
2017.04.03Vol.296 何が特別か
芦田愛菜ちゃんが最難関校に合格したことが話題になった。ネットの記事などで、それなりに仕事をしながら成功した理由がいくつか述べられていたが、それは当たっている、と感じられた意見は、演技することが読解力の向上につながったというもの。演技するためには、台本にある言葉の意味はもちろん、それにまつわる複雑な感情も踏まえた上で表現しなければならない。その経験が文章を理解するのに、特に物語文を読むのに随分と役立ったはずである。「芦田愛菜ちゃんもこれで合格 ~物語文はもう怖くない~」といい加減な広告でも打って、夏期講習に演劇コースを設けてみるか。それ以外には、隙間の時間を見つけて勉強していたことや集中力が高かったことなども要因として挙げられていたが、それは目的意識の強さと関係している。「どうしても合格したい」となれば、工夫するものである。
「受験をする」という前提でお子様を任せられることが多い。それに対して、私がしてあげられるのは主に2つである。1つ目は、目的意識が高まるようにしてあげること。それは、少しでも偏差値の高い学校に行けば人生が有利になるというようなことを語るのではなく、経緯(軽い気持ちで自分から言い出したのか、親に言われたのかなど)はさておき、やると決めたなら、いい結果が出るようにしてみたら、といった感じである。目標に向かって頑張り、それに対して明確な結果を突きつけられるというのは中々経験できないことである。どこの学校を目指すかに対してはほとんど口出ししないが、直前で学校のランクを下げることにはどちらかと言えば反対することが多い。結果が良かったのか悪かったのかが分からなくなってしまうからだ。2つ目は、せっかく勉強するのだから考える力をつけてあげるということ。先に解き方を教えてそれを覚えさせるような勉強をさせる教育は世の中に少なくないが、私はそのようなことはしない。時間を掛けてでも自分で考えさせて、解けた喜びを感じさせてあげる。後者の方が間違いなく伸びる。
文章を書きながら2人の男の子のことを思い出した。いずれも5年前ぐらいのことである。1人目は、勉強は嫌いだったのだが、なぜか志高塾だけには通ってくれていた子。しかも、片道30分ほど電車に揺られて。当然受験をする気はなかったのだが、6年生になるタイミングで小学校の行事の一環で地元の公立中学校に行くことがあり、何が気に入らなかったか忘れてしまったが、とにかく「ここには行きたくない」と強く思って、急に受験をすることに。そのタイミングで大手塾に通い始め、結局両立できずに5月ぐらいに志高塾はやめることになった。初めは三田学園を目指していたのだが、文化祭に行ったことがきっかけで、高槻に志望校を変更した。受験後、お母様が連絡をくださり、「志高塾での90分に比べたら、(休みの日に)朝から晩まで塾で勉強する方が断然楽だ」と本人が漏らしていたと教えてくださった。その子は分からないと黙る癖があり、それでよく残されていたからだ。それは「そんなことも分からないのか」ということではなく、どこまで理解できて、どこでつまずいているのかの説明を求めていたのだが、それができなかったのだ。2人目は、関学の文化祭に行き、コーラス部が気に入って受験をすると言い始めた子。行きたければ自分で勉強しろ、ということでお父様が算数や理科のテキストを買ってきて、本人に渡して後は本人任せ。直前の冬期講習だけは大手塾に通っていた。2人とも第一志望の学校に合格した。2人目の子には後日談があり、入ってみて、実は中等部にコーラス部がないことを知ったのだ。
それ以外にも、5年生から進学塾に通い始めて灘に合格した子もいた。枚挙にいとまがない、では明らかに言いすぎなのだが、一般的でない受験をする子供は少なくない。現在の6年生でも、将来は棋士になりたくて、将棋教室でのクラスが上がったからという理由で志高塾に通う曜日、時間が変更になった子もいれば、将来はそろばんで日本一になりたくて、その腕が落ちないように大会にできる限り参加しながらの子もいる。決して中学受験のことを軽く考えているわけではない。
世の中で一般的と言われる方法以外で成功すると、「その子は特別」で済ませる人がいる。そもそも、その「一般的」は大手塾から発信される情報によって形作られている。説明会に行って、そこでありがたそうにメモを取っているようでは、「一般的」へまっしぐらである。特別なのは子供ではなく、皆とは異なる方法で子供を向かわせることへの不安を感じながらも「これが子供の将来に役立つ」と信じながら背中を押して上げる親の考え方、姿勢である。私は、少しでもその力になりたい。いい結果が出れば、またその先で「一般的」でない受験を選択した親御様に「こんなこともありましたよ」と後押しをできるから。