
2018.02.27Vol.340 アナログ頭脳とデジタル頭脳
これからの世の中で求められるのは、アナログ頭脳ではなくデジタル頭脳だ。
冒頭の一文。「アナログ頭脳」、「デジタル頭脳」が何を指すかの説明をしなくても、何となく「そりゃそうやろ」と思われて終わりそうであるが、「なるほど」となるような文章にしたい。いや、してみせる。
平昌オリンピックが幕を閉じた。スノーボードで前回大会同様に銀メダルを獲得した平野歩夢選手のインタビューを見て驚いた人は少なからずいるのではないだろうか。声質、口調なども影響を与えているのだろうが、頭の良さを感じた。決して難しい言葉を使うわけではない。語弊があるかもしれないが、スノーボードの選手っぽくはなかったのだ。髪型はそれっぽい。平野選手とフィギアスケートの羽生選手の髪型を入れ替えたところを想像すると少し面白い。良い悪いはさておき、その競技におけるスタンダーというものがあるのだ。
スポーツをするにも頭の良さが必要だ、というようなことは以前から言われている。それゆえ、一流選手はインタビューにおける受け答えがスマートだ、と結論付けることもできる。だが、平野選手のインタビューについて何とはなしに考えていたら、別のところに理由があるような気がしてきた。一流選手は、他の選手よりもインタビューされる機会が多い、というのが、私が考えたそれである。同じようなことを何度も質問される。それに対していつも同じように答えるのも芸がないので少しずつ変える。すると、そこにバリエーションが生まれる。時に、まったく新しいことを尋ねられる。そのことがきっかけで頭の中に漠として存在していたものに言葉が付与される。そして、それが競技にフィードバックされるということもあるのではないだろうか。すると、より活躍する可能性が高まる。
インタビューがきっかけでスポーツ選手の頭の良さについて考え始めたのだが、今回テーマにしたいのは上のことではない。100年前、動画を確認することはできなかった。それゆえ、自分の体の動きをイメージして、それを元にして体の使い方を修正していく必要があった。おそらく30年ぐらい前に録画が可能になった。最近の進化は目覚しい。たとえばプロ野球のピッチャーであれば、数年前までは投球に関する数値的なデータといえば、スピードぐらいしかなかった。必ずしも速ければいいという訳ではないのだが、その指標しかないので少しでも速いボールを投げることが1つの目標であった。だが、今ではボールの回転数なども計測できるようになった。野球に詳しくない人には分かりにくいかもしれないが、昔は「あのピッチャーはスピン(回転)の利いた、いいボールを投げる」という表現が使われていたのだが、それは感覚の域を出なかった。それが今では計測可能になり数値(1秒間に何回転しているか)が得られるようになった。10年前まではアナログ的な頭脳があれば活躍できたが、これからの時代は、デジタル的な頭脳とそれを元にしてどう体を動かせばいいかを考えられるアナログ的な頭脳の両方が求められるのであろう。
棋士でも、ひふみんこと加藤一二三はもちろんのこと、羽生善治も過去の棋譜を元にして、実際に将棋盤に駒を並べながらアナログ的に研鑽を積んできた。しかし、30代以下の棋士はパソコンを前にして研究を行っているとのことである。このようにいろいろな世界でアナログ的な頭脳からデジタル的な頭脳への移行が相当なスピードで進んでいる。変革の時、針は一気に反対側に振られる。現状は、アナログ頭脳が軽視され、デジタル頭脳が重視され過ぎているように感じる。これからの流れとしては、アナログ頭脳の重要性が再認識され、アナログ頭脳とデジタル頭脳を結びつける力が必要とされるのであろう。何年か前に羽生さんは「自分たちは、棋士同士で実際に将棋を指して研究をしてきたが、今後は、若手のようにコンピュータ相手にそれをしていくことも必要であろう」というようなことをどこかで語っていた気がする。まったくの私の勘違いかもしれない。真偽はさておき、そのようなことを語っていたと仮定すると、それは、アナログをベースにして、そこにデジタルを織り込んでいくというスタンスである。デジタル頭脳は後からでも鍛えられる。幼い時に力を入れるのは間違いなくアナログ頭脳の方である。感性を磨くというのも、その一環である。
さて、私が最初に目標として掲げた、説得力のある文章に少しはなったであろうか。なっていないとしたら、それは私の「アナログ頭脳」、「デジタル頭脳」のどちらが足りないせいであろうか。少なくとも「両方まったくだめ」と思われていないことを願うばかりである。
2018.02.19Vol.339 面接につながる作文
Vol.339 面接につながる作文
以前ここでも触れたが、小学3年生の春から2年間西宮北口校で学び、その後中国に引っ越した生徒と毎週テレビ電話を使って授業を行っていた。それは、お母様から「どうしても続けたい」とお願いされてのことだった。そこまで思っていただけることはそうあることでもなく、テレビ電話での授業の可能性を探ってみたいということもあり引き受けた。結局、その可能性に関しては、関係性ができた上でなければ(彼女のようにある程度の期間、直に接した生徒でなければ)、私がイメージする「志高塾らしい」授業はできないと考え、一旦諦めることにした。ちなみに、その期間は小学5年生の4月から中学2年生の3月までの4年間であった。中学生になるタイミングで帰国するとのことであったため元は2年間の予定であった。中学3年生の1年間は、日本での高校受験に向けて予備校の授業が忙しくなるとのことだったので、そのタイミングで終了となった。
先週、その彼女がお母様と合格の報告に来てくれた。彼女の受けた高校は、親子面接があり、お母様は、面接官と堂々とやり取りしているお子様の姿を見て感心したとのことだった。本人には受験前に「俺の顔に泥を塗るなよ」と伝えておいた。意見作文の添削では、相当ダメ出しをして何度も考え直させたからだ。たとえば、児童会に立候補する際の演説の原稿をチェックしたときは、「自分が逆の立場で、そんなこと宣言されて嬉しいか?この人に投票しようと思うか?」などと突っ込んだ。なお、その面接の内容が、直前に私がお母様に送ったメールにそれなりに近かったこともあり、そのメールをここで紹介する。差し障りのないように高校名を伏せたり誤字脱字を修正したりした以外は手を加えていない。なお、最初の段落では、中3になるタイミングで、予備校の授業が週5、6日になると聞き、あれもこれもと取るのではなく、最小限に留めて、それによって空いた時間を自習などで有効に活用した方がいいと伝えたことに関するものである。文章がおかしなところで終わっているが、それは最後の関係のない部分を削ったためである。
あのときも話したかもしれませんが、勝負どころだからこそ
自主性が大事です。受験のときはとことん受身の勉強をして、
入学後余裕ができてからは能動的にしようというのは完全な誤りです。
重要な時期に、必要以上に人の手を借りずに自分でやりきった、
というのが自信につながります。
どの程度かは分かりませんが、そのように方向転換したと聞き
嬉しく感じています。
面接に重きが置かれている、ということですが、正にそこでこそ
志高塾で学んだことが生きるはずですし、生かしてほしいです。
私は社会人になってから役立つ力を育みたい、ということを
念頭に置きながら、指導をしています。
その入口は入社試験です。面接やグループディスカッションなどで
違いを生み出せるはずです。大抵の人は、それに向けて直前の対策を
行いますが、蓄積してきた人には絶対にかないません。
普通の人が見れば同じに見えるかもしれませんが、見る人が見れば
決定的な違いがあるものです。
私が採用試験で面接する際、いくつか質問をしますが、最初の質問に
大した意味はありません。
「(学生に対して)将来の目標は何ですか?」
「どのような本を読んできましたか?」
「(学生に対して)どのような基準で今の大学、学部を選びましたか?」
「あなたを雇うことで志高塾にはどのようなメリットがありますか?」
という一般的なことであったり、履歴書の志望動機などに
書かれていることについて尋ねます。
大事なのはそこからです。最初の予想される質問に対する答えは用意しているものの、
その答えに対してさらに掘り下げようとすると、そこでボロが出る人は少なくありません。
今通っている塾などでも面接の対策をしてもらえるでしょうが、
おそらく想定問答みたいなものを用意して終わりです。
面接で大事なのは、正直に答えることです。
今親子で時間をかけてやり取りしていることが生きるはずです。
そもそも、中学3年生が大したことを考えているとは相手も
思っていないので、必要以上にかしこまる必要はありません。
昨年の4月に高卒で就職した生徒がいます。
のんびりとした校風を気に入り、ある私立中学校に入学したものの、
そのタイミングで校長が代わり、急に進学に力を入れ始めました。
それについて行けずに、成績表は真っ赤かだったとのことです。
中学校を卒業する時点でも学校変更を考えたらしいのですが、
結局そのまま上がりました。結果、高1の終わりに別の高校の試験を
受けなおすことに決めました。
お母様が若い頃、職人をしていたこともあり、
「この子には手に職をつけさせた方がいい」と判断してのことでした。
高校受験に向けて、中学入試以来4年ぶりぐらいに志高塾に帰ってきました。
元々優しそうなタイプではあったのですが、そのときは弱そうに見えました。
無事に合格し、その後は周りがそこまで勉強が得意でないということもあり、
学年でも3番以内に入り自信を得て、顔色も変わりました。
その入社面接に向けての準備をしていた際、高1を2回したことを
ネガティブに捉えて言い訳をする方向で準備をしていました。
学校の先生とのやり取りでそのようになっていたのです。
それを聞き「そうじゃない。それは強みなんだ」と伝えて、
180度変更させました。
普通であればそのまま高校卒業をすることを選ぶもので、高1を
2回してまでそのような選択をしたことは意志の強さの現れであり、
若い頃に苦労していることも価値があるのだ、ということを話しました。
もちろん、それが功を奏したかは分かりませんが、
マイナスに働かなかったことは事実です。
2018.02.13Vol.338 計算、機械的→感覚的
前回書いた通り、2月1日から長男に計算を教えている。これまで本格的に人に計算を教えたことはなかった。2, 3日前にその事実に気づき、自分でも少々驚いた。もちろん、数学や算数を教えている中で、それについて触れることはあっても、筆算の仕方などに特化したことはなかったということである。逆に、ちゃんと教えられた経験もほとんどない。「ちゃんと」というのは理屈に沿ってということである。機械的に「こうすれば答えは出る」というのを習っていただけなのだ。
私が一番苦労したのは、小数の掛け算である。くもんに通っていたので、確か3年生のときに初めてそれをしたのだが、からっきし意味が分からなかった。たとえば、0.6×0.07とあれば、まず6×7=42をして、その後、0.6と0.07は小数点より右にそれぞれ数字が1つと2つあるので、合わせた3つ分を42から小数点を左に移動させて、0.042とすればいいと教わった気がする。きっと教わったのではなく、例題のようなものを見て、自力でどうにかしなければならなかったのだ。今思えば、1回でなぜそれができなかったのかも不思議なのだが、とにかくできなかったのだ。一向に進まず騒いでいたせいで(できているときでもふざけてよく怒られていたが)、先生達がいるテーブルに移動するように命じられ、目の前にいすに座らされた。座る場所が変わったからといって理解が深まるわけではないので、途方に暮れた私は、先生が他の生徒に気を取られているうちに、目の前に置かれていた解答をサッと取って、膝の上に置きながら丸写しをした。結局ばれて怒られた。小数点の移動は上のようにやればいいのだが、なぜそのようにするのかを理解しておかなければならない。右に1つずらすというは10倍するということである。右に3つずらすというのは1000倍するということである。1000倍した分を元に戻すために最後に1000で割る必要があるので左に3つずらすというのが理屈である。教える者は理屈を理解していなければならないのだが、必ずしもそれを最初の時点で教える必要はない。教えられた方が混乱する場合があるからだ。そのタイミングが難しい。
タイトルにある「機械的→感覚的」は何も計算に限ったことではない。スポーツなどでもそうだ。初めは教えられた通りに機械的にする。それを繰り返しているうちになぜそうするのかが分かっていき、ある時点で感覚的にそれができるようになっていく。コツを掴む、というのは、要はそういうことなのであろう。教える側としては、「機械的」と「感覚的」を結ぶ矢印のところにどのように関与するかというのがポイントである。理想は独自の力でその移行を成し遂げられることであるが、そううまく行くわけではないので、少なからず人工的に働きかけていくことになる。その働きかけの度が過ぎると、教えられた側は「コツを掴んだ」という実感が得られず、その後もまた人工的な関与を待つことになる。
冒頭で、「計算を教えたことはなかった」と述べたが、それに気づいたのは息子の計算を見ながら「さて、どうしたものか」と考えている自分がいることに気づいたから。今は、3桁÷2桁をしている。すると、その途中2桁×1桁が出てくる。たとえば、23×8。私であれば瞬間的に184となるのだが、息子は随分と時間がかかる。そこで、九九の続きとして、19の段まで覚えさせることにした。それぞれの段、×1から×9までということである。それが、このことに関して、私が考えた人工的過ぎない関与である。我が子を実験台として、何か新しい発見があり、それを何かしらの形で志高塾の生徒たちに還元できるといいのだが。
2018.02.06Vol.337 我が子の教育、大方針転換
事実を言葉にしたらこうなったのだが、大仰なタイトルになった。結論から言うと、小3の長男に私が毎朝計算を教えるようになっただけのことに過ぎない。しかし、それは紛れもなく「大方針転換」なのだ。「教育」というのは本来何も「勉強」だけではないし、むしろ机に向かっての「勉強」以外の部分こそ大事だと思い子育てを進めてきたのだが、タイトルとして分かりやすいのは「教育」であろうと考えてそのようにした。
今回、私が日頃親御様に口にしていることをいくつが挙げるが、次の文のように、(「・・・」。)、とする。「他人に対して思うことを自分のことに当てはめればうまく行きます」。たとえば、「あのお母さんは子供に対して、なんでもっと~してあげないんだろう」というのがある。それは自分の本心であり、かつ客観的な視点から出たものである。よって、自分の子供が似たような状況になれば、それをそのまま実践するのが最も効果が出やすい。私の場合、職業柄いろいろな提案をするので、そういう意味では様々な引き出しを持っていることになる。しかし、話はそれほど単純ではない。
1年生から始めたZ会の通信教育。3年生になると、これまでの基礎コースと新たに設けられた中学受験コースに分かれるので後者を選択した。中学受験をさせる気はまったくない。親御様がよく口にされるように「私が言ったのではなく、あの子自ら」というのに近かった。しかし、子供は親が何を望んでいるかを推し量った上で答えを出す。「難しい方にチャレンジしてみる?」というような口車に乗せられて長男は選択したのだ。合わせて英語も受講可能になったのでそれにも手を出した。月末の確認テストで、算数の点数がいつもひどかったので練習用のテキストを見てみると、解いていない問題や解答を丸写ししているものがあることが判明。もちろん、私は激怒して、過去に遡ってやり直すように伝えた。それから、1ヶ月ほど経って進捗状況を確認すると、あろうことかまた丸写ししていたのだ。見つかれば私にさらに怒られる可能性が大きいことが予想できたにも関わらず。この事実は何を意味しているのか。もう自分1人の力ではどうしようもなかったのだ。
「逆算は成り立ちませんよ」。しかし、私もそれをした。小、中学生のときにどこかの大手塾に通わせる気はない。私自身が教える気もまったくない。高校生になると本人任せになるので、大手の予備校などで勉強するのも悪くはないが。中学入学前までに自分でそれなりに勉強ができるようにさせたかったのだ。しかし、その計算は大きく狂った。「進学塾でついて行けるのはせいぜい2割ぐらいなんで、そうでないからと言って何も気にすることはありません」。子供がついて行けないことに悩んでいる親御様に対しての言葉である。Z会の場合はそれがどの程度なのか分からないが似たようなものだろう。2割であれば入れるだろうという淡い期待にさようならを告げ、そこに息子が入れなかったことを真摯に受け入れた。「(塾の夏期講習などで)あれやこれやと講座をとっても意味はないです」。これらのことを踏まえて、英語と国語をまず削ることにした。会話をしていても国語ができることは間違いがなく、かつ豊中校に通わせていることもあるのでわざわざ取る必要はない。算数だけは、受験コースから基礎コースに変更する手続きを取っていたのだが、2度目の丸写しが発覚した時点でそれもやめた。つまり、理科と社会だけになったのだ。この2教科を単なる暗記教科として勉強させるのはつまらない。社会、特に歴史で言えば、城巡りをし、NHK大河を見、歴史に関する本も読んでいる。それゆえ、十分に広げることはできている。その上で暗記をすれば、ばらばらになっているものが体系化でき、どこかの城を訪れてもさらに面白みを感じることができる。ちなみに、歴史は地理と切っても切り離せないので、歴史に関することにとどまらない。
ここまで述べてきたことは、単なる方針転換であり、そこに”大”はつかない。何よりもの変化は私が教えることになったことだ。これまで妻から「サッカーを教えてやって欲しい」、「走り方を教えてやって欲しい」とお願いされて、何回か教えはした。私がそれを継続的に行わないのは、本人がその気になっていないのにやってもしょうがいないから。教えれば、7, 8合目までは効率良く登れる。でも、それによって山頂まで登ろうという意欲をそいでしまう気がしてならないのだ。もちろん、山頂に辿りついて終わりではなく、今度は別のもっと高い山に登ろうとならなければならない。
長男が幼い頃に数に対する感覚は悪くないと感じていた。でも、計算は速くない。まったくもって鍛えていないので、さもありなん、という感じである。そこで、確か私自身は2年生の春頃から通い始めた『くもん』に行かせようと考えた。結局その案を取り下げたのは、わざわざ週2回も行かせるのがばかばかしかったのと、毎日コツコツ宿題するのもできそうにないと判断したから。『くもん』に価値がないと言いたいのではなく、友達との遊びの時間を削ってまですることではないということである。1週間ぐらい考えて、結局自分で教える道を選んだのだが「毎日コツコツは難しいです」と親御様に言うこともあり、日曜日の午前にまとめてやろう、というのが最初のアイデア。でも、私が息子の立場なら、土曜の晩に「ああ、明日朝起きたらたくさん計算させられる」と憂鬱になるだろうと考え、毎日10分ほど朝ご飯の前にやることに。2月1日から始めたばかりなのでまだ何とも言えないが、意外と楽しくやれている。大方針転換は意外と良かったかもしれない。
日頃、親御様に分かったような口を利いている。分かったような気になっているだけで、実際に分かっているかどうかは定かではない。ただ、分かったような気になって発言したことは、今回のことのように我が子に当てはまることであれば実行に移している。その最低限の責任感を持った上で発言させていただいていることだけはご理解いただきたい。