
2018.02.13Vol.338 計算、機械的→感覚的
前回書いた通り、2月1日から長男に計算を教えている。これまで本格的に人に計算を教えたことはなかった。2, 3日前にその事実に気づき、自分でも少々驚いた。もちろん、数学や算数を教えている中で、それについて触れることはあっても、筆算の仕方などに特化したことはなかったということである。逆に、ちゃんと教えられた経験もほとんどない。「ちゃんと」というのは理屈に沿ってということである。機械的に「こうすれば答えは出る」というのを習っていただけなのだ。
私が一番苦労したのは、小数の掛け算である。くもんに通っていたので、確か3年生のときに初めてそれをしたのだが、からっきし意味が分からなかった。たとえば、0.6×0.07とあれば、まず6×7=42をして、その後、0.6と0.07は小数点より右にそれぞれ数字が1つと2つあるので、合わせた3つ分を42から小数点を左に移動させて、0.042とすればいいと教わった気がする。きっと教わったのではなく、例題のようなものを見て、自力でどうにかしなければならなかったのだ。今思えば、1回でなぜそれができなかったのかも不思議なのだが、とにかくできなかったのだ。一向に進まず騒いでいたせいで(できているときでもふざけてよく怒られていたが)、先生達がいるテーブルに移動するように命じられ、目の前にいすに座らされた。座る場所が変わったからといって理解が深まるわけではないので、途方に暮れた私は、先生が他の生徒に気を取られているうちに、目の前に置かれていた解答をサッと取って、膝の上に置きながら丸写しをした。結局ばれて怒られた。小数点の移動は上のようにやればいいのだが、なぜそのようにするのかを理解しておかなければならない。右に1つずらすというは10倍するということである。右に3つずらすというのは1000倍するということである。1000倍した分を元に戻すために最後に1000で割る必要があるので左に3つずらすというのが理屈である。教える者は理屈を理解していなければならないのだが、必ずしもそれを最初の時点で教える必要はない。教えられた方が混乱する場合があるからだ。そのタイミングが難しい。
タイトルにある「機械的→感覚的」は何も計算に限ったことではない。スポーツなどでもそうだ。初めは教えられた通りに機械的にする。それを繰り返しているうちになぜそうするのかが分かっていき、ある時点で感覚的にそれができるようになっていく。コツを掴む、というのは、要はそういうことなのであろう。教える側としては、「機械的」と「感覚的」を結ぶ矢印のところにどのように関与するかというのがポイントである。理想は独自の力でその移行を成し遂げられることであるが、そううまく行くわけではないので、少なからず人工的に働きかけていくことになる。その働きかけの度が過ぎると、教えられた側は「コツを掴んだ」という実感が得られず、その後もまた人工的な関与を待つことになる。
冒頭で、「計算を教えたことはなかった」と述べたが、それに気づいたのは息子の計算を見ながら「さて、どうしたものか」と考えている自分がいることに気づいたから。今は、3桁÷2桁をしている。すると、その途中2桁×1桁が出てくる。たとえば、23×8。私であれば瞬間的に184となるのだが、息子は随分と時間がかかる。そこで、九九の続きとして、19の段まで覚えさせることにした。それぞれの段、×1から×9までということである。それが、このことに関して、私が考えた人工的過ぎない関与である。我が子を実験台として、何か新しい発見があり、それを何かしらの形で志高塾の生徒たちに還元できるといいのだが。