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2023.08.01Vol.601 志高塾誕生前夜に考えていたこと

 いつもは回転するところにしか行かないのだが、この週末は回転させない寿司屋に連れて行っていただいた。その話は後ほど。
 ネタが熱いうちに書け。文章にはそんな格言があるとかないとか。先週、「beforeとafterの間」を行ったことに伴い、順番を前後させ、今回は自分で塾を始めると決めてからのお話。5類に移行してから、私自身初めてコロナに罹り、志高塾として初めてのオンラインイベントを開催した。世の中とのタイミングがずれている感は否めない。
 前回、「教育が一番手っ取り早いが、数学(算数)だけはしたくない」と述べたが、それと同様に「松蔭塾だけには絶対にしない」というのがあった。親御様から進学塾の授業選択について相談をされたとき、「優先順位を付けるだけなら誰にでもできます。大事なのは、どれを受講しないかを決めることです」というようなことを伝えることは少なくない。何をしないかを決断するためには、本当に必要なことが何かを分かっていなければならない。きっと、その逡巡している過程で、その「本当に必要な何か」の輪郭がはっきりしてくるのだろう。塾名に話を戻す。そんな名前にしてしまうと、自分というのが天井になってしまいそうで嫌だったのだ。私より断然優秀な子供が学び続けたい、そんな塾にするには自分の名前など冠している場合ではなかった。いろいろと考えて、候補に残ったのが「志高塾」と「サンバ(Samba)塾」。カタカナであろうがアルファベットであろうがブラジルのダンスを思い浮かべられてしまうので落選の憂き目にあった。元は「産婆塾」なのだが、それでは出産を想起されてしまうためにカタカナなどにしようとしていた。塾名について考えているときに、「産婆というのは、子供を引っ張り出すのではなく、あくまでも妊婦が自ら産もうとするのを手助けする役割なのだ」ということが本に書かれていたのを読んで、「自分のやりたい教育ってこれやん」となったのがきっかけ。「これはこう」と教え込むのではなく、生徒が自ら考えられるようになるための訓練の場にしたかったからだ。名前という形は無くても、その概念は自分の中にきちんと溶け込んで、今も外に染み出してはいないはずである。
 さて、スピーカーの川本君と参加していただいた皆様のおかげで成功裏に終わった「beforeとafterの間」。私の役割は、冒頭の3~5分の話で少しでも場を温めることであった。気を付けたのは、校長先生の話のように長くなり過ぎないようにすること。それゆえ、あのときはかなり短くまとめざるを得なかったので以下で補足する。
大学生になってからも1年に1回のペースで顔を合わせていたが、コロナでしばらく空いて去年3年ぶりに会った。そのときに川本君が「久しぶりに会っても、昔と変わりなく話ができますね」というようなことを漏らしたので、「そりゃ、長い付き合いやからなぁ」というように返した、おそらく。先日も5時間ほど一緒にいたが、話は尽きることがなかった。そのことを話題として取り上げることにしたため、スムーズに話ができるのはなぜなのか、ということについて考えた。初めに思い浮かんだのは共有認識が持てているから、ということ。ここでいう共通認識とは、ある事象に対して同じ考え方を有しているということ。しかし、すぐに「それは違う」となった。ある事象に対して、「これはこう考えるべきだ」という教え方はしてきていないからだ。我々の役割は生徒がAとBという2つの選択肢しか持っていなければ、Cだけでなく、できればDやEまで与えることである。その中からどれを選ぶかは生徒の自由であるが、それも「後は勝手にどうぞ」ではなく、根拠を持って納得の行く選択をできるように論理的な思考ができるようにしてあげなければいけない。共通認識でなければ何なのか、となり、行き着いたのが相互理解。相互理解というのは、ある事象に対して、一方はAを、他方はBを、といった感じで意見が異なってはいても、相手がそれを選ぶ理由をお互いきちんと理解しているということである。作文の添削を通して、知らず知らずのうちにそういうものを積み上げていたことに今回初めて気づいた。考えてみれば当たり前のことなのだ。作文のテーマにおいて川本君が出した結論に対して、「まっ、こんな感じでいっか」とゆるがせにすることなく、その度ごとに、ああでもない、こうでもないとやり取りした上で、きちんと締めくくっていたからだ。相手がどういう考えを持っているかを理解しているほど、会話のときにいらない気遣いをしなくて済む。その心理的安全性が担保されていることが重要なのだ。それゆえ、「そりゃ、長い付き合いやからなぁ」は適切ではなかった。算数や数学を教えていたら、相互理解は大して深まらなかったはずだからだ。
 そして、もう1つ欠かせないのが、大切にしている価値観が変わらないこと。私がいかに生徒を増やすか、ということを一生懸命考え始めたら、これまで築いて来た周りの人たちとの関係は立ちどころに壊れてしまうはずである。志高塾を知らない人に、教室や生徒の数を伝えたときに、「すごいですね」と驚かれるぐらいの規模にしたいという気持ちが無いかと言えば噓になる。だが、そんなことよりも、長年お子様を通わせ続けた親御様に、生徒自身に「志高塾に通わせてて(通ってて)ほんとに良かった」と満足してもらうことを優先させたい。高い質を保った上で量を追い求められれば良いのだが、それには私の経営者としての能力とエネルギーのいずれか、もしくは両方が欠けているせいで実現は難しそうである。
 ここまでそれなりの字数を割いて来たこともあり、寿司屋の話は持ち越すことにした。それであれば冒頭の段落を削ってしまえば良いのだが、うまく表現できた手応えがあるのと、備忘録も兼ねて残しておくことにした。次回、そのことから始める予定にしている。

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