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2018.01.30Vol.336 勝負事

 3か月ほど前、私の中学生の同級生が子供を連れて体験授業に来てくれた。事前に知らされていなかったため、教室で対面してあらびっくり。入塾に至ったのだが、中学時代を知っているのによく大事な子供を預けようと思ったな、というのが率直な感想。その後、恐ろしいことに、内部生の親御様2人と知り合いということが判明。当然「余計なこと言うなよ」と口止めしておいた。その彼女が、年に1, 2回地元で女子会をしていると聞き、次回は声掛けてとお願いしておいたこともあり、一昨日ランチ会に参加してきた。最初は、お互いの近況報告などをしていたのだが、途中から夫への愚痴、嫁姑問題に話題が移行した。雲行きが怪しくなっていき、なぜだか私が男代表として批判の的に。抵抗を試みて「俺、週に2, 3回は1人でスーパーに買い物に行くで」とアピールしたのだが、それすらも「どうせ余計なもん買ってくるんやろ」と否定される始末。確かに、お願いされたもの以外に買っていくが(正確には、お願いされて行くのではなく、スーパーに寄るけど何かいる?と聞くことがほとんどである)、それを妻がいつの間にか食べたり飲んだりするので気づいたときには無くなっていたりする。また、こういうときに、必ずと言っていいほど出てくるのが洗い物の問題。やってくれるのはいいが、水が飛び散って困るというもの。女性側の意見は、飛び散らないように上手にやってくれということなのだが、過去に何度となくその手の話を聞いてきた経験から判断するとそれは実現不可能なのではないだろうか。要は「洗い物を頼まない」か「水が飛び散ることを前提に洗い物を頼む」かの二択なのだ。私はというと、以前に一度そのことを指摘されたので、少し意識するようになり、ひどいときに限っては周りを拭くようになった。それを言うと「自分でやってると思ってるだけでどうせできてへんねんで」などと反撃をくらいそうなので黙っておいた。私も大人になったものである。しかし、最後の方で「あんた、昔と言うこと全然変わらへんな」という評価を下された。私の成長ぶりに驚き、皆、腰を抜かしてへろへろになって帰りは歩けへんのちゃうかと心配していたのだが。しかし、それにはまだ続きが。会計の際、会にお邪魔させてもらったことと、たくさん食べたこともあり、女性陣の端数の分は俺が払うわ、と告げると「あんた成長したなぁ」となった。40歳にもなって数百円で評価されるって何なのだろうか。
 随分と遅くなったが、中学受験の結果をひとまずアップした。「ひとまず」というのは今週の土曜日に芦屋国際の試験が控えているため。昔から負けず嫌いの性格は変わらない。たとえば、年中の三男に「パパきょうそうしようよ」と言われたときも、最後には必ず抜き去って「いぇーい」と喜んでいる自分がいる。きっと一度も子供に負けたことがない気がする。要は、わざとでも負けるのが嫌なのだ。ボードゲームをしたときだったと思うが、長男が、私があまりに勝負に徹するので泣いたことがあった。負けたことに対してではなく、勝ったことを私が必要以上に誇るのが嫌だ、というのがその理由であった気がする。そのときも、負けたからしょうがないわな、と追い打ちをかける声掛けをしたような。受験で言えば、第1志望に合格したから勝ち、そうでなかったから負けということではない。合格に導けなかったのに「勝った」と思うことはないが。親御様の期待に応えたい、生徒達の希望を叶えたい。そこにはいろんな感情が混じっている。自分でもそこのところは明確に認識できているわけではないが、きっと「私に任せてください」と約束したことができないのがたまらなく嫌なのだ。特に受験直前などはそこに最大限のエネルギーを注ぐのだが、受験生は全体の15%程度に過ぎない。それを言い訳にして、残りの生徒が疎かになるのも嫌。志高塾は受験専門塾ではない。でも、受験があるからこそ「あっちはちゃんとできているか」、「こっちも大丈夫か」と神経が鋭敏になる。打つべき手を打って、受験である程度思い通りの結果が出る。そのとき、おそらく勝ったというよりは負けなかったという安堵感を得ている気がする。それこそ、こういう考え方というのは既に中学生ぐらいのときには持っていた気がする。ということは、成長していないのではなく早熟だったということではないだろう。こういう厚かましさが、「変わってへんなぁ」と言われてしまう所以なのだろうが。

2018.01.23Vol.335 ああいう風になりたいんだけど

 一生懸命自分を大きく見せようと肩に思い切り力を入れて、でも、そう思われるのは嫌で必死に自然体ですよ、というのを装っている自分がどこかにいる。昔に比べてその傾向は少しぐらい和らいではいるのだろうが。少し大人になかったからなのか、現実を突きつけられてそれなりの器に収まることを受け入れたからなのか、よく分かっていない。気張っている自分も自分らしいとどこかでそのことを評価している自分もいる。男心もそれなりに複雑だ。伊集院静の本を読むと、格の違いをまざまざと見せつけられ、ある種気持ちがいい。
 数年前に、内田樹の本をある期間でまとめて10冊以上読んだ。今回『日本の覚醒のために』という書籍を手に取った。久々であったからなのであろう、初めはあまりしっくりと来なかったのだが、100ページぐらい読むとのめりこんでいった。まだ読んではいないのだが、その中で紹介されていた伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』を購入した。私は2, 3冊の本を並行して読むのだが、現在読みかけのものに糸井重里の『インターネット的』がある。これも内田樹の本の中で取り上げられていたから買ったような気がしていたが、そうでない気もしてきた。きっかけはどうであれ、「なるほど」となることばかりが書かれている。昔、テレビに出ていた頃のイメージは良くなかったのだが、思い返してみると、彼が巨人ファンだから、というのがその唯一の原因であることに気づいた。伊集院静同様、かっこいいのだ。1冊の本の中で、あまりにも「ふむふむ」となることが多いので、今回の文章はその中から抜粋したものを列挙するだけで終わってもいいか、と考えていたが、ここまで少しだけ文章を書いてみた。前置きが長くなったが、紹介させていただく。

 もうひとつ、大事にしたい原則は、”わからないことは言うな”ということです。
 わからないんだけれど、言うと偉そうなこと、わからないなりに言ったら正しそうなこと、という発言は、ついやりたくなるわけです。もう、無意識でしたと言い訳したいくらいにスラスラと出てしまう。それは、とてもイケナイことだと思っているのですが、ときどきチェックしないとやらかしてしまいます。「こういうむだ遣いのつけは、必ず国民に回ってくるわけですから、しっかり監視していきたいですね」とか、ほんとかいってなことを、平気でいうもんなぁ、みんな。
(中略)
 いくらでも書けるし、まったく内容がない。このあたりの方向も困るわけです。そのへんのバランスが難しい。こういう、うまいのうまくないのの前の段階で、『ほぼ日』なりのスタイルを共有できるようになるまでには、その教育的なコストは、ものすごくかかります。マニュアル化して、その小冊子を渡しても、それでできるというものではないし。労を惜しまずに話し合っていくことしか方法はなさそうです。

 これまでにも本からの引用は行ってきたが、大抵は1冊に2, 3箇所そういうのがあればいい方で、少ないからわざわざ書き出す必要もなく頭にページ数を留めておけばそれで済んだ。この本はあちこちにそういうものが転がっている。上で、私は一部分だけを抜いてきたが、目をつぶってランダムに5ページぐらい開いたら、少なくとも1つはそのまま使えるだろう。
 その中で、なぜここを選んだのか。(中略)以前が、意見作文をする際に、生徒たちに伝えていることだからである。志高塾の場合は「わからないことは言うな」ではなく「やらないことは言うな」である。「これからは~をしてみようと思う」と作文で書いたら、それを実践しなければ意味がない。何の意味がないかと言うと、作文をする意味がないのである。とにかく、実生活に生きてこそ作文なのだ。どうでもいいことを書いて、コンクールで賞をもらったところで、それはその後に生きないのだから。
 そして(中略)以後は、月間報告と関係しているから。そこで糸井重里は社員教育に関することを述べている。「教育的なコスト」というのは金銭的なものだけではなく時間的なものも含まれている。マニュアルがあれば、ある程度均一なものを提供できる。でも、逆に言うと、その手段を選んだ瞬間ある程度以上になる可能性は消える。だから、時間をかけて、各人が持っている良さが出るようにしなければならないのだ。
 伊集院静や糸井重里を見ていると、圧倒的な差を感じさせられる。しかし希望をまだ捨てていない。実は、彼らも今の私の年齢の頃にはそこまでにはなっておらず、その後に急激に成長したのではなかろうか、と思い込むことにした。
生徒のみんな、俺はこれから成長するはずだから、もう少し待っていてくれ!
それがいつかは約束できないけど。

2018.01.16Vol.334 受験はスーっと

私「残り40日は死ぬほど勉強やー」
生徒「はーい」
私「志高塾から2年連続東大合格!って言わせてや。よろしく頼むで。」
生徒「任してください」
私「任すっ!」

このブログにも何度か登場した高3の女の子とのライン。センター試験の結果を報告してくれた際のものである。中1の終わりから高3の11月まで通ってくれた。最後の授業の時は「寂しいなぁ」というようなことを口にしながら帰って行った。丸5年以上、私がすべて教えた。教えたというよりは、いろいろな話をしたという方が適切な気もする。彼女は玄関の生花を見ていつも「先生、ほんとセンスないですね」と言いながら帰っていた。たまに「先生今回のは珍しくいいです」と評価されると、翌週花を買うときにも同じものを買い、差し替えるようにしたものである。その行動に心の小ささがにじみ出ているではないか。去年の理Ⅲの生徒もそうであったが、彼らは本人たちの力で勝手に合格する。それゆえ「東大に合格させました」とは言えないから「東大に合格しました」という表現になる。今年、大学受験に臨む生徒は3人いるが、皆センター試験ではそれなりの結果を出し、そのまま志望校に願書を出せるとのこと。頑張れ!この掛け声はまずいか。上の生徒以外の2人は2次試験まで授業があるので、責任を持ってちゃんと導いてあげないといけない。
 本当は、今日まで朝から授業のはずであったが、明日試験予定であった生徒が無事に第1志望の学校に合格したので不要になった。まだ報告をもらっていない生徒がいるため気がかりではあるが、私立の中学受験に向けてやることはなくなった。次は、芦屋国際を受験する生徒のために最後の仕上げを行う。今年の6年生は、その後も続けてくれる生徒が多い。大抵は受験が終わり落ち着いてから「どうしましょうか?」と先の話をするのだが、六甲に合格した生徒は12月の時点でお母様から継続の話をいただいた(なお、もう1人の六甲に合格した生徒のお母様には随分前に大学受験まで、とおっしゃっていただいている)。その際に「別に中学受験のために行かせているわけではないので」という言葉をいただいた。嬉しい限りである。ちなみに、彼は大手塾に通っていたのだが、冬休みに入ってからはそちらにまったく行かずに受験日を迎えた。私がそのように提案したのだ。算数が得意で(六甲レベルであればほぼ満点を取れる)、国語と理科の暗記分野を強化する必要があった。算数に関しては、「毎日1回分のテストを用意して渡します。どうしても分からないところがあれば教えます」と伝えた。それであればテスト直しの時間も含めて、90分程度で終わる。しかし、進学塾に行けばかなりの時間を算数に取られることになってしまうのだ。ちなみに、簡単な問題ばかりでは頭の動きが鈍るので、東大寺の過去問と六甲のそれとを1日おきに解かせた。当たり前だが、そんなことでお金をいただくことはない。
 どんな手を使ってもいいから、少しでも偏差値の高い学校にねじこんでくれ、と望む親には志高塾というのは物足りないこと間違いなしである。まあ、そんなことをすれば合格する確率は下がり、中学入学後も伸びない子になってしまうのだが。マラソン中継のゴールシーンでは全身が映り、ランナーはゴールテープを切るときには手を上げる。もし、もしである。ランナーの顔しか映さない中継(スタンドなどの背景もなしである)があったとする。理想的な受験というのは、顔をみているだけではいつゴールテープを切ったのかも分からないようなものではないだろうか。もちろん、これは極端な表現である。受験直前、進学塾の先生はどれぐらい勉強させるかに重きを置く。私は、どれぐらいいい表情をしているかを気にする。
 今年は受験生も多く、いろいろな学校に合格したので3年ぶりに場を設けて、親御様にお願いして、これから受験を迎える親御様のためにお話をしていただこうかな。

2018.01.09Vol.333 作文は難しい

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 元日の朝、7時に起き、気合を入れて内部向けの『志高く』を書き上げようとするものの、遅々として進まず「きっと、生徒たちが教室に来て意見作文に取り組むというのは、こういうことなんだろうなあ。」としみじみと感じていた。このHP上のブログであれば、1週間の中で自分が気になったことを1つ取り上げてまとめれば済む。さすがにそれだけの期間があれば、日常生活の中で1つや2つは少しぐらい掘り下げて考えようとすることが出てくる。つまり、時間的にも題材選びにもそれなりの自由度があるのだ。しかし、「新年らしいもの」というテーマを掲げ、年明け早々に書こうなんて張り切ったりすると、一気に難易度が上がる。生徒が毎週決まった時間に来て、与えられた課題に取り組むことの大変さを疑似体験した。そして、私は決断した。内部向け同様、このブログでも苦戦は必至なので、「新年らしいもの」という縛りを取り払おうと。
 年末年始は、教室全体としては1週間休みになるのだが、毎年受験生向けには開けている。今年は、中学受験生の人数が過去最高なのだが、その割には心が落ち着いている。この時期、仕事以外では頭の働きが鈍くなるので、日頃はあまり読まない推理小説など手軽な本を手に取ることが多いのだが、年末から年始にかけて、通勤中はノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの、家では別の作家の本を並行して読み進めた。そうは言っても、やはり頭はあまり回転しないので、読むスピードの遅さに拍車がかかる。「子供は〇歳までに~」といったような親を不安にさせるような類のものは嫌いなのだが、小さい頃から読書に親しんでいると、断然読むスピードは速くなる。自然にできあがったそのような下地の上に、人工的に速読のメソッドを入れるのは理解できるが、本を読もうとしない子供に、中学受験に向けて速読をさせるのはまったく持って感心できない。大人になって、仕事上どうしても資料をたくさん読まないといけない人が身につければいいものであって、ほとんどの人にとっては必要がない。特に小説を速読するというのは、おいしい料理を噛まずに飲み込むようなものである。別のたとえをすると、名所だけを駆け足で巡る観光のようなもので、実に味気がない。私はじっくり読むというよりは、そこに書かれていることを起点にして、内容とは全然関係のないことを考え始めることが少なくない。そのようなとき目では字を追いながら、頭では違うことを考えているので何ページか読み直しになる。私にとっては、考えを巡らすきっかけを作ってくれる本ほど価値がある。ちなみに、カズオ・イシグロの本は1年前ぐらいに購入し、一度読み始めたものの断念してしまった。それを再度手に取ったのであって、流行りに乗ったのではないことを念の為に断っておく。どうでもいいか。
 話は変わるが、子供の冬休みの期間を利用して、録りためてあった司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』のドラマを長男と見た。1回約2時間で13回もあるので、中々大変である。NHKの大河ドラマがない時期に一気に見ようとしたのだが、結局まだ3回しか見れていない。『坂の上の雲』は、松山で生まれ育った秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟と正岡子規の3人が主人公である。兄の好古は日清戦争において陸軍で、弟の真之は日露戦争において海軍で大活躍をする。4分の1も見終わっていないのに言うのも何だが、このドラマはかなり面白いのでお勧めである。
 「新年らしいもの」という縛りを無くしたら、文章が糸の切れた凧のようになってしまった。しかし、最後はビシッと締める。人の力を借りて。好古が真之に次のように語った。「人間生まれてきたからには一事を成せ」。その言葉を聞いた瞬間から「俺も、頑張ろう」という気になった。受験が終わったら、2018年の個人的な目標でも立ててみる。気持ち新たに日記などを1月1日から始める人はそれなりにいるだろう。でも、2月ぐらいからでも悪くない。「思い立ったが元日」という言葉があったような無かったような。

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