
2017.09.19Vol.318 視線の先にある棚の上をちらちらと見ながら
稲田朋美は防衛大臣を辞任し、山尾志桜里は民進党を離党した。後者に関して、不倫(あくまで疑惑らしいが)をしても、政治家としての仕事をしていればそれでいいではないかという意見があった。最もだと思う。「何をしたか」ではなく「何をしなかった」で評価されるのは確かにおかしい。清廉潔白で人当たりはいいものの国を変えることに何ら尽力しない国会議員よりも、プライベートは褒められたものではないが勉強熱心で、官僚任せではなく自らが中心になって法案を提出しようとする議員の方が国民にとってはありがたい。ただ、上の2人がどのような経緯で注目をされるようになったかと言えば、他の政治家の揚げ足を取って、攻撃的な批判を展開したからである。それぞれ弁護士、検察官出身なので、法曹界出身の人は違うな、論理的だな、となるが、責められることには滅法弱いのだ。スキャンダルで辞任にしたわけではないが、民進党元代表の蓮舫にも共通点がある。党首になった際、これからは批判型ではなく提案型にしていく、というような主旨のことを述べていた。任期中に一体どのような価値ある提案をしたのだろうか。未だにテレビなどで流れるのは、「2位じゃダメなんですか?」のあれである。舛添元東京都知事も評論家時代、政治家のお金の問題に関してはうるさかった。立場が逆転したときみんな歯切れが悪くなる。どうせなら、最後まで思い切り開き直ればいいのに。石原元都知事はそのようなタイプであったような気がする。
彼らは自分のことを棚の上に上げすぎるのだ。それが守りの弱さにつながっている。親や私のような先生の立場の者が、子供を叱るとき「自分もできなかったら、あなたもしょうがない」となるのは子供のために良くない。上に立つ者には、自分よりも立派な人間を育てる責務がある。だから、自分のことは括弧の中に入れて「(私はできなかったけど)こうしなさい」というのが子供に接する大人の役割である。ただ、自分ができていなかったことを完全に忘れ去ってはいけない。棚には上げる。でも、子供にメッセージを発する際、子供の向こう側にある、視界に入ったその棚の上の方をちらちらと見ながら心を込めて言葉を伝える。棚に上げたまま見向きもせずに伝達した時よりも、心がこもった、内容を伝えられるのだ。言葉にすると少々わざとらしいものになってしまうが、実際、私はこのようなことを心がけながら、生徒達、我が子達に接している。
長男とは年長のときに行ったが、二男は一年生になったこのタイミングで昨日、今日父子二人旅を楽しんできた。いつもはせかせかと動き回る旅行をするのだが、昨日は鳥羽水族館だけを楽しんだ。そして、今朝は5時前に起きて、5時半から船釣り。12時に港に上がり、3時間ぐらい運転して帰宅した。こんなときに文章はうまくまとまらない。生徒が「運動会の練習がしんどくて眠たい」などと言おうものなら、そのような時に頑張ってこそ価値があるんや、と叱り飛ばしてやる。何と立派な先生なのだろうか。