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2021.08.24Vol.508 がんばることの見つけ方

 高1の女の子から「先生、どうやってがんばること見つけたら良いん?」と問われ、「それは難しいなぁ」と返した。
 就職活動のとき、そのことで私自身すごく苦労した思い出がある。履歴書の自己アピール欄では、がんばってきたことについて触れるのが一般的なので、必死になって材料を探してみるのだが見当たらない。面接でも往々にしてそのことを尋ねられる。もし、大学入学直後に同じ質問をされたら「高校時代は、勉強だけでなくクラブ活動もがんばりました」と自信満々に答え、どのような工夫をしたかも雄弁に語れたであろう。しかし、その勉強も怪しいものである。悪くない程度の結果が出たから時と場合によってアピールの材料にできるだけで、がんばったかどうはまた別の話だからだ。その高校時代のことを履歴書に書けば良いかと言えば、話はそう単純ではない。大学生になってからがんばったことは何もありません、と言っているようなものだからだ。結果的にどうしたのか忘れてしまったが、今も昔もそのようなことで嘘を付くのは嫌なので、高校時代のクラブ活動のことを書いたような気がするし、そうでないような気もする。今、面接をする側なってみると、がんばっていることがないことよりも、どうでも良いことをさもがんばったかのようにアピールされる方がしらけてしまう。「この人は、この程度のことでがんばったと思うのか」となってしまうからだ。そんな私なので、「何をがんばりましたか?」という類の質問はしていないはずである。
 一体、どのような大学時代だったのか。それこそがんばれるものを見つけようとずっともがいていた気がする。しかも、それは結果的に20代の10年間続いた。私が10代の頃は、「良い大学に入って、良い会社に就職して」という考えがまだ社会にそれなりに根強く残っていて、同時に「もうそういう時代は終わった」ということも聞かれるようになっていたので、ちょうど転換点にあったのかもしれない。「良い大学に入れば安泰」なんて考える奴はアホや、と心の中で馬鹿にしていたのに、目標の無い自分も結局は同じではないか、と随分と情けない思いをしたような記憶がある。
 昨日、高3の女の子の推薦入試用の志願理由書の添削を行っていた。「大学で学びたいこと」、「学業以外で力を入れたいこと」といったようなテーマが4つ、5つあり、それぞれ200~400字の字数制限があったので合わせて1,500字程度は書かなければいけない。提出期限がもう少し先なので完成までは至っていないが、「こういうのは期限があるのでそれに間に合わせる必要はあるけど、ただ書くだけでは意味がなくて、高校時代を中心にこれまでを客観的に振り返り、大学生活を少しでも具体的にイメージすることで、先につながるようにせなアカン」と伝えた。ふと、「俺は大学受験用の作文の添削をするのが結構好きなのかも」という気がしてきた。「俺と同じ轍を踏まないための手助けができている」という思いが前のめりにさせているのかもしれない。この手の作文に真剣に取り組むというのは、新型コロナのワクチン接種のようなものである。感染することではなく、重症化することを防ぐことを目的とした。大学生になってからの目標をどれだけ周到に立てようが、入学後に想定外のことはたくさん起こる。それにより変更を余儀なくされることもある。それはそうだ。どこの大学もパンフレットを見れば一様にキラキラしているのだから。淡い期待が打ち砕かれても、準備ができていれば立ち上がってまた前に進んで行ける。
 冒頭の話に戻る。「それは難しいなぁ」で終わってしまえば救いが無い。だから私は、「がんばっている人の多くは、見つけたのではなく、それに偶然出会っただけやで」と続けた。要は、そのようなものがない自分を必要以上に責めなくてもいい、ということを伝えたかったのだ。大谷翔平は常人では考えられないぐらいの努力をしている。それは間違いない。だが、そのこととがんばることを自ら見つけたかは別の話なのだ。もちろん、多くの人が見つけられていないからといって、自分もそれで良いとはならない。自分を見つめ、視野を広げることで出会えるようにしなくてはならない。その可能性を高めるのに、作文と読書ほど効果的なものは中々に見当たらない。
 これだけ「がんばるがんばる」と書いて来たが、そもそもその言葉が好きではない。努力と言う言葉も。ついでに言うと安泰という考えも。

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