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2023.10.31Vol.613 損とく勘定

 週1回、授業に赴いている小学校で「『怒らないから言いなさい』と先生や親から言われたことがある人?」と質問をしてみた。そのとき扱っていた読解問題の本文で、主人公の少年がクラスメイトの絵の具を珍しさゆえに盗んでしまい、先生の部屋に呼ばれた場面が描かれていたからだ。本文は有島武郎の『一房の葡萄』という小説の一部で、調べてみると1920年に雑誌に掲載されたものであることが分かった。絵の具はまだ高価だったのだ。今とは異なる昔の時代背景を知ることができるのも読書の良さの一つである。そのような意味で、推理小説であれば松本清張を勧めることが多い。50年後であれば、東野圭吾を推すのかもしれない。松本清張の著作は推理小説に限定されていない。実際、アマゾンの著者紹介には次のようにあった。『点と線』でブームを巻き起こした社会派ミステリーを始め、歴史・時代小説、古代史・近現代史の論考まで多岐にわたり活躍。『小説帝銀事件』を読んだときに、「この人はこんなものも書くのか」と驚いたことを記憶している。実際に起こった事件が元になっていて、当初はノンフィクションとして世に出す予定であったのだが、社会的な影響力を考慮した出版社が小説という形を取らせたとのこと。それゆえ、正確には「ノンフィクション小説」ということになる。彼の推理小説が面白い理由をそこに垣間見た気がした。精緻に調べた上で想像力を発揮しているのだ。『点と線』の電車のトリックも単なる思い付きでないからこそ、時を経た今でも新鮮さがあるのだろう。今年の9月に三男と小倉城を訪れた際、その敷地内に「松本清張記念館」があるのを偶然見つけたのだが、時間の都合上寄れなかったのが残念で仕方がない。長男も私の影響でそれなりに彼の本を読んでいるので、そのうちに一緒に行こうかな。
 さて、冒頭の質問に対して、ほとんどの生徒が手を挙げた。全員だったかもしれない。「正直に言った結果、怒られた人?」とさらに聞くと、誰一人として手を下げず、「あのときはだまされた」などと漏らしていた。そのようなとき、生徒にも子供にも、私は一度として前言を撤回したことがない。今朝、この書きかけの文章を目にした二男が、「あっ、昨日ちょうどそれ聞いた」と教えてくれた。「(持ってくることを禁止されている)スマホ持って来てる人、怒らないから正直に言いなさい」と担任の先生が言ったが、誰一人として名乗り出なかったとのこと。「僕は誰が持って来ているか知ってるけど」と付け加えていた。まだ我が子が小さかった頃のことだから、おそらく10年ぐらい前のことになるのだろうが、「言うこと聞かないんだったら置いて行くから」という親の言葉に違和感を覚える、ということをいずれかの『志高く』で書いた。残されたままの子供を私は見たことがない。そんなことを繰り返すから、言葉に重みが無くなるのだ。そんなことをしておきながら、「子供は私の言うこと聞かないんです」と嘆いても、後の祭りである。当然のことながら、そのような状況での子供への言葉は、脅しのためではなく、心を動かし、行動を変えさせるためにあるべきなのだ。  
 昨日、宿題をちゃんとやってこない小5の女の子の算数の授業があった。我々のところで始めて半年ぐらいだろうか。当初は、「やったのに忘れた」とよくある嘘を付いたり、「やってきました」と出すもののプリントの枚数が足りないので追及したりすると、「えっ、そんなはずない」などととぼけていた。「持って来てなければ一緒や」と居残りを伝えると、自分が悪いにも関わらず不貞腐れていたのだが、昨日は「プリント足らへんぞ」と指摘すると、しばらくしてから「あっ、やっぱりありました」といった感じでかばんの別のところから白紙の状態のものを出してきた。それを受けて、「あのな、残ることを受け止められるようになってきたことも、嘘を突き通さへんようになったことも評価するけど、大事なのはちゃんとやってくることやから」と釘を刺した。もう一人、私にこれまでどれだけの手を掛けさせてきたんや、という高一の女の子がいる。小2の頃からの付き合いである。物は考えようで、どれだけ私に叱責されても通い続けていることは一定の評価に値する。先日、授業の日に、本人が「先生、ハー、熱が出て、ゴホッ、しんどいので、フー、今日は、ウッ、休みます、オホッ」といった感じで電話をしてきた。その後、お母様に電話をして、「自分で連絡して来るようになったのは成長なのですが、いかにもしんどそうな風を醸し出すので、あれは止めた方が良いとお伝えください」とお願いした。それを聞いたお母様は、電話口でめちゃくちゃ笑っておられた。
 小学校での授業において、その話題の締めに最近当て逃げをした芸人の話をした。好きの反対が嫌いでなく無関心であるように、損の反対を得ではなく徳と位置付ければ、傷口を広げずに済むのではないだろうか。思いがけず問題が起きた際、隠すことで得をする、正確には損をせずに済むということはあるかもしれないが、徳を積むことはできない。こういうことは、その状況に置かれてから考えているようでは遅い。物語の中の女性教師は、そっとひざの上に一房の葡萄を置いてあげただけで何も聞くことはなかった。そんな天使のような振る舞いは私にはできない。小学生に徳の話などしても理解できないので、問題を浮き彫りにした上で、正直に言うことで得するという経験を積ませてあげたい。それが損徳勘定で物事を考えられる人間になるための一歩である気がする。

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