だった。何かを書いて暮らしたい、本に囲まれて暮らしたい。そんな漠然とした夢のままに色々と探してみたが、甘い考えではもちろんありつけるはずもない。とにかく近くの仕事を探すかと方針転換したところ、志高塾がようやくヒットした……というのが、私と志高塾の出会いである。
 もう少し遡ってみると、「何かを書いて暮らしたい」というのは高校時代からぼんやりと思っていた。結果的には四年制大学に通うことになったが、ある芸術大学の文芸科も受験し、合格したこともあった。
 大学生活の中では選ばなかった芸大の生活を思う日もあったが、そのたびに「ものを書くには、ものを知らないといけない」ということをしみじみと考えていた。描写ひとつとっても、それを描き出す想像力の基盤は知識になる。例えば私は実家暮らしの影響でまともに料理をしたことがなく、ゆえに料理をする描写などは今のままでは一切描けない。主人公が肉を洗ってしまいそうであるし、みそ汁に出汁を入れなさそうだ。
 そういった身近なこと、あるいは社会常識、そして歴史や経済……すべての知識は、言ってしまえばネタになる。技法は後から身に着ければいいが、その下地となる社会を見る目は、知識や教養からしか育てられないものである。世の流れを知らなければ、世に出すものは書けない。と、私は実感としてそう考えている。だが、大学生時代にはそれにうすうす気づいていても、実際に身になるように学んでいたかと言われれば、かなり耳の痛い話だ。もしも本当に気づいていたのなら、自分が何かを書くほど社会に目を向けていないことも、「ものを書く」ことの大変さも、もっと深く実感できていただろう。
 繰り返すが、「ものを書く」には、その前段階として「ものを知る」ことが必要だ。
 そしてそれ以前に、「ものを知らないことを知る」ことが必要だ。そしてもっと多くの工程があって、長い思考のプロセスを経た後に、ようやく「書く」フェーズへと移り、表現をああでもないこうでもないとこねくり回すことができる。
 さて、ここで「教育」に戻る。私が苦手意識を持っていた教育とは、この最終段階だけを行うようなものであった。教壇の上からただ技法を教え、書かれたものを見て、「どうしてできないのか」と嘆くばかり、あるいは「よくできている」と喜ぶばかりのもの。独りよがりなその行為こそが教育なのではないかと思っていた。
 しかし、それは教育ではなかった。志高塾では初めこそ要約作文に取り組むが、後々には意見作文や小論文へと移行する。その中で教えるべきは「自分は何を知らねばならないのか」という指針だった。生徒とのコミュニケーションの中で少しずつでも芽を育てていく。何が出来ていないのか、それはなぜなのか、丁寧に拾い上げていく。初めの目標が「文章を書くことに慣れること」だったとしても、最終的な目標は「ものを知って、自分で考えて、それを文章にできること」だと、私はいつも思っている。いつもそれを目指して、私なりの教育を探している。
 国語のプロフェッショナルであれ。代表である松蔭から時折受ける言葉である。それを受ける程度には私はまだまだプロフェッショナルではないのだが、そこに含まれているのは「プロフェッショナルになればいい」という意味ではもちろんない。
 最低限、国語に関してはプロであれ、だ。
 「ものを書ける人間に育てる」という目標は、国語教育という言葉が含むのであろう範囲を大きく越える。何も知らないままに生きてきて、「書くべきこと」も見つからないまま、中身のないまま大人になった自分が反面教師になるように。生徒たちが何かを発信したい、書きたい、作りたいと思ったとき、その思考の土壌が豊かになっているように。
 いつか私がもっと自信を持って「教育」について話せるようになったとき、その時には、もっといい文章を披露できるようになりたい。それだけの中身のある人間になることが、目下の、そして人生の目標である。

2023.10.06Vol.1 掘り出し物(竹内)

 「うーわ、なつかし」。普段は滅多に独り言を発さないのだが、いわゆる深夜テンションも手伝って、この時ばかりは違った。大学2回生の頃に学生アルバイトとして志高塾に出会った私は、生粋の「宮っ子(西宮市民をそう呼ぶ)」であった。学生時代を経て、社員になってからも西宮住まいは変わらなかったのだが、昨年の途中から豊中校のみで授業を行うようになったこともあり、つい先日池田市内に引っ越した。その準備として荷物の整理をしていた際につい口を突いて出てきたのが先述の言葉である。アルバイトを始めたばかりの際の研修期間中にまとめていたメモがクローゼットから現れたのだ。
 HP内の「志高く」でも取り上げられることがあるが、研修中初めの8コマは直接生徒を指導することはなく、授業見学を通して気付いたことをひたすらメモする。もちろんその中で先輩講師から適宜補足説明などがあるのでそれを書き加えたり、研修課題にフィードバックをもらえばそれに関して残しておいたりする。先に「こうするんですよ」というのを示してもらうのではなく「こうするんだな」というのを自力でまず発見することが求められている。そのステップを踏んでから「答え合わせ」をするからこそ、自分の中に落とし込まれていく。
さて、そのメモ。読み返してみると、同じような文言が繰り返し登場した。印象的だったから書き残したことだったり、何度か指摘されたことだったりするだろうが、私のことなので後者の場合が多いはずである。ただ、今の立場になって目を通すと、それらがすごく大事なことであるのが分かる。例えば、生徒とのやり取りの場において「イエスかノーで答えられる質問をしない」という注意点がある。「コボは怒ってるの?」ではなくて「どんな気持ち?」と聞いたり、「なんで?」と問うたりした方が、生徒の思考の幅は断然広がる。初回の勤務でそのことを学び早速メモした私だったが、その後また同様のことを記していたことからも、すぐに意識できるようにはならなかったんだな、というのが窺える。何度か書いているということは、先輩講師から都度助言されていたということなので、根気よく指導してもらえたのはありがたい限りである。一方で、赤字で強く書かれていた「しっかり考えられているかどうか、その子の顔をよく見る」という一文は1回のみの登場で、それを教わってすぐに実践できていたようである。
 もう一つ思い出したこと。アルバイトの採用面接時に、中学・高校とソフトボール部に所属していたものの、どちらかと言えば下手くその部類であったことを話した。バスケ大会での私を見た人にはよく分かるであろう。なお、その時には「確かに上手には見えない」とその場で返されている。中学の頃は部員自体が少なく、他校と合同チームを組まざるを得ないくらいだったのでまだ出場機会はあったが、高校では出られて練習試合の2試合目くらいだった。それでも途中で辞めなかったことが(当時の同期の存在が大きいが)「私」という人間を形作っているような気がする。やっぱり上手い人がかっこいいけれど、そうでない人も楽しめる方がいいじゃない。こういうマインドは、「できない」と「嫌い」を結び付けてしまわないために大事だと思う。生徒にも、共に働く講師にも、このことを伝えていきたい。
 いよいよそんなことまで振り返っていて、引っ越し準備が一向に進まなかったことは言うまでもない。しかし、良い夜だった。

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