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2018.03.19Vol.343 競合他社

 来週1週間は教室が休みのため、それに伴いブログもお休みさせていただきます。
 
 競合他社。サラリーマン時代この言葉をよく聞いた。「コンペティター」と表現すると、少しまともなことを考えているような気がする。相手に伝わっているかどうかを考慮せずに横文字を並べ続けて話す人は、きっとすごくレベルの高いことを話している気分なのだろう。
 豊中校の宣伝のための看板作成を依頼した会社の方からお願いされ、人と会ってきた。そう言えば、以前お子様を西宮北口校に通わせてくださっていたある親御様が豊中の友人に会いに行った帰り、偶然、志高塾の看板を見かけられ「お久しぶりです。元気にやっていますか?」とお子様の近況報告を兼ねたメールをくださった。嬉しいものである。話を戻す。お会いした方は将来2代目社長になる。現在、お父様が教育とはまったく別の業種の経営をされている。しかし、この先もそのままでは難しいとのことで、他の分野への進出を考えておられる。1つの可能性として、教育も候補としてあるため、参考意見を聞きたいとのことであった。何も秘密にすることはないので、聞かれたことに対しては包み隠さずに話した。「どういうことをすればいいのでしょう?」という質問に対しては「現在雇っておられる社員に対して何かしら物足りなく感じることがあると思います。その中に子供の頃の教育でどうにかできたんじゃないかという部分があるはずです。たとえば、そこを改善できるような何かを提供すればいいのではないでしょうか」というようなことを答えた。また、「教育業界は『子供たちをどうにかしてあげたい』という思いなしには進出しない方がいいです」と付け加えた。ふむ、私、口では中々いいことを言う。
 そこに看板会社の方も同席されていたのだが、「松蔭さんのところが入ってから、空いているところの問い合わせが増えました」とお世辞を言っていただいた。1箇所目で思いの他反響が大きかったので、2匹目のドジョウを狙って、もう1箇所追加した。塾からの問い合わせに関しては、同業他社ということで断っているとのこと。ビルのテナントでもそうなのだが、暗黙の了解事項としてそのようになっているらしい。それを聞いて「うちは全然構いませんよ。どうぞ出してください」とお伝えした。何の計算もなく瞬時にそのように返答したのだが、そもそも「同業」、「競合他社」という概念が自分にない。
 「コンペティター」と関係するものでよく出てくるビジネス用語は「ベンチマーク」である。「ベンチマークする」という表現が使われるが、優秀な企業と自らの企業とを比較し、自社のビジネスプロセスを改善していくことを目的としている。競合他社がいないと考えているので、ベンチマークする塾もないのである。それは、自分たちがどこよりも優れていると考えているからではない。もし、塾業界に詳しい誰かが「あそこの塾がやっていることはすごく参考になるから」と親身になって私にアドバイスをくれたとしても、私は興味を示さないであろう。
 「ベンチマーク」について検索した記事に「異業種他社をベンチマークするほうが効果的だと言われています」とあった。これには納得が行く。ただ、私がベンチマークするのは会社ではない。人である。自分より圧倒的に器の大きい人をベンチマークするのだ。「そんな人世の中にたくさんいすぎて困るでしょ?」と心配してくれたあなた。まったくその通り。ただ、ありがたいことに視野が広くないので「この人はすごい」となったら、まずはその人をベンチマークする。そして、どこでどうしたら自分とこんなにも差が出るのだろう、と成長のプロセスをイメージし、比較してみる。多分ここかな、となったら、それを日頃の授業の中で子供たちに提供できないかを考える。教える過程で、私の中の大きな穴は少しだけ小さくなる。器を大きくするための手立ては作文と関連付けられることが多い。幸運なことである。
 「コンペティター」、「ベンチマーク」という言葉を使って文章を展開したので、少し高尚なことを書いたぞ、という気分に浸っている。外来語、万歳!

2018.03.13Vol.342 あれは一体何なんだろう(採用編)

 “採用編”としたものの、それ以外が現時点で頭の中にある訳ではない。「あれは一体何なんだろう」だけでは、あまりにもよく分からないので少し具体的にしたまでである。
 この時期になると、塾講師専門の採用会社からメールが飛んでくる。「春期講習に向けて先生を補充しませんか」という内容である。それを見て「何なんだろう」となる。勝手に送られてきているわけではなく、以前に我々が登録したからである。実際にそのサイトから応募してきてくれた方たちとお会いし、面接もさせていただいた。そのうちの何人かはいくつかの大手塾で働いた経験があり、履歴書には実績として「〇〇中学~名合格」などというのが羅列されていたりする。もし、それに価値があるのであれば、わざわざ我々のような小さなところに移ってくる必要はない。元々いたところで昇進していけばいいのだ。待遇はそちらの方がいいに決まっているのだから。意地悪な言い方をしてしまった。別に、特定の個人を攻撃する意図があるわけではない。結局は、置き換え可能なのだ。Aさんが辞めれば、じゃあBさんで、となる。「おまえは、何を根拠にそんなことを言っているのか」と問われればどう答えるか。「だから、こんな直前に採用を促すメールが飛んでくるんですよ」で終わりである。どうやって1ヶ月以内に、それなりの価値を提供できる講師を育てることができるのか。志高塾では、まず研修として20コマを課している。1回の勤務につき基本的に2コマ(1コマ90分)である。週に2回出勤してもそれだけで5週間はかかる。その後、ある程度任せられるようになるまでに3ヶ月から半年は要する。少なくともの話である。
 春期講習で失敗するのならまだいい。たとえ、受験に臨む年であっても「あれはいい勉強になった。もう同じ轍は踏まない」とそこから学びを得られたのであれば、それはその後にプラスに働くからだ。容易に想像していただけるであろうが、受験直前にはもっとこのようなメールが届く。「書き入れ時ですよ。機会損失をしないようにしましょう」といったような内容のものが。一方で、親は「最後にケチって結果が出なければこれまでの苦労が水の泡。えーいっ」となる。少々言葉は過ぎるが、気をつけなければガラクタをありがたがって高値で買うことになってしまうのだ。
 そう言えば、現在、『家庭教師のトライ』がおかしなテレビCMを流している。「2ヶ月間授業料無料」というものである。その何がだめなのか。CMの中で「自信があるから無料にする」と謳っているのだ。明らかにおかしい。自信があればお金をいただくべきである。それ以上の興味がないので調べていないが、半年以上契約した場合、などの条件が付けられているはずである。話が途中で終わっていたので、続きを。塾専門のサイトから採用した方はこれまで皆無である。面白くなかったからである。概してペーパー試験はよくでき、受験指導の経験もある。しかし、それらのプラス材料を打ち消してあまりあるぐらいに魅力がなかったのだ。改めて断るが、個人を攻撃するつもりはない。取替可能な仕事をしていれば、誰でもそのようになっていってしまう。
 上で、採用の裏側の話をした。それが分かっていれば、多くの親が「だまされた」と思わないで済むのではないか。教育業界に限らず物事には表と裏がある。「仕組みを知る」とは「裏側を知る」と同義なのかもしれない。
 ポーカーであれば、自分の持ち札が良くなくても、相手をうまく騙せれば勝つことができる。でも、私は誰もが見られるようにテーブルに置く。私のカードに興味がある方たちは敵でないのだから。ここまで採用の話をしてきたため誤解されないように断っておく。手持ちの札というのは私が雇っているそれぞれの講師のことを指しているわけではない。志高塾のカリキュラムや組織のトップとしての私の器の大きさ、小ささと表現した方が適切か。もちろん、そこには講師の質も含まれる。要は、「手持ちのカード」=「志高塾の資源」である。その資源が豊かであればあるほど、質の高い授業を提供できる。
 手持ちの札を少しずつ良くしながら、組織として個人として少しずつ自信を深め、親御様から少しずつ信頼を得ていく。私の理想とはこういうものである。

2018.03.06Vol.341 ルールの決め方、運用の仕方

 「ルール」と聞いて、私が真っ先に思い浮かべるのは中学校時代のそれである。学ランの襟首のところにカラーをつけることを義務付けたものであった。今調べて初めて知ったのだが、カラーとは英語表記では”collar”であり、それは「襟」のことを意味するとのこと。物を知らない、読解力がない、文脈から知らない単語の意味を推測する力がない。ないないづくしを補うために、大学受験の英語の2次試験対策として、人より1,000語ぐらいは多く単語を暗記したはずなのだが、それを覚えた記憶がない。話を戻す。カラーとは、白色のプラスチック製のものであった。それが襟首を清潔に保つためにあるとは知っていたが、肌がプラスチックに直接触れるというのは気持ち悪いものである。汗をかくと余計に。清潔であることが重要であるのなら、毎日同じものを着ていること自体おかしいので、制服自体を廃止すべきということになる。カラーに関しては撤廃することを提案したが、結局受け入れられなかった気がする。こういうことに関して、説得力のある説明をできる先生がいなかった。それは必ずしも論理的である必要はない。「俺がアカンといったらアカン」。それで十分なこともある。もちろん、その場合、”俺”という人間に説得力が担保されていなければならない。
 さて、1ヶ月ほど前から子供たちに整理整頓をするように言い始めた。三男はまだ年中で、自分の机があるわけでもないので、3年生の長男と1年生の二男が主な対象である。妻がこれまで子供たちに「汚すぎる」とよく怒っていたが、「そんなもんじゃないの」というのが私のスタンスであった。ちなみに、私はきれい好きである。たとえば、中学生のときには、母がたんすに服を入れると汚くなるので、その前に置いておいてもらって、すべてたたみ直してから自分でしまっていた。社会人になって一人暮らしをしていたときも、いつ誰が急に訪ねて来てもいい状態になっていた。何が言いたいかというと、自分ができないからではなく、できるけど言わなかったのである。私は親に言われてそのようになったわけではなかったから、自分たちで気づいて欲しかった。ただ、まだまだ先になりそうだったので、少しぐらいはいいか、ということで方針転換をした。そして、私が決めたルールが、日曜の朝に私が起きた時点で子供部屋の床に落ちているものは捨てるということである。もちろん、その中には親として捨てたくないものが混じっている可能性がある。そのことを踏まえて、「捨てるか捨てないかはすべてお父さんが決める」となった。ちなみに、そのことに関して二男が「お父さんに捨てて欲しいものはわざと床に置いとこ」といったような発言をしたので、「ふざけたことをしたら、棚にしまってある大事なおもちゃを代わりに捨てる」と伝えた。最初の2, 3週間ぐらいは「あっ、明日は日曜だ」と言いながら、3人で片付けをしていた。折角やったこともあり「お父さん見ないの?」と聞くので「毎週チェックするとは言ってないから」と返した。このように、ルールを決められた方は決めた方にそれなりの要求をする。これまで確認してこなかったので子供たちも油断したのであろう、この前の日曜日、お気に入りのいつも遊んでいるおもちゃが出しっぱなしになっていた。起きてきた長男と二男に「捨てられたくなければちゃんと片付けな」と伝えた。案の定、けんかが始まってお互いに責任をなすりつけあっていたので、「協力しなさい」と注意して、整頓されていない箇所を徹底的に指摘した。何度かやり直しをさせて、午前中にどうにか終えた。長男は、1年生のときから溜まっていたノートや教科書などを大量に捨てていた。片付け終わって、子供たちはそれなりの満足感を得ていたように思う。
 「ルールの決め方、運用の仕方」というタイトルをつけたが、それ以前にそのルールが何のためなのか、ということが最も重要である。ルールというのは得てして破りたくなるものだが、それはきっと目的が明確でなかったり、明確であっても納得できなかったりするからであろう。
 経営者として、先生として、親として、私はルールを決める側の立場にある。まずできる限りそのようなものがなくても円滑に回るような手立てを考える。うまく行っていないところに手を打つべく、ルールを設ける。がちがちにではなく、車のハンドル同様少し遊びがあるように。それによって、よりスムーズに事が進むようになる。もちろん、うまく行かなければ手を加える。ルールとはきっとそのようなものである。

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