
2017.12.26Vol.332 目線と視点
冬休みに入り授業に追われていることを想定し、今回は高2の男の子の作文をそのまま引用する予定だったのだが、中学受験後の一息ついているときに回すことに。
先週の土曜日、予定通り人前で話してきた。112人も参加してくださった。50分程度プレゼンをして、質疑応答を含めると約60分。うまくいったこともあればそうでないこともあった。そうでないことの代表格は、情報を絞り切れていなかったこと。日頃、「優先順位というのは、10個ある事柄に1番から10番までを付けるのではなく、何をしないかを決めることだ。」と人に偉そうに言っている割には、後から振り返るとそれができていなかった。その作業は行っていたのだが不十分であった。30%削って、それを他の話をより分厚くする時間として使うべきであった。その他には、縦長の会議場であったため一番後方の人に届けるように、視線をそこにもっと向けた方が良かった。人前で話すときに原稿を用意することはなく視線を振ることを意識しているのだが、久しぶりにパワーポイントを使ってのものだったので、スクリーンを指差すことや手元のパソコンを動かすことに必要以上に注意が行っていた。2, 30分経ったところで気づいて修正はしたのだが。次回同じような機会があれば、もう少し内容を充実させられるかな。何はともあれ、新しいことをすると課題が見つかって楽しい。
プレゼンの資料を準備している最中は、いつも以上に子育てについて考えたので発見があった。たとえば「目線と視点」。「子供の目線に合わして」と言われるのだが、前々からそれは違うというのはあった。ただ、それ以上深く考えたことはなかった。それは、「友達のような親子関係」というのに違和感を覚えるのと似ている。親子で一緒に考えながら前に進む、というのは、聞こえはいいが責任逃れの方便のような気がする。親が、大人が、子供の目線に合わせる必要なんてない。そこには明確な上下関係がある。それは責任の重さの上下でもある。そして気づいたのは、大事なのは子供の視点を持つということ。こういうちょっとした違いに気づくと妙にスッキリする。以前にも書いたかもしれないが、私の息子が通う学校では門を通過するときに親にメールが飛ぶシステムが入っている。長男が入学したとき、私はそれに反対していたのだが、細かい数字は忘れたがほとんどの人が加入していると妻から言われて、しょうがなく長男も利用することに。今年二男が入学したタイミングで、もう長男はいいでしょ、ということで対象から外した。それは子供の視点からの判断。「私の子供の頃の視点」と言ったほうが伝わりやすい。学校の帰りに寄り道しても昔はばれる可能性は低かったから、いつもより遅く帰ってもいくらでも嘘をつけた。嘘をつかないといけないようなことをしていたわけではなかったが、正直に言いたくもなかったのだろう。そう言えば、長男が一人で留守番をしているときに、妻が家に帰ると慌てて部屋に入っていったらしい。こそこそテレビを見ていたのだ。制限時間を設けているわけではなく、結構テレビを見ているのだが、本人としては何か気まずかったのだろう。それを聞いて「テレビを見ていたのは全然問題ないけど、こそこそしていたのがよくない。見るなら堂々としていなさい」と注意した。後日、同じような状況で私が帰宅したときがあった。テレビを見ていたので、「そうやって堂々としときなよ」とだけ話した気がする。こういうのはきちんとセットにしないといけない。「怒らないから正直に言いなさい」と言っておきながら、正直に言ったことに怒っていたら、どんどんしょうもない嘘をつくことになる。言葉が響かないのには理由がある。その理由を取り除けば響くようになる。そして、響いて価値のあるような言葉を伝える義務が親にはある。自分ができなかったから子供もできなくてもいいとはならない。だが、自分が嫌だったからきっと子供も嫌だろう、というところからスタートすることは子供の器を大きくする上で欠かせないステップだと私は考えている。
今年も一年間ありがとうございました。来年は、「わざわざ読んで良かった」と今年以上に感じていただけるような文章を提供できるよう私自身成長してまいります。良いお年をお迎えください。なお、来年1回目の投稿は1月9日になります。
2017.12.19Vol.331 思い通りにはいかないけれど
思い通りにいくこともあるが、残念ながらそうならないこともある。後者の場合も「短期的には」ということで「長期的には」どうにかしようと対策をしては実践していく。「思い通り」のスタートラインはどこか。それは、もちろん「思い」があることである。そして、それは「思いを込めた思い」でなければならない。
先週の水曜日、6年生の男の子が願書とともに提出する志望動機をチェックして欲しいと持ってきた。その内容を要約すると「海外で3年間生活した。そのときに文化の違いを肌で感じた。だから、中学校ではそのようなことを学びたい」となる。英語に力を入れている学校を受験するのだ。
「いつ海外にいたん?」
「幼稚園のころです」
「書き直し」
どこの幼稚園児が文化の違いを感じるのか。白色人種の中に黄色人種が1人だけであったためにいじめにあった、であれば分かる。そのような経験があったわけではない。また、いじめにあったから文化を学びたい、とは通常ならない。いずれにしてもおかしいのだ。「誰も小学6年生がすごいことを考えてるなんて思ってないんだから、背伸びせずに素直に書きなさい」と伝えた。
その2日後の金曜日、別の男の子の文章をチェックした。それは、前日に「先生、一度確認してもらえませんか」とお願いされてのことだった。その子が受ける学校を専門にしている塾があり、2ヶ月ほど前からそこにも通い始めた。余談だが、専門にしているのが最難関校であれ、ある学校だけをターゲットにするのは好ましくない。価値観が固定化されるからだ。話を戻す。依頼のきっかけは、子供自身がそこでの国語の授業を「意味がない」と言っていたから。子供の「意味がない」ほど意味がないものはない。大抵の場合、子供はそれを判断するに十分な材料など持ち合わせていない。さて、その肝心の作文のテーマは「国際交流のために、英語などの外国語を習得すべきか否か。立場を明らかにした上で意見を述べなさい」というものであった。それは次のように締められていた。「ぼくは、英語の勉強をして全体損しないといいきれる。なぜならもしいきなり、日本で外国人に道を聞かれたらすぐ答えれて気持ちいいからだ。」これに対して「よく書けた」という言葉とともに、まったく修正が入らず丸をもらえていた。誤字脱字で言えば、「全体」は「絶対」であり、「答えれて」はら抜き言葉になっているので「答えられて」としなければならない。我々も見落とすことがあるので、人のミスを偉そうに指摘するのはどうかとは思うが、これが入試に向けた対策であることを考慮すると、やはり慎重さに欠けるし、そもそも「ら抜き言葉」、「い抜き言葉」というのを知らないのではないだろうか。それ以上に問題なのは結論である。これであれば、道を聞かれたときに答えるために英語を勉強するということになってしまう。彼は小さい頃から英語を学んでいるのに、それではあまりにも貧相ではないか。私が、その作文を見て簡単にアドバイスをしたのは、海外旅行に行ったときの具体的な経験、意思疎通ができて嬉しかったこと、逆にまだ自分の力が不十分で悔しかったことなどを説明する必要がある、ということ。
彼が「意味がない」と感じていたのは、「こんなので丸をもらえるような勉強は意味がない」ということだったのだ。もしかすると、読んでいてある疑問が浮かんでいるかもしれない。「志高塾で作文を勉強してきたのではないのか?」という。そう、彼は約2年間学んでいる。ただ、それは、基本的に要約作文と読解問題である。要約作文の書き方を身に付けただけで、意見作文が上手に書けるようになる子供もいれば、その2つが結びつくように指導してあげないといけない子供もいる。後者の方が明らかに多い。意見作文は基本的に中学生になってからする場合が多い。理由は2つ。1つ目は、意見を述べるに十分な下地がないから。2つ目は、中学受験の対策として読解問題に割く時間が多くなるから。でも、彼のように受験でそれが必要な場合は、少し前倒ししてその対策を我々が行う。
自分たちにもできていないことはあるのに、人の揚げ足を取るような批判はするべきではない。でも、冒頭で触れたように「思い」がないのだ。そういうのを目の当たりにすると怒りがこみ上げてくる。
2017.12.12Vol.330 二人三脚
2週間か3週間前の土曜日の昼過ぎに、6年生の女の子の親御様に私からお電話をした。早く伝えたいことがあったからだ。つながらなかったので、後ほどかかけ直していただいた。
「先生、電話に出れずにすみません。」
「いえいえ。かけ直していただきありがとうございます。こういうタイミングでの電話というのは大抵ろくな内容ではないのですが」
「えつ、何ですか?また、何かしましたか?」
「実はですね、初めてほめてあげたくなりました」
「・・・・。えっ、ほんとですか」
と大体このようなやり取りであった。私の着信履歴を見て、冷や冷やしながら電話をしてきてくださったとのこと。それもそのはず、志高塾に通い始めてから1年半になるのだが、これまでは「授業中にやる気が見られなかったから途中で帰しました」、「自習のときにふざけていたので1週間教室での自習は禁止します」というようなことばっかりだったからだ。その後会話は次のように続いた。
「中々ほめない松蔭先生に褒められるなんて」
「そんなことないです。褒めますよ。ただ、彼女の場合褒めるところがなかっただけです」
私がすべての親御様に軽口を叩くわけではないが、このようにできるのは親御様の理解があってのことである。見方によっては、長期間我々は成果らしい成果を出していないとも言える。それゆえ、モンスターペアレントでなくとも「こんなに時間を掛けているのに」「こんなにお金を払っているのに」となるかもしれない。家庭でできないから他の所に任せるとなり、縁あって志高塾に通ってくれている。我々もどうにかしようと手を打ち続けるのだが、根源的なところで問題を抱えている場合が多いので、事はそれほど単純ではない。その問題とは、「集中力がない」、「考えようとしない」などである。まだ子供とは言え、私から見て悪い癖がついている子供は少なくない。得てして、早くから勉強してきた子供にその傾向は強い。勉強してきていない子供は、プラスでも、マイナスでもなくゼロである。ゼロというよりかは、真っ白に近い。そのような子供の状態に対して、親御様が「これまで何もやらせてきていないのでご迷惑をおかけしますが」などとおっしゃられることはあるのでが、我々からしたら非常にやりやすい場合が多い。
塾が言う「親」、「子供」、「塾」の三位一体で受験を乗り切りましょう、というのは好きではない。どちらかと言えば、気持ち悪い。まあ、考え方としては分かる。きっと、しっくりこないのは、実際にはそのようなことはできていないのにお題目として掲げているだけであったり受験のことだけを考えすぎたりしていることに違和感を覚えるからであろう。ただ、「親」と「塾」は共同歩調を取れなければならない。その両者は上下ではなく水平の関係であるべきだ。「子供」が抱えている問題を解決、課題を克服するために、対策を考え、実行していかなければならない。策を練るのは、親御様ではなく、我々の役割である。そして、実行する段階で、分担を決める。もし、上下の関係であれば「これはそっちでやってください」、「いや、これは我々では無理です」などと押し付け合う形になるが、水平であれば「こちらは我々に任せてください」、「では、あれに関しては家庭でお願いします」などとなる。実際に、言葉に出してやり取りするわけではなく、自ずとどうするのかは決まっていく。そして、うまく行かなければ、また考え直して実行するのみである。すぐに成果が出ることもあればそうでないこともある。いずれにしても、希望を持って前に進んでいくしかない。
話をそのお母様とのことに戻す。後日、教室に来られた際に立ち話をした。私がほめた翌日の日曜日、これまではどのような声掛けを行ってもしなかったのに、初めて自ら率先して勉強をし始めたとのこと。こういうのが真の成長なのだ。そして
「このまま行ってくれれば」
「受験まではこのまま一気に駆け上がりますが、中学に入ったらまた元のように戻りますよ」
「えっ、そうなんですか?」
「そんなに甘くないです。もし、そうなのであれば私はこんなに苦労(ありがたいことに私の手を焼かせてくれる生徒が少なくない)しなくてすみます。ただ、これまでは『やってもできない』と思っていたのが(実際は、やっていなかっただけなのだが)、『やればできる』となったことはとても大きなことです。でも、なぜか『やればできる』を『やらなくてできる』と勘違いしちゃうんですよね~」
ちゃんちゃん
2017.12.05Vol.329 私の考えが詰まった文章
以前にもここで簡単に触れたが、来週の土曜日にコミュニケーション力のない私がコミュニケーションについて話すという冗談のような場が与えられたので、毎日思いついたことを少しずつまとめながらプレゼンの資料を作っている。過去に作成したものなど使えそうなものを探していたら偶然ある文章を発見した。それは、大阪大学の大学院生が対象の「超域イノベーション教育プログラム」に応募する学生のために5年ほど前に私が書いた推薦文である。なお、そのプログラムの概要は、大阪大学のHP上で次のように説明されている。
本プログラムは、すべての専門分野に学ぶ大学院生を対象とした教育プログラムです。
本プログラムを履修する大学院生(以下、履修生)は、在籍する研究科での高度な専門教育に加えて、本プログラムの特徴である文理統合・学生参加型の授業科目を履修します。
独自のコースワークでは、課題設定・解決能力を総合的に修得するためのプロジェクト学習、さまざまな知識やスキルを学ぶためのモジュール方式を中心とした授業や、海外でのフィールドスタディを含む実践活動等により、高度な教養に基づく知識と汎用性の高い技能を修得していきます。それらの相互作用と統合を通じて、未知で複雑で困難な課題の解決を先導するための超域力、すなわち、社会でイノベーションを起こすための力=高度汎用力を修得します。
要は、これまでのように専門分野の勉強だけではなく、高いレベルで学んでいる者同士が学部の垣根を越えて情報、意見を交換することで、より社会で生きるスキルを身に付けようというのが狙いである。
タイトルにもあるように、その推薦文に私の考えが結構詰まっていたので、今回はそれを紹介させていただく。文中にある「T」はもちろんイニシャルである。
私は、小学1年生から高校3年生までを対象にした、作文をカリキュラムの中心に据えた「志高塾」という国語専門塾を経営している松蔭と申します。Tを、自信を持って今回のプログラムに推薦させていただきます。
彼には、現在に至るまでの約3年間、作文を添削する講師として働いてもらっています。大学生のアルバイターの場合、週2、3回は勤務することが多いのですが、彼は学業を優先するため、基本的に週1回土曜日のみです。雇用主としては、もう少し授業を担当してほしいと思う反面、そのこと自体を喜ばしくも思っています。それは、教える技術よりも、講師の人格に、私が重きを置いているからです。将来の目標を持ち、それに向かって自身を研鑽する彼に接する子どもたちは、そこから何かを感じ取ってくれているにちがいありません。
彼の働き方について、もう少し具体的な話をします。上記のような理由により、彼には低学年よりも高学年、また中学生や高校生を任せています。定義はさておき、我々のところには優秀な生徒が多いです。その彼らが書いた意見に対して、講師は正否の判断に留まらず、もっと広範な考え方があるというところまで含みこんで指導する必要があります。それには、引き出しの多さと、そこから適切なものを選択し、分かりやすく伝えるということが不可欠です。彼は、私がどのレベルまで講師に求めているかを理解した上で、自分なりに工夫しながら指導してくれています。
物事の考え方や取り組む姿勢など、年齢を考慮すると非常に優秀であることは、すぐにお分かりいただけると思います。その彼が、すでに持っている能力を生かし、今後さらに成果を上げるために必要なものは、周りを巻き込む力であると考えています。私が考える、優秀な人間像というのは、専門分野における力とそれを兼ね備えている人材です。
彼は、私のニーズを把握し、責任を持って授業に当たっています。周りの講師たちともうまくやっています。ただ、時には、自分の立ち位置を必要以上に気にせずに、そこから飛び出して、化学反応を起こすことで、新たな道を切り開いていくことも重要です。
今回のプログラムの意図や彼自身の考えと、私自身が今後の彼に期待することはずれているかもしれません。ただ、それを少しでも意識しながら、彼が前に進んでいくことを、私は望んでいます。
「志高塾」に通っている子どもたちには、将来、自分自身が満足できる道を歩んでほしいと思いながら、作文を通して日々さまざまなメッセージを伝えています。講師の彼が、我々と関わりながら学んだことを活かし、社会で活躍する人間になってくれれば、それは一緒に仕事をしている我々にとって非常に喜ばしいことです。
ご高配いただきますよう、よろしくお願いいたします。