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2024.03.03vol.16 アイのある人間(竹内)

 「ここは『アイ』が多い」「『イー』じゃなくて『アイ』」と、大学受験対策の授業でやり取りしていた際に生徒が言い出した。「愛」?確かに愛情を持って今もこうやって指導してますけども、とひっそり納得したのも束の間、どうやらMBTI診断という性格テストで分かる一要素のことだったようだ。そういえば昨年に予備校時代の友人がこれを紹介してくれたのだが、その時はおしゃべりの片手間に選択肢をタップしていたこともあり、出てきた結果も忘れてしまった、ということを思い出した。①興味関心の方向、②物事の見方、③判断の仕方、④外界への接し方という4つの指標についてそれぞれ2つのパターンがあり、最終的に16種類の性格に分類される。血液型占い的なものかと思っていたのだが、調べてみると心理学的に確立されている性格分析のようだ。確かに、先の4つの観点のように、いくつかの切り口から見ていくと「その人」の姿が浮き彫りになって来る。就職活動においては自己分析の一つとして活用されるし、もっとフランクに、自己紹介代わりにも用いることができる。先述の生徒は①の点で、「志高塾には外向的(extrovert)なEじゃなくて、内向的(introvert)なIの人が多い」と感じていたそうだ。
 ネットや辞書を確認すればより正確な意味が分かるが、あえて自分の言葉にするならば「外向的」とは「他者を巻き込もうとする」こと、「内向的」とは「自己完結しようとする」ことだと表せるのではなかろうか。コミュニケーション能力の高さと結びつくのではなくて、コミュニケーションそのものに対する向き合い方。すすんで人と関わろうとすればそれだけ機会も増えるので自ずと対人スキルが磨かれる部分はあるだろうが、ただたくさん接するだけでは揉め事に発展してしまうことも多くなるかもしれない。反対に、一歩引いたところにいたとしても、相手をよく見ていれば適切な一言を発せるし、話も円滑に進めやすい。無論、どちらが良い悪いというものではなく、人それぞれどちらの側面も持っていて、その比率が少しずつ異なる。優劣のあるものではないが、その時々でどちらに意識を向けられるか、という切り替えは対人関係を築くうえでは大事なのだろう。
 せっかくの機会だしということで、その授業の後、「MBTI」で検索をかけて一番上に表示されたサイトで実際にテストしてみたところ、「ENFP(運動家)」の型に属していた。IではなくEだったということになるのだが、より細かく分析するとI:Eが4:6だった。一人でうだうだと考える時間と、そんなこと言っても仕方ないのでもう誰かと一緒に過ごしちゃおう、という時間が確かに丁度半々くらいではある。まあ、こういうのは後になって再度やってみると、また新しい結果が出ることもあるのだが。
自分がIの人間ではなかったので、「Iが多いのか」という問いに対して首を縦に振りづらいのだが、「内向的であることを大切にしている人が多い」と答えることはできる。文章を読んだり、書いたりする国語の取り組みはやはり内向きで、自分が感じたことや考えたことを取り出そうとする行為である。数ある塾の中から国語と作文に特化したうちを見つけ、働きたいと思ってくれる人たちは、その力を育むことの必要性への共感度が高い。一方で、自分がそれをできることと、子どもたちにそれができるようにしてあげることとはまた別物なので、その点において外向性が求められる。伝えるために、分かってもらうために、自分から相手に飛び込んでいかなければならない時がある。このような対照的な営みによって、私自身の4:6のバランスは成立しているような気がする。
 本来の自分の形を自覚しながら、しなやかさも鍛えていく。人と関わる仕事の醍醐味はここにある。この週末は志高塾の恒例のイベントである「十人十色」が控えているだけではなく、この春に卒業、就職する学生講師たちの送別会も行うことになっている。やっぱり、「アイ」は「愛」で良いかもしれない。長く生徒たちと接し、導いてきてくれた各講師をしっかり見送るとともに、次の講師へと繋がれていくように「運動家」の役目を果たしたい。

2024.02.23Vol.15 猫型ロボットがいなくても(徳野)

 先日、行きつけの美容院の店長さんが、私のうなじを剃りながら「僕、新しいビジネスを思いついたんですよ」と切り出してきた。ちなみに、この方とは学生時代からの付き合いであり、さばさばとしていながら配慮するべきところはきっちり押さえるバランスの取れた接客が心地良いので、気づけば7年近くお世話になっている。冒頭のビジネスも、店長さんの話術を「あなたはここで終わるような人間ではない」と評価する専業主婦のお客さんとの会話から生まれたものらしい。
そして、肝心のアイデアだが、この競争社会で簡単に明かせるものではない。それが理由かどうかはさておき、与えられたヒントから私が推理していく運びになった。「意志表示さえできれば誰でも参加できます」「商売の一番シンプルな形を思い浮かべてみてください」など、核心に迫らない絶妙なラインの手がかりをあれこれ示してもらったものの、私は的を外してばかりで、どんどん煮詰まっていってしまったため、最終的には『ドラえもん』の主題歌を元に正解を教えてもらった。(店長さんとの約束があるので、ここで具体的な事業内容は述べない)シャンプー中に「頭を柔らかくして~」という言葉と共に頭皮をマッサージされるほど脳が固まり切っている自分に恥ずかしくなりながらも、新鮮で充実した気分も味わっていた。60分間もしくは90分間の授業で生徒がどれだけのエネルギーを使っているかを、ほんの少しだけだろうが、身をもって知ることができたからだ。だが逆に言えば、子どもたちの感覚を掴み切れていないままやり取りに当たっていたのに加え、考えることに対して全力を出し切れていない現状を突きつけられたようなものである。石頭が出来上がるのも至極当然だ。
 鍛錬が足りないと痛感している最近、小論文に取り組んでいる高2の女の子と一緒に、ある教育関連のテーマに当たっている。それは「小学校の教員A先生が、クラスで一人だけ逆上がりが出来できずに落ち込んでいる生徒Bさんのために毎日放課後に個別訓練を実施したところ、Bさんは技を見事に決められるようになった。自分事のように感激する教員であったが、Bさんは笑顔で『先生、これでもう逆上がりの練習をしなくていいんだね』と発言したのだった。」というケースから、A先生が何を学べるかを探るものだ。今まで基本的に「教えられる側」として学校生活を送ってきた生徒にとっては指導者の立場で建設的な見解を示すところに難しさがあり、子どもの感情を全面的に受け入れることも頭ごなしに否定することも避けなくてはならない。私も授業に備えて、Bさんが「もう練習しなくていいんだね」という解放感に至った原因を探っていると、ふと小学5年生の夏を思い出した。 
 言い訳がましいが、私は生まれつき運動全般がからきしである。(おそらく、本気の徒競走で5歳児に負ける父親からの遺伝だ)案の定、水泳をしても犬かきで5メートルが限界だったし、そんな子どもは33人の学級で私を含めて3人しかいなかった。ところが、11歳を目前に控えた7月、なぜか唐突に、泳げない自分が猛烈に許せなくなった。そして、そこからの行動は早かった。当時の小学校では放課後にプールが1時間ほど開放されていたので、ピアノのレッスンが無かった水曜以外は通い、友達と賑やかに戯れる同級生たちを横目に、観察に基づいた自己流のやり方でクロールの練習を始めた。ビート板を使ってかなりみっともない姿を晒していただろうが、3週間後には25メートルを、さらに2週間後には50メートルを余裕で完泳できるようになった。私の変化を見た先生たちは「もしかしたら市の大会に出られるかもしれないな」と評価してくれた。(その域には達しなかったが)周囲の大人に褒められたのは勿論嬉しかったものの、何より、「自分の力で目標を達成する」という経験が自信を与えてくれたのに違いはない。その事実があったからこそ、夏休み中も練習のモチベーションを維持できていた。
結局クロールしか出来るようにならなかった私など比較対象にならないかもしれないが、Bさんに必要だったのは、逆上がりを成功させるという「結果」だけでなく自分なりに頑張ってみる「過程」なのだ。クラスメイトたちに追い付くという目標設定も、放課後の特訓も、ともにA先生の意志によるものである。ただでさえ不得意な教科に対峙しているのだから他者から一方的に多大な要求されて苦痛にならない方が無理な話だ。せめて授業時間内で本人のペースで進められるよう支えてあげるべきだろう。

 ここまで書いて(打って)きて気づいたが、今の私の脳みそは負荷と同時に不思議な軽やかさを感じている。一般論のレベルでの記述が求められる小論文の題材に対して、聞きかじった知識や理屈よりも有機的な「自分自身の過去」という切り口から考察を広げていけたからだろう。そういえば美容院の店長さんが『ドラえもん』を持ち出してきたのは「童心に帰れ」と伝えたかったからではないか。私は生徒の頭を物理的に揉みほぐせない。だが、机に向かいながらでも、脳内世界ではその時いる時と場所を超えた柔軟な思考の「旅」をしていくための刺激の提供者でありたい。

2024.02.09Vol.14 反芻(三浦)

 反芻する、という言葉がある。
 念のため辞書を引いた。三省堂の例解国語辞典(第十版)には、「①ウシやラクダなどの草食動物が、いちど飲みこんだ食物をまた口にもどして、こまかくかむこと。②頭の中でくりかえし考えたり、味わったりすること。」とある。日常会話や文中で登場する際にはおおよそ②の用法になり、「喜びを反芻する」「先輩からの言葉を反芻する」のように用いる。
 さて、小学生だか中学生だか忘れたが、その年の頃になにかの本でこの「反芻」という表現を見かけ、「なんかめっちゃかっこいいやん、使えるようになろ」と思った。それ以降、文章を作る際には隙を見てはねじ込むように使っていた。いや、使おうとした。しかし何度試しても、なかなか自分の中では定着させられなかった。
 当時から携帯電話を持っていたので、文章を書くには専ら携帯電話かパソコンだったのだが、毎回「はんしょう」だの「はんぷく」だので漢字変換をしようとしては、見つからずに呆然としていた。芻の字がうろ覚えなので、それに伴ってぼんやりとした響きでしか浮かんでこなかったのだ。それに加えて、文脈からのイメージがどちらかといえば「(頭の中で)反響する」だったこともあり、こんがらがって、そして結局いつも「牛 何回も食べる 言い方」「牛 胃袋 多い」なんかで検索をかけた。おかげで牛の胃袋が四つあることだけは真っ先に覚えた。反芻は覚えられなかったのに、である。
 こんなエピソードを覚えているくらいだから、言葉を使えるようにするという難しさは身に染みている。田中芳樹氏の『銀河英雄伝説』を思い出したようにこの頃手に取っているのだが、なかなか使わない言葉が多い。聞いたことがあるのかないのか、前後の文脈からも意味はすぐにわかってしまう。それゆえ意識しなければさらりと読み飛ばしてしまうようなところに、ひっそりとそういった言葉は眠っている。同氏の『アルスラーン戦記』を中学生の頃に愛読していた頃はそういう感覚がなかったので、大人になってきて再び、そのアンテナが磨かれてきたのかもしれない。
 最近はnoteにも上がっているように、社員によるビジネス関連書の書評を始めている。なかなかそういった分野には触れてこなかったこともあり、こういった「わかるけど使わない」という言葉にあたる機会が増えている。ひとまずメモに残すようにしてみたが、どうやら「劣後する」「短兵急」などがそうだったようだ。
 理解語彙と使用語彙には開きがある。ざっとインターネットで検索をかけたところ、使用語彙は理解語彙の半分程度だという話を見かけた。実際そうなのだろう。あれだけ生徒に言っておいて、この作文でも同じような言葉をわんさか使っているはずだ。私の作文を遡れば、同じような表現しか出てきていないはずだ。むやみやたらに難しい言葉にする必要はないのだが、「わかるけど使わない」というラインの言い回しは憧れである。私の使用語彙を増やしていくしかない。聞きかじった言葉を反芻して、自分のものにしていくしかないのだ。
 おまけ。ちなみにこの話を文章にするにあたり、一度母に話題として「反芻するって使う?」と持ちかけたところ、すごい食いつきようで「めっちゃ好きな言葉、この間も使った」と返ってきた。血は争えない。

2024.02.04Vol.13 踏み出すための自己分析(竹内)

 結婚したくないわけではない。むしろしたい。
 「資料読解」という教材は、グラフや図表などの資料を読み取り、社会問題についての理解を深め、打ち手を検討する、というものである。この第1章のテーマは人口問題で、我が国で少子高齢化が進んでいる背景や、それが今後の社会に及ぼす影響を考えることになる。
2023年春の大学進学率は57.5%で、8年連続で最高値を更新している。短大や専門学校も含めた高等教育機関へのそれを見ると84%にのぼっており、文科省によれば各種就学支援の拡充・浸透が進学を後押ししている。一方で、OECDの2020年の調査結果では高等教育を受けるにあたっての日本での私費負担の割合は64.5%で、これは加盟国平均値の約2倍以上であり、第3位に位置する。また、厚労省によると18歳未満の子どもがいる家庭が2022年に1,000万世帯を割ったのだが、1世帯当たりの子どもの人数は「1人」が49.3%、「2人」が38%、「3人以上」は12.7%である。この調査が始まった1986年時点ではそれらの比率は4:5:1だったので、教育費をはじめとした経済的事情から第2子以降の出産をためらう「2人目の壁」が存在していることが窺える。
 そこに拍車をかけているのが晩婚化である。初産時の平均年齢は1975年に男性28.3歳、女性25.7歳だったのが、今はいずれも30歳を超えている。2、3年前くらいだと我こそはぴったりの例だと特段の意識なく生徒に説明していたが、ここ最近はふと「私ってその原因の一人やんなあ」と少しばかり気になるようになってきた。近年は独身者の中でも結婚の意欲が持てない人たちを「非婚者」に分類するが、今のところの私は「未婚者」の一人である。意欲があるのは他の誰かと一緒に子どもを育てるということに対するあこがれがあるからだ。
 親御様とのやり取りの中で、子どもたちへの期待と不安のどちらをも抱えて日々子育てされていることが伝わってくる。まだ成長過程にある子どもたちなので、心配することの方が多いのかもしれない。それでも、様々な苦悩に対して、子どもたちを導いてあげること、「こういうことができるようになってきた」というのを示せることが私の役目だし、些細な変化であっても、そういうものを共有できることは嬉しい。また、今回の中学受験を通しても、大変偉そうな言い方になってしまうが親御様自身が心を強く持つ姿に、親になっても多くの気付きがあるのだと学ばせていただいていた。私の姉も現在二児の母であるが、「親」としての顔がたくさん見える。親ではない立場の自分が子どもを育てることに携われることは、この少子化の世の中だからこそより貴重なことだとも言える。そんな経験をしていたら、「いつか自分も」という思いは強くなっていく。
 ただ、そういう気持ちとは裏腹に、大した行動をとってこなかったこともまた事実である。授業では生徒たちに起きている問題を踏まえて「自分にできること」を見出すよう求めているのだから、同じように自問が必要である。しかし結局のところそういうことを挟まずに「自分なんかが」とか、「こんな自分なんだから上手くいかなくて当たり前」という言い訳をいつもしてしまっているのである。ついこの前、小4の女の子に「言い訳するな」と懇々と話したところなのに。そういう痛いところから目を逸らさずにいられる人が魅力的な人なのだ。そんな自分になれるかどうか。仕事をすることは私にとって最良の自分磨きである。

2024.01.26Vol.12 (受験)戦争反対(徳野)

 上下巻合わせて約800ページを一気に読破してしまったほどの小説に久しぶりに出会った。桐野夏生の『グロテスク』である。有名作家の代表作を私がこの場でわざわざ取り上げる必要はないのかもしれないが、物語に「はまる」という感覚を味わったのはおそらく1年半ぶりくらいなので、自分が感じたことを掘り下げていこうと思う。

 この『グロテスク』は、発生から27年経った現在でも未解決の「東電OL殺人事件」に着想を得て書かれた作品である。ネットで調べていると、命を奪われた女性が大企業の管理職でありながら夜な夜な風俗業に勤しんでいた、という強烈な二面性が当時を知る人びとの好奇心を掻き立てた様子が窺える。だが、本作の主人公は事件の被害者をモデルとした「佐藤和恵」ではなく、彼女の高校と大学の同級生である「わたし」だ。区役所でアルバイトをしている中年の独身女性なのだが、人間的な弱さに関しては登場人物たちの中で突出している。長くなるが、和恵と「わたし」のクラスメイトだった「ミチル」のセリフを引用する。ちなみに、ミチルは東京大学を卒業して医者になったものの、家族ぐるみで入信したカルト教団での地位を上げるために罪を犯し、懲役刑を終えたばかりの頃に「わたし」に再会する、という壮絶な人生を送っている。以下は獄中から戻って来た時の言葉である。

あなたと和恵さんは、とてもよく似ている。あなたは本当はガリ勉だった。しこしこ勉強して、努力を積み上げ、運よくQ女子高に入学できたけれども、実力の拮抗している女子高ではそんなにできる方ではなかった。だから、あなたは勉強の面で勝つことを早々に諦めたのよ。そして、あなたも和恵さんと同様、高等部から入って来た時にあたしたちとの差に驚いて、何とか差を縮めたいと願ったはずだわ。(中略)でも、こういっちゃ悪いけど、あなたはお金がないからそうすることも諦めたのよ。あなたはファッションや男の子や勉強なんかに興味のない振りをして、悪意を身に付けてQ女子高で生き抜こうとしたんだわ。あなたは高校1年の時より2年、そして3年の方がより意地悪になっていった。あたしがあなたと離れたのもそのせいよ。一方、和恵さんは必死に皆に追い付こうとしていた。和恵さんの家は経済的にも可能だったし、勉強もできたから、中途半端ではあったけど付いていけるはずだった。だけど、あの人の懸命さがイジメの対象になった。夢中で追いかけて来るのが見え見えだったからよ。思春期の女の子って残酷だから、それがださく見えたのね。

 あまりにも明快な人物評からも分かるように、『グロテスク』は、学生時代に過酷な競争社会に身を置いた子どもたちの「その後」を主題の一つにしている。彼らは、人間の価値は成績や経歴によって決まり、ヒエラルキーの上位を目指すのが人生の目的であると教え込まれる。その中で優秀な和恵とミチルは学業や就職活動に猛烈に打ち込み、社会的に成功を収めたかのように見えたが、いざ実社会に出ると数値だけで評価されるわけではないし、理不尽な慣習に頭を打たれることもあった。そこで生まれた心の空白を埋めようと売春や宗教にすがった結果、一線を越えてしまった。
 しかしながら、もし物語の語り手が和恵だったら、私は本作を「社会の闇」を描いた過激なサスペンス小説としか受け取れなかったはずだ。いわゆるレースから脱落した自身から目を背け続ける凡庸な「わたし」の内面がどう変化していくかを追う構成になっているからこそ、そのきっかけとなった和恵の「崩壊」を少しでも自分に近づけて捉えようという気持ちが湧いてくる。卑屈ゆえに傲慢で臆病な「わたし」を、自己認識能力が痛々しいほどに弱い和恵を、他人事だとは思えなかった。そう感じながら読み進めていく中で心を抉られるような気分に陥ったことも何度かあったものの、客観視の機会を与えてくれる本の力を改めて認識させられた。

 『グロテスク』を手に取ったのは、統一入試日に行われた中学入試の結果が発表された頃だった。あくまで世間一般の話をすると、4年生から進学塾に通い、様々な我慢と重圧を乗り越えた末に難関校合格を果たしたような子にとって、今は12年の人生の中で最も希望に胸を膨らませている時期なのではないだろうか。それこそ都内屈指の名門校であるQ女子高の校門を初めてくぐった日の「わたし」や和恵のように。その一方で、受験を通して世界の広さを痛感させられた子(とその保護者の方々)もいるだろうし、志望校に入学してからショックを受けるケースも少なくはないはずだ。状況は人それぞれだろうが、子どもたちには自分の結果に対して「勝ち負け」という捉え方をしないでほしい、と伝えたい。勉学における競争には偏差値や順位といった数字による明確な優劣の判断が付き物だ。一度「勝て」ば誰かに優越することが目的になるのと同時に、「負け」れば自尊心を守るためにかえって自身の可能性に見切りをつけてしまいかねない。そんな表層的な部分で他者や自己の価値を決める生活の先に幸福は存在しないという「悟り」に至るよう、生徒たちを導いていくのは国語講師としての責務だと心に刻んだ。

2024.01.12Vol.11 ゴールのない道(三浦)

 受験直前。本来であればそれをテーマに話をしたいところなのだが、思いのほか余裕がないので、以前に書きかけていた内容を活用させてもらうことにする。
 少し前に読んだ本の話である。
 日々過ごす中、自分の数字への弱さに辟易すると同時に理系への憧れが増していき、本を読むのが手っ取り早いなと、本屋で偶然見かけた『ウォール街の物理学者』というハヤカワ・ノンフィクションに手を出した。めちゃくちゃに面白かった。細かな内容は忘れているので(覚え違いをしている可能性もあるので)、正確な情報が必要であればぜひ読んでほしい。
 ざっくりと言えば、クオンツと呼ばれる、数学的手法を用いる金融の人々に関するものである。物理学者たちが金融の数値変化にパターン、つまりはモデルを見出し、それに伴って様々な予想を立てられるようになったという歴史をさながら伝記のように辿っていく。数字に強くなろうと思って読み始めたにも関わらず、実際にグラフや理論が出てくると驚くほど全然頭に入ってこなかったのだが、興味深く読めたのはその根底に流れる歴史、そして「研究者の姿勢」ゆえ……だったのかもしれない。
 物理学者たちは仮説を立てる。その実証を行いながら、モデル化できていないところへの改善を重ねていく。つまりモデルはアップデートすることが前提にある。しかし金融界はそのことを知らないまま、あるいは見て見ぬふりをしたまま、まるで盲信するかのごとく古いモデルを使い続けるから、結果的には金融危機のような崩壊に直面するのだ、と筆者は述べている。急激な暴落を予測することは不可能だと言われているのは、単にアップデートが行われていないからだ、と。
 そういったプロセスも興味深くはあったのだが、なにより惹かれたのは、ずば抜けた才覚を持つ研究者たちが、分野の垣根を越えて研究を重ねていたことである。
 ルーレットを当てるために物理法則を用いて計算を行う、というのも面白いものだが、例えば大暴落を予知した研究者については、「大きな崩壊の直前にはあらゆることに共通のパターンがある」として、大地震の予知も行っている。しかもその発端は、宇宙船に使うタンクがどれだけの負荷に耐えられるかを検証したことにあった。
 閑話休題。占いを押し付けるつもりは全くないことをご了承いただいた上での話になる。他人を当てはめることは滅多にないが、自身の紹介として、ふたご座のO型という事実以上に簡素なものはない。性格占いで言われているだいたいのこと、つまりは「飽きっぽく、ひとつのことが長続きしない」が該当しているからだ。さて、そんな私にとっては、この本に出てきた物理学者のように「複数の物事に興味を持ち、共通点を見出し、新しいものを生み出す」ことは、その欠点を最大限有効活用した形として、理想のように映る。
 以上、感想文の再利用である。金融モデルというとどうしても実利的なイメージが先立つが、本書を読んでいるときには、研究者たちはそのためだけではなく、好奇心のもとで研究を行っていることが伝わってきていた。ありきたりな言葉に任せれば、だからこそ結果に繋がったのだろうとも思うし、それは素敵なことだとも思う。
 しかし、それはある一定の知識があって初めてたどり着く段階であることも事実である。それでもどうか、その道中を、学びを蓄積していく階段を、ひとつひとつ登っていく力が備わってほしい。そして辿り着いたところで、「他にも面白いものがあるな」と周囲を見回すような、そんな視野を身に着けてほしい。
 完璧なモデルがないように、道が一つに限らないように、明確なゴールはない。目に見えるひとつの「ゴール」とされがちな受験に思いを馳せながら、いろいろと考えだけを巡らせている。

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