
2017.10.31Vol.324 「~じゃないの?」は「~じゃない」
小1の二男が、下校途中に2年生の男の子に足をかけられて転ばされ、お腹を踏んづけられ泣かされたらしい。お腹の周りは少し赤くなっていた程度で、騒ぐようなことではなかった。二男の日頃の行動からして、間違いなくちょっかいをかけその仕返しをされたのだ。これまでにそういうことは何度かあった。低学年だとそこまで悪質なこと(集団で無視をされるなどの陰湿ないじめ、激しい暴力)はされることは中々ないので、今のうちにどういうことをしたらどういう結果になるか、痛い目に遭って学んでくれればいい。そこで親が介入すると、対処法を身につけないまま、その先もっと大きな問題に対峙することになる。友達づきあいだけではなく、勉強でもスポーツでも、小学校の低学年ぐらいまでは、理屈ではなく、体験して学んでいくのだろう。そのぐらいの年齢の子供に、理屈を話して通じないことからも、その方法が優れていると言える。年を重なるに連れて、理論的な部分が育っていき、体験と理論のバランスをどのようにすれば実践で効果が出るのかを学んでいく。それがどちらかに偏りすぎていると、感覚に頼りすぎ、机上の空論、などと言われてしまう。
妻が、息子たちに「どうして、~なの?」、「なぜ、~なの?」と言っているのを傍で聞きながら「そんなこと言われても、子供は答えようがないよなぁ」と思っていた。ある日、自分がその言葉を吐いているのに気づいたときは驚いた。それからはそれまで以上に意識するようになったのだが、それでも時々出てしまう。それと同じぐらい親が使ってしまいがちなセリフは「~じゃないの?」というもの。中でも人気は「~した方が楽じゃないの」。補足すると、「今、~した方が後で楽じゃないの?」となる。この「後で」が「その日の夜」であるなどかなり近い未来を表していることが多いものの、時には「中学生になってから」さらには「大人になってから」というものもある。子供からすると、すぐ先のことですら受け入れがたいのに、はるか遠い未来となるとまったく意味が分からない。誰も、好き好んで困る道など選ばないのだから、子供は今が一番楽な道を選んでいるのだ。だから、今、困るようにしてあげればいい。たとえば、計算。ぐちゃぐちゃと書いたり適当に式を省いたりして間違える子供に「丁寧に書いた方がいいよ」といっても効果はない。そういう子供にどの問題が間違えているかを伝えると、もう1回ゼロから解き直して終わりである。私であれば、10問あってそのうち2問間違えたのなら、その数だけを伝える。すると、子供は、自分自身が書いた汚い字と格闘することになる。また、中学受験の過去問を解き、丸付けをしてどれが不正解だったか分かる場合は、途中式のどこで間違えたのかを見つけさせる。作文で知っている漢字を使おうとしない子供にはどのようにするか。通常、作文の中で出てきたひらがなで書いていた言葉の2つ、3つを選んでそれぞれ3回ずつ書かせるのだが、そのような子供には5個でも10個でもやらせればいいのだ。たいていは「書ける(から練習する必要はない)」と抵抗するのだが、「書けるかどうかじゃなくて、(作文の中で)書いたかどうかやから」と突っぱねる。それを何度か繰り返すと、それなりに効果は出てくる。
親としては「~じゃないの?」を極力使わないようにしながら、口から出てしまったとしても、知恵を絞って、今、子供が困る方法を考え出さないといけない。それが子供の未来を明るくしてくれるのだから。
2017.10.24Vol.323 志高塾立ち上げにまつわる話
12月16日(土)にPTA関連の仕事で50人ぐらいを前にコミュニケーションをテーマに話をすることになった。私自身にコミュニュケーション力がないにも関わらず。クリスマスプレゼントを買いに行ったり年賀状を書いたりと年末の忙しい時期にそんな私の話を聞かされるのもかわいそうだ、と同情してしまう。希望者が参加するのではなく、各校2名ずつ出席することを義務付けられているのだ。じゃあ断ればいいじゃないか、と思われるかもしれないが、私にとってはいい機会なので、二つ返事で引き受けた。
参加者に向けて案内文を配布する必要があるため、その作成を担当している方から以下のような質問を受けた。HPでも使用している私のプロフィールにある「子供の頃、国語嫌いで読書もあまりしなかった、という自身の経験を踏まえ、本に親しみ、言葉を使って論理を組み立てられる、社会に出てから活躍できる人を育てるため」について「嫌いだったことを教えようと思われたきっかけ」、「大学から開塾までの経歴やきっかけ」を尋ねられた。一言で答えられそうになかったので、今回のブログのテーマにすることにした。
きっかけは、20代の頃にサラリーマン生活に行き詰まり、このままでは人生が終わってしまう、という危機感、切迫感、恐怖感みたいなものに苛まれたことである。正確には、社会に出たときから苛まれ続けていて、ある瞬間に臨界点を超えたのだろう。海外と日本の大手企業で働いたが、そこでの仕事に私はまったく満足できなかった。転職のための採用面接でその時点で働いている企業の不満を述べることは御法度だと言われている。「今もそれなりに充実している。ただ、より高いレベルで仕事をしたくなった」というのが模範解答なのだ。それを頭では理解していたが、思うところを正直に述べていた。すると「では、その状況を変えたらいいではないですか」と返ってくる。前回の最後で企業の不祥事について触れたが、きっと社長であっても雇われであれば、大抵の場合、大きな問題に対して手を打てない。一社員となればなおさらである。改善策を打てても、本当に大事な部分を変えることなどできないのだ。私の思考、発言は間違えていなかった。ただ、それが採用面接の場であったのが誤りなのだ。なぜなら、私が受けていた会社もやはり大企業であり、似たような問題を抱えているはずだからだ。私が求める理想郷のようなものが世の中にゼロではないだろう。でも、それを見つけ出すのは至難の業なので、私はそのような会社を追い求める探検に終止符を打った。
大学生の頃、自宅に高校生を同時に4, 5人集めて数学を教えていた。家庭教師の延長のようなものだ。多いときで、3クラス10人以上は生徒がいた.
30歳を目前にして、自分で何かを始めなくてはいけなくなったとき、そのような経験もあり、教育というのは身近であった。最初に頭に浮かんだのは、数学である。でも、それであれば10年経って振り出しに戻るみたいで嫌だったし、大学生の頃に一応の成果は上げていたので、もういいか、いう感じであった。最終的に作文にたどり着くのだが、それは、豊かな語彙に裏打ちされた柔軟な思考力の重要性を20代の頃にひしひしと感じていたからであろう。得意でないことにチャレンジした、と言えば、聞こえはいいのだが、人間的に成長する必要性に迫られていたのだ。作文を教えられる人になることで、自分の中にあるぽっかりと空いた大きな穴が少しずつでも埋まっていくことを期待した。その他、一人で教えるという可能性はゼロであった。とにかく人を雇いたかった。雇える人になりたかったのだ。マネジメント力を磨くことも、穴埋めにつながると考えていたからだ。
質問に対する回答になっているかは定かではないが、個人的には当初自分が何をしたかったのかを振り返る機会になった。10年前に比べて、少しだけましな人間になった気がする。
2017.10.17Vol.322 手段を選ばないことの是非
9月1日の時点で10人だった豊中校の生徒が、1ヶ月と少しで15人になった。このままこのペースで増えていけば、早い段階で私の左手には団扇が。そんなことはあるわけもなく、半年後に20人になっていれば上出来である。
2月に開校し、あまりに生徒が集まらなかったため正直かなり焦っていた。冷静さを失っていたことで私は間違いを起こしかけた。もし、西宮北口校に問い合わせの電話があり、その方が2, 3ヶ月以内に塾のテストにおける国語の偏差値を上げたい、というような話を中心にしようものなら迷わずに、そういうことを専門に行っている、進学塾から独立した先生が開いている塾を紹介する。そこには寸分のためらいもない。春先に豊中校に問い合わせをいただいた高校生の女の子のお母様とは電話のときから話がうまく噛み合わなかった。それにも関わらず体験授業を行うことになった。私がそのように導いたのだ。そのお母様の求めていることは、「指定校推薦を取るために、定期テストの国語の点数を取れるようにすること」であった。それに対して私は「それはそれとしてやりますが、せっかく時間をかけるのであれば根本的な力もつけましょう」という提案をした。やり取りをしながら、説得しようとしている自分に違和感を覚えていた。結果、入塾にはつながらなかった。先日、体験授業を行った小学5年生の親御様から入塾させたいとの話をいただいたが、私は再考を促した。入ります、入りません、やっぱり入ります、と1週間でコロコロと考え方が変わったことに加え、何よりも、志高塾が大事にしていることを理解していただけていなかったからだ。何も私の考え方が正しくて、そのお母様の考え方が間違えているということではない。ずれがあっては双方にとって不幸になるからだ。結果「では他のところを探します」となった。今回私は過ちを犯さなかった。
生徒が増えれば売上が増えるというのはもちろんある。それは横に置いておく。当初は、金、土の週に2日しか授業を行っていなかったが9月から水曜日も開講した。それにより振替も取っていただきやすくなった。春先に豊中校で優秀な大学生を雇ったのだが、曜日と時間が合わずに結局本人から辞めたいとの意思表示があった。日数は増えたがいずれの日も講師1人体制である。つまり、1コマに生徒が最大で2人しかいないということである。1人ということもある。子供を任せている親御様からすれば少ない方がよりしっかりと見てもらえていいと思われるかもしれないが必ずしもそうではない。周りに何人かいることで刺激を受けるということは少なくない。今後は曜日を増やすことに加え、2人体制にし、より授業の質を上げていく。
今回の衆院選のニュースを見ていて、テーマを思いついた。「手段を選ばない」の前には「目的のためには」というフレーズが来る。その目的が崇高なものであり、かつ手段がある一定の限度を超えないものであるという条件を満たしたとき、その手段は容認される。でも、私は思う。果たして、そこまで強固な意志を持てるのだろうかと。「目的のため」と言いながら、ぎりぎり合格の手段を繰り返し選択しているうちに、1回ぐらいは不合格のものでもいいかとなり、目的まで歪んでしまうのではないだろうか。神戸製鋼の問題も、日産の問題もそういう考えに端を発しているはずである。よく企業体質という言葉が用いられるが、私に言わせれば人間性質である。人間の意志なんてそんなに強くないのだから。
弱い意志と戦いながら、余裕の合格点を取れるような手段を繰り出していきたい。
2017.10.10Vol.321 a rush of welcome back
今日が、衆議院選挙の公示日である。私が文章を作成している朝の時点では、小池都知事が立候補するかどうかは定かではない。1週間ほど前、「都政が八方塞がりなので、立候補するのではないか」という意見を耳にしたときは、なるほど、となった。ただ、この1週間で都民ファーストの会の議員が離党するなどの影響でイメージがダウンし、国政選挙の方でも逆風が吹き始めた。小池都政は、この1年間でどのような結果を残したのか。その見極め方はすごく単純である。自分の仕事に自信があれば「ご存知のように、私はこの1年でいろいろと改革を行いましたが、その中でもここで強調したいのはaとbです。都政と国政は確かに違います。でも、(都政における)aは(国政における)Aに、bはBにつながります。」と演説でアピールするはずだ。イチローがメジャーリーグに挑戦するとき、「日本で残した結果は参考にならない」、「パワーが足らない」などと言われていた。イチローの場合は、自身で成績を誇示したわけではなく、マスコミや評論家などがそのような予想をしていたわけだが。ここで言いたいのは、イチローは少なくとも日本のプロ野球において圧倒的な結果を残していた、ということである。本題とは何の関係もないのだが、毎日のように選挙のことがニュースの中心になりいろいろと考えるので思わず書いてしまった。
“rush”は言い過ぎか。会社勤めをしていた頃、意味のない仕事が大嫌いであった。会議のためにデータを作成する。でも、そのデータがその外で何も生かされない。新人の頃から、いちいちそういうものに抵抗をしていたので当然のことながら煙たがられていた。私は私で問題なのだが、私の疑問に説得力のある説明をできる人がいなかった。今振り返っても当時考えていたことはそれなりに正しかったと思う。ただ、そのやり方は適切でなかったと反省する点も多々ある。少しは人間的に成長したということか。志高塾を始めてから、私は意味のない仕事はやってきていない。「意味のない仕事」というのは、たとえば、中身がないのに見せかけだけをよくするためにするようなものである。ただ、私が「意味がある」と考えているだけで、働いてくれている人、お子様を通わせてくれている親御様がそう感じているかはまた別問題である。そこで今回のタイトルである。中学生になるとともに、志高塾を卒業した中3の生徒が10月になって帰ってきてくれた。大学受験にはおそらく問題はないものの、視野が狭く将来のことが心配ということで、お父様がその点を伸ばして欲しいと考えてのことである。そして、先週、2年ほど通い5年生の終わりぐらいに進学塾が忙しくなったためやめざるを得なくなった中1の生徒のお母様から、「年内中に戻りたいと考えていますが、空きはありますか」という連絡をいただいた。中高一貫校に通っていて、塾に行っているものの、それはそれとして、この時期にやるべき他にもっと大事なことがあるのではないか、という話し合いをお子様としたときに、子供の方から「志高塾に戻りたい」と言ってくれたとのこと。すると、今度はその翌日、先の子と同じように2年通い、5年生の頃にやめた生徒の親御様から連絡が。口座振替などのときに使っていた口座情報等はある一定期間が過ぎれば削除するものの、携帯電話に入れている電話番号はたいていそのままにしている。電話に気付かなかったので着信履歴が残っていた。その名前を見た瞬間なにかの間違いかと思ったら、そうではなかった。もう高校2年生になっていて、完全に理系タイプなので、センター試験に向けて国語をどうにかしてほしいとのことであった。センターの準備を1年以上前からするのは馬鹿らしいから、それであれば根本的なところからやり直しましょう、という話をした。それ以外にも、水泳部に所属している中1の生徒もシーズンオフになり戻ってきてくれるということで、曜日や時間について親御様と話している。
上で4人挙げたが、実際にはまだ1人しか戻ってきていない。でも、志高塾を思い出してくれるだけで嬉しい。それが「やっていることにそれなりに意味があるんじゃない」という評価をしてくれているようで、私の背中を押し、また少し前に進んでいくことができる。
2017.10.02Vol.320 転ばずに済んだかな?
私は、親御様に進学塾の保護者会のようなものには極力行かないことを勧める。理由は2つ。1つ目は焦らされるだけだから。5年生の夏期講習前の説明会に行くと、「5年生の夏休みが勝負です」と言われる。そして1年後、「6年生の夏休みが勝負です」となる。後2ヶ月もすれば「6年生の冬休みが勝負です」となる。そこでの話を鵜呑みにすると、あれもこれもと講座を取り、塾で拘束される時間は長く、たくさんの宿題に追われ、それだけ長時間勉強して結局何が身に付いたかわからない、ということは往々にしてある。2つ目は私の経験則による。そういうところに顔を出さない親御様の子供の成績が概して良いからだ。だからと言って、成績が伸びない子の親がそれまで足繁く通っていた保護者会に行かなくなったら成績が上がるわけではない、というのは当然のことである。なぜ行かないか、というのが大事だからだ。
そのような場で語られることでも、母親同士で交わされることでも、「早く」、「たくさん」という類の言葉が入っている話は信じない方がいい。そのことも時々親御様に伝える。それと同様に、「天声人語を読みなさい(写しなさい、要約しなさい)」などという国語の先生の話は大抵信用に値しない。その一事だけで判断はできないが。我ながら意外とうまく話を転じられた気がする。
天声人語は、起承転結というスタイルを取ることが多く、中でも「転」が肝である。それゆえ、私は冒頭の話を読み進めながら、「これはどこにつながるのか?」ということを考える。「転」がうまい文章は多くの場合まとまりがあるが、そこで転んでしまうようなものも少なくない。詳しいことは知らないが、確か3人ぐらいが持ち回りで書いている。私の感覚では、「うまいな」と思わせるのは、3日や4日に1度ぐらいしかない。それは担当者の技量の問題ではなく、コンスタントに、中身があってうまくまとまった文章を書くのは容易ではないからだ。自己弁護しているような気がしてきた。
最近も、朝日新聞に関するテレビCMが、天声人語が入試で出題されることを売りにしていた。一体、どれだけの文章が使われるのだろうか。休刊日を除いて1年で約350日あるとする。仮に5話だと70分の1である。失礼な例えになるが、大事MANブラザーズバンドを思い起こしてしまった。今、調べてみると、アルバムを10枚出している。ただ、最後の3枚のタイトルは『SUPER BEST 2000』、『BEST SINGLES』、『GOLDEN☆BEST』。中々えらいことになっている。『SUPER BEST 2000』が1995年に発売されているのに、なぜ「2000」となっているのだろうか。どうでもいいことが気になってしまった。ベストアルバムを除けば、7枚。1枚当たり10曲だと計70曲になる。その中に『それが大事』という大ヒット曲が1つ。見事に天声人語と符合する。要はこういうことなのだ。入試に出題されるからという理由で、天声人語を毎日写させたり、要約させたりするというのは、「それが大事」というヒット曲があるからという理由で、大事MANブラザーズバンドの7枚のアルバムに収録されている曲を「いい歌だよ」と全部聞かせるのと同じである。もしかすると、掘り出し物が見つかるかもしれないが。ここで、謝罪を。大事MANブラザーズバンドの皆様、申し訳ございません。カラオケで何度か歌わしていただきましたし、何の恨みもございません。ただ、曲の最後、サビのリピートが多すぎて、大抵は「演奏停止」ボタンを押させていただいておりました。
結に移る。仮に、私が天声人語を生徒にさせるならどうするだろうかと考えた。毎月最高の1話だけを切り抜いて、それを10年間貯める。その120話の中から、さらに厳選して取り組ませる。ただ、要約させるだけではなく、そこで話題になっている社会現象がどういうものかを調べさせる。また、AからBに話を転じているのであれば、AとBの共通項を一文でまとめさせる。今のこの時期なら、風が吹いて与党が自民党から民主党に移った時のもの。その民主党が絶頂から野党に下るまでの経緯が分かるものを生徒に手渡すだろう。民主党政権が約3年なので、1年間隔ぐらいで3話か4話渡せばそれなりに流れは掴めるはずである。それを今回初めて選挙権を得た18歳の高校生に取り組ませる。すると、少しは自分なりの判断で投票できるのではないだろうか。私はいわゆる無党派層である。だから、その時々で応援する党が変わるのだが、思い返してみると、個人に票を入れたことはない。いつも、「~党だから、この人」としてきた。今回は、もう少し個人に注目してみようかな。