
2025.11.18Vol.711 最近のニュースに触れて考えたあれやこれや
まずはあれから。クマのニュースが世間をにぎわせている。そして考えた。社会学と似てるな、と。社会学について、Geminiの回答は以下の通りであった。「社会学とは、社会の仕組み、人間関係、集団のあり方などを研究する学問です。社会現象を統計やデータで分析し、個人と社会の関わり方を解明します。研究対象は家族や地域社会から国家、さらにはグローバルな問題まで幅広く、様々なアプローチで社会を多角的に探求します。」。社会学というのは、実際に起こっている現象を元に、「こういうことが原因として考えられる」、「この先こういうことが起こるかもしれない」といったように考えるので推測の領域が科学的な学問に比べて広いのだ。最近、専門家が出てきてクマについて解説するのを聞くたびに、去年まで語られていたことは何だったのか、となる。生き物なので明らかになっていないことがあるのは理解できるが、それにしても、今年になって一気に新しい話が出てきている気がする。「肉食のクマが増えている」、「クマは一度覚えた味に執着する傾向がある」、「クマの記憶力はものすごく良い」などなど。今年、クマが大量に出没するようになり、それに理由を後付けしている気がしてならない。その中で個人的になるほど、となったのは、ぶななどのドングリの実が豊作のときは子供をたくさん産む、凶作のときは餌を求めて人里に降りてくるという話だ。しかも、縄張り争いに負けた親子がやって来る。と言うことは、人間が駆除したとしても、山奥にいる強いクマの遺伝子は引き継がれていくのだ。去年は豊作で個体数が増えたらしいのだが、もし3年ぐらい豊作が続いたら、人間は油断し、久しぶりに訪れた凶作の年に大量のクマがやって来て大変な騒ぎになるのだろうか。そして、そのときにまた専門家がメディアに多数出演し、新たな説が生まれるのだろうか。
次にこれ。「殺傷能力ある武器、輸出拡大へ 自維、年内にも与党協議会を設置」というタイトルの朝日新聞の記事の冒頭の段落をそのまま紹介する。「日本から輸出できる武器を『救難・輸送・警戒・監視・掃海』の五つの目的に限定する『5類型』の撤廃に向け、自民、日本維新の会の両党は年内にも与党協議会を設置し、議論を本格化させる方向で検討に入った。『5類型』撤廃が実現すれば、殺傷能力のある武器の輸出が大幅に拡大することになる。政府・与党は来年中の実現を目指す意向だ。」これに対しては、それなりに批判が起こることは容易に想像できる。そして考えた。開塾当初の中学受験前と似てるな、と。当時、年明けに朝から教室を開けることを私はよしとしなかった。学校なんて休まなくても普通に合格して欲しかったからだ。その期間に休むことを助長したくなかったのだ。結果、どうなったか。我々が教室を開けなければ、生徒たちは進学塾に行って自習をするだけの話だったのだ。5年目ぐらいからだろうか、冬休みから引き続き3学期が始まっても朝から授業を行うようになった。先のニュースに関して、いろいろな専門家の話を聞いたわけではないのだが、日本が輸出しなければ、代わりに他国から粗悪品が入る可能性が高いらしいのだ。9月にベトナムのホーチミンで戦争証跡博物館を訪れた際に、たくさんの目を背けたくなるような写真を前にしておそらく人生で初めて考えたことがある。それは、戦争が良くないのはもちろんのことなのだが、その被害が戦後も続くことは避けなければいけない、ということ。枯葉剤のことを言っているのだ。3代後ぐらいまで障害が出る可能性があるということが説明されていた気がする。どのような武器が輸出の対象になっているのかは分かっていないのだが、もし、それが爆弾であった場合、不発弾が多ければ多いほど、戦争が終わった後も生活は脅かされ続けることになる。
クマを駆除することをかわいそうだと反対する人がいる。防衛予算を増やすことを、経済的な理由からではなく平和的な視点から反対する人がいる。人それぞれ考えが違うのは良い。自らの立場を決める前にやるべきことは、それに関して具体的にイメージするということである。家の前に実際にクマが表れてもそのようなことが言えるのだろうか。南沙諸島に人工島を作り、軍事施設を建設している中国は本当に話し合いができる国なのだろうか。
先日、ゴルフをしているとバンカーの中をシカがのんびりと歩いていた。シカが出ることはそこまで珍しいことではないのだが、ほのぼのとした光景にひかれて思わず写真を撮った。その近くの畑作農家の人も同じように感じるのだろうか。意見作文に取り組んでいる生徒たちに対してやるべきことは教えている我々の考えに近づくように誘導することではない。そのテーマに関して、少しでも多くの材料を与えることである。単なる感情論ではなく、それらに基づいて生徒が論理的に出した意見であれば、それがたとえ我々の対極にあったとしても大いに評価すべきことである。








