
2017.11.28Vol.328 現代における「文武両道」
余談から。先日、年中の三男の参観があった。ホールで行う音楽会ではなく、保育室でピアニカを弾くという普段の様子を親が見る機会であった。その数日前に「ピアニカ得意じゃないんだよなぁ」という三男に対して、1年生の二男が「いいんだよ。間違えても知らんぷりして堂々としておけば」とよく分からないアドバイスを与えていた。どういう風に振る舞うのかなぁ、と楽しみにして行ったら、案の定先生の指示したものと全然違う鍵盤を押さえていた。向かいに座っていた女の子が見かねて「ここだよ」といった感じで我が子に教えてくれていた。息子は自分が間違えているかどうかさえ分かっていなかったので、二男の助言が生きることはなかった。
「文武両道」について、確か以前に1度話題にした。おそらく3年以上前に。それがいつなのか定かではない上に、何を書いたのかさえまったく記憶にない。その四字熟語はいつ生まれたのであろうか。今から調べようと思うのだが、その前に予測から。おそらく江戸時代の武士に対して、「(戦に出る機会も減ったし)武芸だけでなく、勉強もしなさい」ということが起こりではないだろうか。検索した結果、平安、鎌倉時代に既にそのような考えがあったらしい。まったくの的はずれであった。
一般的なイメージは、文=勉強、武=スポーツとなる。来年のプロ野球のドラフト会議で指名されるだろう高校生が、中学生の頃は成績優秀で、今では時間を多く取れないが毎日30分は勉強している、というネットの記事を読んだ。プロスポーツの世界で活躍することはとても難しい上に、その期間はとても短い。その後の人生のことを考えても、スポーツだけというのは非常に危うい。勉強というのは学校で習うことだけではなく、読書などを通しての学びも含まれる。むしろ、学校以外の自主的な学びこそが重要である。その学びは、引退後ではなく現役時代にこそ差を生むはずである。まったく芽が出なかった選手はさておき、少なくとも1年間は活躍できた(プロで活躍するだけの実力を持っていることの1つの証である)選手が、2, 3年で終わるか、5年、10年と続けられるかは人間的な賢さとそれなりの相関関係を持っているはずである。もちろん、そのようなデータはどこにもないのだが。オリンピックで金メダルを取り、プロに転向後ボクシングの世界王者になった村田諒太は読書家である。藤井聡太四段は、将棋に専念するために本人は高校進学を望まず、それに対してお母様は進学して欲しいと考えている、ということが伝えられていたが、結果的に高校に進むことになった。お母様は中長期的には将棋にもプラスになると考えたのではないだろうか。将棋も広い意味で「文」に含まれると考えれば、「文文両道」ということになる。
中学受験が1ヶ月半後に迫ってきた。さすがに、この時期になるとそれだけに集中するのは分かるが、半年、1年とそのような状況でいるのはその後が心配である。算数はやりきったので力が落ちない程度に勉強しながら、頭の体操をかねて興味のある中学、高校の数学に手を出す。社会は受験科目に入っていないが、好きなので休憩時間にどこかの学校の入試問題を解いてみる。絵が好きなら絵を描いてもいい。
「文単道」、「武単道」では言葉のリズムが悪すぎる。アイスクリーム屋に行って、小さい子供がダブルアイスの組み合わせを選ぶ際、あれにしようかな、いやこれもおいしそうだ、やっぱりあっちのやつも食べたいなぁ、と迷うように、「〇〇両道」に魅力的な〇〇を選んで欲しい。そこに何を入れるかは自由である。もちろん、何かを極めることは大事だが、それは大人になってからのこと。子供のうちはバニラが好きなので、両方ともバニラで、などとならないように柔軟性を高めてほしい。