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2019.10.29Vol.420 希可義

 チュートリアル徳井の問題から考える。
 私の場合、申告はすべてお任せしている。志高塾は売上も経費もすこぶる単純だ。新たに入塾した生徒を除けば、口座振替にしているため授業料は口座にまとめて振り込まれる。経費にしても、人件費と教材や本の費用、その他教室の備品が主なところなので領収書もかなり少ない。1年目だけは会計ソフトに入力する作業までは自分でやっていたのだが、2年目からはそれもやめて通帳のコピーと領収書を渡すのが私の役割である。
 人が行動を起こすとき、次のようなことを次のような手順で考えていく。まず「やりたいか(希〇)やりたくないか(希×)」があり、その次に「できるか(可〇)できないか(可×)」、そして最後に「やらないといけないか(義〇)やる必要がないか(義×)」が来る。一般論のように書いたが、順序が変わることがあれば別の判断基準が必要なこともある。
 彼にとって申告は「希×可×義〇」ということになる。自分でできないのであれば人に任せるしかない。私にとってのそれは「希×可〇義〇」であった。特に最初の数年は生徒も少なかったので、時間もあったし作業量も少なかった。逆に、税理士の先生に払う費用負担は当時の売上から考えると楽ではなかった。それにも関わらずそちらを選んだのはそんなことにたとえ少量であっても自分のエネルギーを割きたくなかったから。一方で、花を生けることであったり教室の掃除であったり、というは「義〇」な事柄であった。義務は、税金のように人から与えられたものと自らに課したものとがある。自分でやるべきかそうでないかの選別は、志高塾の教育の質を上げることにつながるかどうかで決定する。そして、教育に直接的に関わることよりも間接的な方により注意を払う。間接的なことに対する自分のアンテナの感度が鈍くならなければ、直接的な方で大きく道を誤ることはない。人間だから誰でも間違いは犯すが、修復可能な範囲に収まるはずだ、というのが私の考えである。
 高校生の頃、数学が苦手なのに理系を選ぶ同級生が不思議でならなかった。その時の私は「可希義」で考えていたからだ。できないんだからその道を選ぶのはおかしいだろ、と。要は、「可×」の時点で結論は出ているだろ、ということである。その反面、そういう選択をできる人ってすごいな、というのがあった。
 つまらない自慢をよくするのだが、私は6年生に混じって5年生で一人、少年野球チームでレギュラーを取り、しかも1番バッターを任されていた。当時3番を打っていたAさんはその後プロ野球に進み、今も2軍のコーチをしている。才能はずば抜けていた。そのAさんは高校で、大阪から遠く離れた別の県に野球留学をした。そして、1年生で甲子園に出場して4番を打っていた。小学生の頃4番を打っていたBさんは、公立のトップ校に行けるぐらいの成績を取っていたらしいのだが、Aさんと野球がしたいとの理由で同じ高校に進学した。Aさんはスポーツ推薦による、Bさんは受験をしての入学であった。結局、Bさんは3年生になってもベンチにも入れなかったというのを伝え聞いた。それを知ったとき、そんな選択ができるBさんと比べて自分は無難な道を進んでるだけのつまらない人間じゃないだろうか、という疑問が頭をもたげた。
 この文章のタイトルを初めは「可希義」としようとしていたのだがやめた。できるかどうかの前に、やりたいかどうかを考える方がきっと楽しい。この前、ある中学生の生徒のお母様が「先生は笑われるかもしれませんが」と前置きをされた上で、「あの子数学ができないのに理系に進みたいんです。将来やりたいことがあって、そのためにはそっちを選ばざるを得ないのです」とおっしゃっていた。仮に笑っていたとしたら、そういう考えを持てなかった過去の自分を思い出しながらのひきつったものになっていたに違いない。
 親御様から「うちの子本当に大変ですみません」と言われることは時々ある。ほとんどの場合「全然そんなことないですよ」で終わるのだが、中には「いや、ほんと死ぬほど大変です。まあ、でも頑張ります」と返すこともある。その子供の学力を伸ばすことは、その他の塾にとっては「希×可×義×」なのだ。我々にとってはどうか。「希〇可〇義〇」と言いたいところなのだが、実際は「希〇可?義〇」であろう。それゆえその生徒に多大なエネルギーを割くことになる。でも、きっとそういうことができなければ、できる子に対しても手を抜いてしまう。「希〇可?義〇」の生徒を引き受け続けられる志高塾で、「希〇可×義〇」に果敢に挑戦できる人でありたい。

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