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2017.03.27Vol.295 安全と安心のお話

 ただいま志高塾は一週間の休み中であり、通常であればブログもお休みなのだが、最近は講師の文章を紹介して終わりということがあったので書くことに。いつも以上に気楽に、何となく思ったことを、何となく調べながら書き進めていく。
 安全と安心。もちろん、例の豊洲移転の件である。「安全安心」という言葉を都議会の百条委員会で石原元都知事が話しているのを聞いたとき、瞬時にその意味するところを理解できなかった。その後ニュースを見ていて、小池都知事が「豊洲は安全だが安心ではない」というような発言をしていることを指しているのだと分かった。確かに、飛行機による事故と自動車による事故、統計的には前者の方が安全だと言われても、飛行機に乗るときは「落ちたらどうしよう」と少し不安になることもある。豊洲移転において、安全というのは科学的基準をクリアしているかという客観的なものであり、安心というのは人がどのように感じるかという主観的なものである。確かに、この2つはイコールではない。では、どのような関係なのか。おそらく、安心できるように安全基準が設定されているのだ。そう考えると、安全であれば安心なのだ。
 安全と言われて、信用できるものとそうでないものがある。たとえば、入試に関する合格判定はある程度信用できる。前年の同じ時期に同じような内容のテストを受けた人の成績と受験結果を元にしてはじき出しているからだ。A判定であれば合格率が90%ぐらいはある。1回だけなら偶然ということが考えられるが、A判定を取り続けた人が落ちることはほぼない。よほど本番に弱かったか体調を崩したかぐらいしか考えられない。一方で、地震のハザードマップはことごとく外れている。そのようなデータを元にして設定されたので、熊本は地震保険においては最も安全な区分になっていたとのこと。自然に関わるものとそれ以外という区別をした方が良さそうである。前者の安全基準はあまり信頼できないし、後者のそれはある程度信用できうる。豊洲の件はもちろん後者である。
 こんな風にいろいろと考えていて「待てよ」となった。移転中止を決定した時の言葉が気になったのだ。調べてみると去年の8月31日の緊急会見で都知事が次のようなコメントをしていた。「『法律上の問題がない』という話もありますが、まさに生鮮食料品、水産物です。環境大臣の経験からも食の安全は生活者の目線、“都民ファースト”の感覚を大切にしなければいけないのではないか。」やっぱり、となった。気づきましたか?「食の安心」ではなく「食の安全」と言っているのだ。安全であることが確認できても、なぜ安心が得られないのか。都議会でのやり取りを見れば、明らかである。移転賛成派と反対派、それぞれが豊洲と築地の良さを挙げて議論を戦わせるのではなく、相手のマイナスポイントを挙げるのだ。豊洲であれば地下水のベンゼンの話、築地であればネズミやカラスが集まっている写真などを大きなパネルで見せるのだ。
 百条委員会を受けての都知事の会見を見て、おやっとなった。それまではいつも表情に余裕があったのに、その日はそうではなかったのだ。旗色が悪くなるかもしれないというのが顔色に現れていたような気がした。逆風はまだ吹いてはいないが。これまでのように勢い任せではなく、慎重に対応していかないと夏の都議選まで持たないかもしれないという危機感を感じ始めたのではないだろうか。単なる私の思い過ごしかもしれないが。
 時事ネタというのは、このようにいろいろと考えられるから楽しい。なぜそういうことが起こったのかを考察したり、今後のどのようなことが起こるかと予測したり。意見作文に取り組む生徒には、自分の持っている情報をフル活用して、論理的な意見を述べてほしい。情報量が十分でないなら、情報収集のためのアンテナの感度を高めてほしい。

2017.03.21Vol.294 第1弾「わたし、嘘つきじゃないでしょ?」

 第2弾「わたし、嘘つきじゃないでしょ?」が予想通り好評だったため、早くも第1弾。「あれっ」という疑問はさておき、私が好評と考える理由を挙げる。1つ目は、高校生の女の子が「いい内容やから、これ読んでみ」とお母さんから勧められた、と私に報告してくれたこと。そして、もう1つは、今日、別の親御様から「あの文章は良かったですね」と評価していただいたこと。わざわざ私の方から「どうでした?」と聞いたわけではなく、自然と私に届いたものが2つもあれば十分。
 なぜ、前回が第2弾で今回が第1弾なのか。それは、今回のものが先に提出されていたから。レポートして提出されたものを読んで「これは面白い」となり、電子データをメールで送ってもらったのだが、それが前後した結果、それに伴い順番もひっくり返った。すごくどうでもいいことに拘りタイトルを付けた結果、すごくどうでもいい説明を読んでいただくことに。今回の講師は、内容からも分かるようにそれなりに社会人経験を積んでいる。では、お楽しみにください。

 志高塾の理念は「よりよい教育をより多くの人に」だが、このよりよいという言葉の背景には今に満足することなく常に一つ上を目指していこうとする向上心がうかがえる。だからこそ今目の前にあること、取り組むことを大切にして全力で向かうという思いが強く感じられる。
 これは顧客に何かを提供する側にとってあたり前のことのようだが実は継続していくのは非常に難しい。物づくり産業であれば物の質と量、コストを追求する直接的な努力で利益につながることも多いが、教育というのは目に見えにくく、間接的な働きかけによって成果を求められる。その中で教育内容の品質を管理しながらよりよいものを提供し続けていこうという並々ならぬ覚悟が含まれる理念なのである。
 私は現在大人を対象とした小さな教室を運用しているが、継続していく中で上記の理念と共通している考えが多くあると感じている。これでいい、と止まった時にすべてが終わること。目まぐるしく変化する環境の中だからこそ、人としての在り方からぶれない軸を持ち続けることの重要性に目をむけていることなどである。将来期待する人材像を考えるにあたり、まず私が企業で経験し感じてきたことから述べたい。
 企業戦士だったころ、私は一流大学出身で出世街道を歩くエリート社員を多く見てきた。上司や部下になることもあった。表面上はスマートに振る舞い、いかにも難しい言葉で演説する上司もいた。世間の認識通り、ある程度までは学歴で皆から一目置かれるのだ。しかし徐々に周囲の期待からはずれ組織コミュニケーションがとれないまま異動・退職していく元エリート社員の背中を見送るうちに、学歴と仕事の出来とは関係ないということを実感した。
 むしろ、高学歴というフィルタを通してしか接することのない周囲からの期待は無意識に本人への無言の圧力となることが多い。コミュニケーションに苦手意識が強い場合は更にストレスになっていく。テクニカルサポートのコールセンターでCS指導していた頃、入社当初一流大学出身と一目置かれていたコミュニケーターが緊張のあまり自分の知識を一方的に伝え続けるという極端なやりとりをして、顧客からクレームの嵐を一手にもらっていた。しかも頑固に自分は悪くないと主張するので応対品質が全く改善しないのだ。
 組織内の役割に関しても同様である。管理職は文字通り管理する役割であるが、一方でリーダーという部下育成の役割も期待される。勤怠や業務管理、評価の他に部下の特性について興味を持って見出し、個別に成長を促す。自組織の目標を明確に掲げて一人ひとりにわかるように落とし込み、それがかなう言動が見られた場合は速やかに認め、周知して組織の共通認識を深めていくことが求められる。
 これまで周囲からの人望が厚く確実に出世していく上司の共通点を見ていると上記のことができているのだ。成果も継続して上がっている。(管理中心の組織は成果が徐々に低迷しやがて失墜していった)高学歴は社会の入り口付近では効き目があるかもしれないがそれだけに頼っても生き抜けない。
 つまり学歴が高い人物が組織にいるから成果が上がるのではなく、成果を上げ続け向上し続ける組織には「よりよい仕事の進め方(情報共有力)」を意識できる人材がいるのだ。今何に取り組んでいるのか、その意味はどんなことか。それをすることによって何を得ようとしているのか。この共通認識を折に触れ時に触れて諦めることなく伝え続ける力。これは組織のどこにいるからという役割の違いではなく基本的にその人のベースに備わっている力である。
 現代社会の中では常に「自分の考えを他者にわかるように伝える」ことが求められている。しかし、簡単そうでこれ程難しいことはない。なぜなら、まず「自分のことや考え」がよくわからないからだ。人のことは見えるが自分のことはわかっているようでとらえるのが難しい。
 しかしその伝える力はAIの社会進出を受け入れざるを得ない人間社会において、これから最も望まれ必要な力である。直近のロボット社会を目前にして生き残るためには、人にしか生み出せない発想や豊かなイメージ力をもって自分の軸がぶれることなく他者に伝え続けられる力が必要であると思う。
 そして私はそのベースを育むためのトレーニングが志高塾の教育に含まれていると感じたのだ。すぐに明確な成果が表れたり大きな行動変容がみられるわけではないかもしれない。しかし、時間をかけて積み重ねたものは簡単に失われることはない。まして成長期というスポンジのようにあらゆることを吸収できる子どもたちが対象なのだ。
 作文を書くためには言葉を選ぶ必要がある。その言葉はどこから生まれるのか、それは本人の内側からである。どうやって生み出すのか、本人の内側の対話から取捨選択して生み出すのである。選択するためには言葉の数を豊かにする必要性があるが、それは知らなかったことを知る喜び、好奇心を満たしていく学びの楽しさにつながる。自分で言葉を選択できるということは、自由であるということだ。自由に選べる状態でいられることは本人自身のぶれない軸を作り続ける原動力なのだ。
 ここを素通りして逃げたり人の言葉を借りたりし続けるとやがてその力は弱まり、流行や人の評価に大きく振り回されることにつながる。志高塾に子どもさんを送り出して下さる保護者の方は作文指導を通してこの辛抱強いやりとりを託し、学びを喜びとしつつ強固なベースを作り上げることを期待されていると考える。
 将来どのような道を選ぶにしても、それは自分の目で見て。自分の耳で聞いて、体感し納得して選ぶ人になって欲しい。学びを楽しみ好奇心を持ち続ける人でいて欲しい。生きていることを実感し、自分の居場所を作れる人になっていけば自然と人が集まり大きなことも成し遂げられる人材になると強く信じる。

2017.03.14Vol.293 東大医学部現役合格!

 たまには、こんな馬鹿げたタイトルもいい。
 小4の5月から高3の11月まで約9年間、正確には8年と7ヶ月の間通ってくれた生徒が現役で東京大学と慶応大学の医学部にW合格した。大きな顔して志高塾の実績と言いたいところだが残念ながらそうではない。中高の6年間、1回も読解問題を教えたことなどないのだから。それゆえ私の立場を例えるなら、一流のスポーツ選手を育てたコーチというのではなく、もちろんいろいろな面でサポートをした家族でもない。では、一観客かというとそれもまた違う。きっと、小さい頃にプレイしているのを偶然見かけて「この子はきっといい選手になる」と思い、長年密着取材をし続けてきたインタビュアーというのが一番近い。途中で取材拒否を言い渡されなかったので、それほどおかしなことは聞かなかったのであろう。
 実際、私はああした方がいいこうした方がいいということを具体的に伝えてこなかった。そうすることを意図的に避けてきた。相手の口から「結婚しよう」という言葉を聞いたことはないが、「きっとこの人と結婚するのだろうな」という予感と同じように、きっと彼は医者になるのだろう、と思っていた。よく小学生や中学生などが「将来は医者になって困っている人を助けたいです」と言っているのを聞いて、「ちゃんと夢を持っているんだね」などという大人がいるが、実に馬鹿げている。そんな教科書通りの目標はない。上で述べたように彼がそれを口にしていたわけではないのだが、彼には「分子の1は何でもいいんだけど、とにかく分母を増やすべきだ」ということを話してきた。分母は選択肢であり、分子は選択するものを指す。つまり、医者しか考えずに医者になるな、といことである。医者という分かりやすい仕事だからこそそうあってはならないのだ。実際、理系、文系のどちらに進むかを決めるときも、理系の中でどの学部に進むかを決めるときも、作文をしたり会話をしたりとやり取りをした。東大農学部を卒業したアナウンサーの桝太一の本を紹介したり、最近では、灘から東大の医学部に進み、その後弁護士を経て新潟県知事になった米山隆一のネット記事を印刷して渡したり、灘から東大に進み、一流企業で働いた後、登山関連の株式会社フィールド&マウンテンの山田淳という人もいるといったような話をしたり。これらはあくまでも一例に過ぎず、面白そうな人、本があれば「いいの見つけたで」と紹介してきた。それらは、分子の1を他のものに置き換えるためではなく、分子の1、医者が彼にとって最適のものであることを確かめるためのとても重要なプロセスであったと私は考えている。
 彼自身がそう考えているはずなのだが、東大理Ⅲという最難関ではあるが、たかが受験である。それに対して「天才」という言葉を使うのは適切ではないことは百も承知の上で、世間で好まれる「天才型」か「努力型(もしくは秀才型)」という二択を持ち込んでみる。「天才型」ではないし、「努力型」というのとも違う。そこで、強引に三字熟語に当てはめるのであれば「人間型」となる。「人間力」という言葉などで使われる、あの「人間」である。先の段落で私はいろいろなものを紹介してきたと述べたが、それをしようと私が思い続けたのは、彼が素直で「それは面白そうですね」といったように興味を持ったからにほかならない。素直というのは、人の話をただふんふんと聞くのではなく、自分の考えを持った上で、そこに自らに必要な情報とそうでないものを取捨選択しながら付け加えていくといった感じである。
 きっと、あれは6年生の頃、彼が勉強をしている横で体験授業に来た子供のお母様がしきりに塾の公開テストの点数の話を私に向かってしているのを聞いて、授業後にぼそっと「あのお母さんは志高塾の価値がわかっていませんね」というようなことを私につぶやいた。中学受験を終えての実感であれば分かるが、まだ灘に受かる前の出来事である。ちなみに、9年間の付き合いで人の悪口を言っていることや偉そうに上から話しているのを私は聞いたことがない。大学受験の前も、自分の意見がうまくまとまらずに「答えがあるものだけができてもアカンねん。こういうことがもっとできるようにならな」ということを漏らしていた。私と二人で、「知識も豊富で発想も自由やのになんでやろなぁ」と笑ったものである。
 長い付き合いゆえ、書けばきりがないのでそろそろ終わろうと思う。彼にはこのブログに掲載する文章を書いてとお願いしているので、それを期待してお待ちください。再来週ぐらいには披露できるはずである。
 最後にもう1つホットなエピソードを。大学生の頃、私はコンパ(今では、飲み会というらしいが)の幹事をするのが嫌だった。それは男友達と、女友達を含めた女性陣の双方に納得してもらうのはかなり難しいからだ。その私が、数日前に東京在住の中学受験を控えた新小6の女の子を持つ幼馴染に、彼を家庭教師として紹介した。そのやりとりの中で「彼、天才型ではないから教え方も抜群だよ。100人試しても彼レベルはいないはず」というメッセージを送っておいた。そこまでバーを上げても大丈夫だという自信が私にはある。最後に付け加えておくと、私は彼が人に教えているのは見たことがない。でも、私には分かる。ずっと密着取材してきたから。
 これまでのように頻繁にというわけにはいかないが、時々インタビューをしながら、彼の成長を見守っていきたい。

2017.03.07Vol.292 第2弾「わたし、嘘つきじゃないでしょ?」

 私は前回最後の段落で次のように述べた。
「両校ともで質、量ともに私が求める以上の人材が集まった。今いるメンバーに、新たに加わった彼らが3ヶ月、半年と経験を積めばかなりの質の、これまで以上の教育を提供できる。そういった確実な手応えを感じている。」
 我々は新しい講師に20コマの授業研修を設けている。最初の8コマに教えるという行為はない。その間は、とにかく授業の中で起こっていることをつぶさに観察してもらう。その後、『コボちゃん』の作文前の口頭での内容確認を行ってもらうなどして少しずつできることを増やしていく。また、授業とは別にレポート課題がある。随分と前に一度紹介した気がするが、その1つに「志高塾に通う生徒に将来どのような人材になって欲しいか」というテーマがある。今回は、最近新たに加わった講師から実際に提出されたものを紹介させていただく。本編を自分で書いて、それとは別に楽しんでいただこうかとも考えたのだが、分量的に2つも読むのは大変で、そうなるとしっかりと味わっていただけない気がしてこのような形を取ることにした。なお、志高塾はブラックではないので、このレポートに2時間分の給与を支払っているのだが、出てきたものはとても2時間で書き上がるようものではなかった。すると「サービス残業をさせている」ということになり、やはりブラックということになってしまう。前置きが長くなってしまったが、期待してお読みください。その上で「優秀な人材が集まった」という私の言葉が嘘かどうかの判断をしてください。

 志高塾に通う子どもたちに、将来の夢は何か、どのような大人になりたいのか、ぜひ聞いてみたいです。どんな答えが返ってくるのか想像が膨らみますが、いずれにしてもそれは言葉という形となって、こちらに届くのだろうと思います。饒舌ではなくても、論理的ではなくても、説明になっていなくても、心からそのまま取り出されたかのような言葉の数々はとても面白く、予想外のところへ弾んでいきます。それを一つひとつ拾い上げて、じっくり耳を傾けるのが、大人の仕事ではないかと感じています。
 しかし、子どもたちが進学や就職などを経て、より広い世界に飛び込んでいけば、大人が自分の気持ちをくみ取ってくれることはもう期待できなくなる一方、今度は自分が相手の意思をきちんとすくい上げようと努めなければならなくなります。そのような世界で、志高塾で学ぶ子どもたちには、周囲に求められる人材であるとともに、自分自身が求めている人間になってほしいです。
 求められる人材と言っても、学問、医療、政治、芸術など様々な分野を挙げれば、それぞれ全く異なる知識や技能を習得しなければならないし、その中で自分の考えを発信する形態も、論文、交渉、企画、通信等、多様なことと推されます。ですが、どのような道に進んでも、他者との関わりは確実に存在し、そこには必ず言葉のやり取りが付随します。難解な教材よりももっと形が曖昧で目に見えにくい情報や、逆に真実を覆い隠す大量の空言が溢れているかと思います。丁寧な意思の疎通を心がけても、誤解や無理解に打ち当ることは免れません。何のヒントも与えられないまま、ひたすら新しい発想や創造を求められることもきっとあります。その時、目の前の難題から目を逸らさず、何が重要なのか、どこの表現を変えれば人に伝わるのか、どんなアイディアならば現状を打破できるのかを、自分で考えることのできる人が、どこに行っても求められるはずです。自分で考えるということが、決して自然にできるような当たり前の行為ではないという事実を、志高塾での訓練を通して心得ている子どもたちには、その自力が今まさに蓄えられていると思います。
 人間同士の結びつきは、日本語や自国の文化の枠を越えることもあるかもしれません。今日、様々なバックグランドを持つ人々、異なる言語、文化、宗教などと触れる機会が増えています。では、交通や通信技術が発達すれば、英語や世界史を勉強すれば、あらゆる垣根を容易に越えることができるのかと言うと、やはりそうではないと思います。単語や文法を覚えること、正しい知識を身に付けることは必要ですが、それらを整然と並べたところで、決して自分の言葉や理解にはなりません。言葉の奥行きを知り、頭の底から考え続けた上で、目の前の人や物事の、外皮ではなく内実を見極めようとする努力が必要です。そして、生身の対象についてどんなに考えたところで、たった一つの正解に辿り着くことは、ほとんどないということも、心に留めてほしいと思います。正解するゴールではなく、理解に近づく道程を大切にし、相手の事をわかったつもりで終わることがない人であってほしいのです。そのように自分が伝えたい気持ち、相手を知りたいという思いを、自分なりの言葉に置き換え、何度でも送り届けようと試みる人こそ、本当の意味で「言葉が通じる」、心のやり取りができます。相手が縦横どの位置にいるのか、地域や国がどこであるかはわかりませんが、その姿勢は必ず求められ、信頼に足ると認められるはずです。
 他者から求められるということは、社会で活躍するために重要ですが、求められようとするだけでは、どこか「自分」が足りないようにも感じられます。そこで、自分自身が求めている人間になれる人、というもう一つの希望を、志高塾の子どもたちに抱きたいと思います。これは、自分が思い描く夢や未来を、キャンバスの上にきれいに塗りつけるだけでなく、現実で立体的な形に作り上げていくことを期待してのことです。
自分がなりたい人になる、やりたいことをやるということは、意外と難しいことです。まず、自分の頭や心の中にどのような考えや理想があるのかを、きちんと見つけなければいけませんし、実現に向けての具体的な方法、必要な道具や進路についても、吟味する必要があります。更にその後、家族や先生、社会人になれば上司や顧客などに、自分の内側にしかなかった設計図を、言葉に換えて伝えなければならない事もあります。自分の人生なのだから、大人になったら自由にさせてほしいと、特に身内に対してはそんな風に思うかもしれません。しかし、本当に大人になったなら、自分をそこまで育ててくれた人たちに、自分の言葉でこうありたいという意志や展望を示さなければならないと思います。その日を、その言葉を待ちながら、その人たちはずっと見守ってきてくれたからです。また、もしもそのプランが個人ではなく、周囲の人と協力して達成するべき仕事ならば、それがうまくいくための根拠、計画、ヴィジョンを、仲間にわかりやすく説明する必要があります。自分の言葉を声にのせ、紙の上に記し、相手がどこまで理解しているのかも、読み取らなければなりません。そしてこれらの行動は最初から最後まで、自分の頭と心を総動員して考えることを根源としていると思います。
 どんなに成長しても、夢が叶っても叶わなくても、決して自分自身から離れることはできません。たとえ自分の事を信じられなくても、嫌いになっても、自分は他の人になれないし、代わってもらうこともできません。それならば、なるべく自分自身が求めている人間に近づいてほしい、多少は信じられる自分、好きでいられる自分であってほしいと思います。誰かに否定されれば自分を疑いたくなりますし、自分の全てが間違いだと感じることもあります。自分が間違っているなら考え直さなければならない、信じたいならば相手を説得することが必要です。その苦しく終わりの見えない作業の中で、確かな答えを与えられることのない世界で、他者と自分の両方から求められる人になってほしいです。
 作文の好きな子、嫌いな子、特に興味のない子、様々だと思います。ですがどの子も、頭や心の中に、何か面白いものを持っています。そして、周りや自分自身がそれに気づくための、良いきっかけをくれるのは、やはり言葉です。うまい文章、というよりも、彼らの生き生きとした心の素材がそのまま表されたような、そして相手の芯にしっかりと到達するような、自分だけの言葉を探し続ける人でいてくれることを、次の世代の子どもたちが、そんな大人をかっこいいなと思い真似してくれることを、最後に願います。

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