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2024.09.08vol.33 古文の謎(竹内)

 「入試科目に古文は必要なのか」「これからの時代に古文を学ぶ必要はあるのか」ということがよく取り沙汰される。あからさまに不満を口にする生徒がいるわけではないが、「古文が好き」だという生徒ともなかなか出くわさない。好きである必要はないのでそれは大した問題ではないのだが。「やらないといけないからやる」の域を越えないことを実感しつつも、個人的には現代人は古文と付き合い続けるべきだと思っている。しかし、それがなぜかと問われるとまだ十分な答えを見つけられていない。ずっと考えている。子どもに勉強を促す際の声掛けの一つとしてよくあるのが、「将来の役に立つから」である。古文ほどそれがしっくりこないものはない。そもそも、ほかの科目であっても「役に立つ/立たない」という見方は結局好き嫌いの話へと発展していってしまう。理由が先にあるのではなく、それを探す、どうやって役に立たせようかと思案する方が、自分の中に取り込まれることは多くなる。
 つい最近、『源氏物語』を読み始めた。「いづれの御時にか、女御、更衣、あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」が冒頭の一文である。今も学校では暗記させられるのだろうか。こう書くとまるで原文にチャレンジしているようなので早めに白状しておくと、何年経っても進まなくては困るので、もちろん現代語訳されたものを選んでいる。各出版社が文学全集を様々に出しているが、河出書房からの「日本文学全集」シリーズ全30巻が現時点ではおそらく最新である。ハードカバーの色合いが鮮やかで、「いつか全部買い揃えたら本棚がカラフルになって良いな」と思い、手始めに購入したのがそれだったのだが、上・中・下巻からなるその圧倒的な長さのために「そのうち、そのうち」と後回しにしているうちに4年は過ぎていた。今年の大河ドラマでは作者の紫式部をモデルにしていることもあり、私の母親が興味を持って挑戦したのが春先。祖父の介護のために実家で過ごしておりそれなりに時間があったので、あっという間に読破したとのことだった。ちなみに母が持っていたのは田辺聖子による『新源氏物語』。私のは訳者が角田光代である。そういえばそのことも買ってみようという決意に至ったきっかけの一つだった。『さがしもの』という短編集があるのだが、これが氏との出会い。各話が良かったのはさることながら、あとがきを通じて好きな作家の一人になった。
 9月に入ってもまだ暑さは引かないが、それでも生ぬるかった吹く風がいつの間にか心地よいものになってきて、8月も半ばごろからはトンボが姿を見せ始めた。夏至を過ぎてわずかではあるが日照もこれから短くなっていくことがうっすらと感じられるようになってきた。こういう季節の変化や風景を、古文、特に俳句や和歌は逃さずその中に閉じ込める。そう考えると、過去を知れるという点では歴史と通ずる部分があるが、歴史は知識を与えてくれるのに対して、古文は感性を磨いてくれるものだといえるのかもしれない。日本最古の歌集である万葉集には、約4500首が収録されている。天皇のような身分の高い人物だけではなく、農民のような一般市民の和歌もたくさんある。今、巷にあふれるさまざまな歌に自分を重ねたり共感したりするのと同じように、昔の人々の言葉によって紡がれる思いが、今と変わらない新鮮さを感じるものであることは、不思議で興味深いことだ。
 この夏休み、公立中学に通っている生徒の何人かと古典の勉強を進めた。文法事項を押さえて、それが実際の文章にどのように用いられているかを確かめながら、一緒に内容を咀嚼していった。学校によるのかもしれないが、中3の生徒にどのようなことを習っているか尋ねたところ、まだ本格的には文法を教わっていないとのことだった。古文にかけている時間自体がそこまで多くないようである。一つ一つの設問に対して解答できることを目指すならば、助動詞やら係り結びやらをある程度覚えていれば事足りるのであろうが、それをもとにして文章全体の理解を深められるようにするならば覚えることにもっと時間を割く必要がある。知識はあくまでも道具として使えるようにしてあげるべきである。
 世界中で人気を博している『ハリー・ポッター』シリーズの日本語訳に対しては、いくつかの誤りが指摘されている。原著を読みこなせるレベルにはないのでそれに関して言及できないが、和訳であっても現代語訳であっても、直訳だけでは正しくとらえられず、文化や時代的背景も多分に考慮しなければならない。これは実は我々が教室で子どもたちに求めている「言い換え」とも通底している。ある言葉を別の言葉に言い換える時、文脈の中での意味を掴まなければならないし、反対にそれが持つ絶対的な意味を無視してはいけないこともある。訳者が違えば表現が異なるように、状況によって多少は絞られるにせよ、どの言葉を選ぶのかは本人次第である。読むという営みの本質は、自分が理解できることを明らかにすることにある。そうやって格闘していく相手として、本当は古文は打ってつけなのではないか。知らない、分からない、難しいからこそ、少しずつかみ砕いて、見えてくるものがあった時にものすごく気持ちがいい。

2024.08.30Vol.32 刹那を生きる君たちと(徳野)

 「大人はなぜ本を読ませようとするのか」。先日、中学1年生の男子生徒が、学校課題の弁論文において自ら掲げた論題である。最初に目にしたときは、志高塾の講師として、挑戦状を突きつけられたような気分を味わった。それで彼が毒にも薬にもならない内容に仕上げてきたら承知しないつもりでいた。(単なる笑えない冗談です)そして、肝心の中身であるが、「母は、読書をした時間だけゲームをしてもいい、という嫌なルールを決めてくる。にも関わらず、ゲームは1日30分だけという理不尽な制限を課してくるので、意欲を無くしている僕は最低限の量しか読み進められない。」という、親子間の攻防が生き生きと綴られていた点は面白かった。ちなみに、学校側も「弁論文」とは言うものの、まずは書く過程を楽しむことを求めている様子だった。一方で、冒頭の問いへの答えじたいは「子どもの読解力と語彙力が向上するから」という常套句に留まっていた。そして何より、彼自身がその理由に納得していなかったし、読書習慣が完全に定着していない状態で大人からの受け売りのような「意義」を羅列しても面白くない。それを踏まえて論題を「どうすれば子どもは本を読むようになるのか」に再設定する運びとなった。
 「読解力」と「語彙力」という言葉は、学校や進学塾のテストひいては受験を第一に見据えているからこそのものであるとは容易に想像が付く。もしくは、読書を純粋に好んでいる保護者が、自分とは違う我が子を何とか説得しようと持ち出す実際的効用の代表だ。しかしながら、私個人の経験を挙げると、小学生の頃から文章に触れることが趣味ではあったが、それだけで国語の成績は伸びなかった。点数に反映され始めたのは、中学生以降それなりの問題量をこなすようになってからだった。
 では、なぜ子どもは本を読まなくてはならないのか。この夏期講習中、読書感想文に取り組んだ生徒たちとやり取りしながら幾度となく頭をよぎった。私の場合は「読みたいから読む」という感覚だったのに加え、お絵描きやテレビ番組に没頭する時と比べると親の目が格段に優しくなったことも大きく影響していた。そんな人間の事情など本嫌いな相手に響かない。「人それぞれでしょ」で一蹴されて終わりだ。では、もう少し一般化して「入ってきた情報をいちど咀嚼する力は一生ものだから」はどうだろうか。10代向けの漫画・アニメは絵やセリフのインパクト、つまり「点」の情報だけでも楽しめるよう構成されている。小説よりも奥深い作品だって存在する、という反論が飛んでくるだろうが、そういった真価に気づけるのも、言葉を通して思考を掘り下げられる大人だからこそだ。活字に限らず世の中に溢れかえっている情報の意味を理解できるようになるためには、起承転結のある文章に対して「なぜそうなるのか?」と自問自答する経験の積み重ねが重要な役割を果たす。これなら多少は説得力があるだろう。
 中1の男子生徒の弁論文に話を戻す。論題から仕切り直す決め手となったのは、文章で取り上げられていた、彼とおじい様とのやり取りだった。「お前の日本語はおかしい所がある」という指摘と共に本を紹介されたのをきっかけに、「内容の難しさに目が回りそうに」なりながらも以前よりは読書に前向きになれた、とのことだった。なんて素晴らしいおじい様。そのエピソードを元に導き出した結論は、「大人の視点から、子どもが『今』抱えている課題を明らかにすることが大切」というものだ。意見作文に限らず、生徒が出してきた素材の価値を引き出すのは講師の大事な仕事だと改めて実感した。また、指導する私にとっても大変学びになった。
 「情報を咀嚼する力」が必要であること、そして、読書を含む教育が子どもの将来のためであることに違いはない。そこに揺らぎはない。だが、子ども自身、特に小学生たちにとっては「現在」が全てなのだ。そんな彼らに、本に向き合う時間の重要性を伝えていくためには、その時間が「今」の自分に関わっていると感じられるようなやり取りを重ねなくてはならない。意義を直接的に理解する必要はない。本人が成長したときに「やっぱり読書はしないとな」と思える下地を無意識に形成できれば御の字だ。
 今夏、読書感想文に取り組んだ生徒の中に、宗田理氏の『ぼくらの七日間戦争』を題材にした男の子がいた。率直に言えば紆余曲折を経て完成まで持って行ったのだが、その過程で本人が「この本、面白くなくなった」と漏らす場面があった。そこで、「じゃあ何を面白いと感じるの?」と疑問をぶつけてみたところ、彼はしばし考え込んだ後、はっとした表情で「面白いものが何も無い!」と返してきた。身も蓋もない答えのように思われるかもしれないが、本人が親御様の目を盗んででもプレイしようとしているオンラインゲームの名前を挙げなかった点は「収穫」だったと言える。その気づきがあったからこそ作文を、物語の主人公たちの「面倒くさいことから逃げるためではなく、自分たちの力で何かを成し遂げるという目的の下で保護者や教師に反抗した」という一連の行為に意味があったのだ、と締めくくることができた。

2024.08.24社員のおすすめビジネス書⑪

三浦のおすすめビジネス書
『世界の一流は「雑談」で何を話しているのか』ピョートル・フェリクス・グジバチ

本はいつも書店で買うのだが、今回はkindleの読み放題にあったものを直感的に選んでみた。とにかく話し下手な自覚があるので、それを改善する必要があるとは常々思っているからだ。
本書の内容は日本で一般的とされる「形式的で中身のない」雑談を否定し、より世界のビジネスマンが行っている「意味のある」雑談にするためにはどうすればいいか、ということに終始している。意味のある雑談にするために肝心なのは、自己開示と相手への踏み込んだ質問だ。自分のことを知ってもらわなければ始まらないし、そこで有用な情報を提供できると思ってもらわなければならない。そして、相手が大切にしていることや求めていること、その日の調子などを知らなければ、最適な接し方ができるはずもない。
とはいえ、日本の形式的な雑談が全く意味を為さないとは思わない。天気や気温の話から入ったっていいのではないだろうか。初めからオープンにすることが必ずしも良いとは限らないのは、それこそ多様性である。「相手はどう考えているのか」「自分は相手とどういった関係になりたいのか」を考え、そしてその目的に即しているのであれば、手法はまた付いてくるのだろう、とも思った。
自身が活かしていけるのは、やはり「目的意識を持つ」という第一歩と、「自己開示」だろう。開示する自分にいつまでも自信が持てないのも原因の一つだとしみじみ痛感した。自信が持てる実力をつけること、そして見栄を張ろうとしないこと。それを自分に言い聞かせることにする。

竹内のおすすめビジネス書
『仕事選びのアートとサイエンス 不確実な時代の天職探し』山口周

昨今の社会、我々の平均寿命が延びている一方で事業は短命化している傾向がある。さらには人工知能の進歩は目覚ましく、このVUCAの時代においては複数回仕事を選ぶことや、副業を持つことは当たり前となっていくことが予想される。
日本は世界的に見て労働の生産性が低いということが指摘されているが、その原因として「人材の流動性」の低さが挙げられている。そこにはゴールを明確に設定してしまうキャリアデザインが問題として横たわっている。先行きの見えない世界では、自己による内発的な規定ではなく、偶然の出会いによってこそ「天職」が見つかっていく。
では「いい偶然」をどのようにして呼び込んでいくべきか。ある研究からはじき出された5つのポイントのうち、筆者が重視しているのは「好奇心」である。色々な人と交流すること、目の前の仕事で試行錯誤すること、そのような種まきをすることや多方向へアンテナを張ることは、いざやってきた「偶然」をキャッチする対応力へと転じる。また、自分の中に知識やノウハウを蓄えていくために有効なのはやはり読書である。これは階層的繋がりで理解を深めていくものと、横の広がりで知識の幅を増やすものという2つの方法に大別される。関連分野を固め打ちすることでそれぞれの内容が相互に結びつき、自身に強く定着するようになる。
タイトルからは汲み取れなかったのだが、本書は主に転職希望者をターゲットにしている。ただ、いわゆるハウツー本的な方法の提示ではないために、日頃の仕事の中身をより充実させるためにどうしようか、という思考の機会を与えてくれる。また、これから将来について考えていく高校生、大学生たちにとってもその土台になるエッセンスが多分に含まれているはず。

徳野のおすすめビジネス書
『社会をよくする投資入門 経済的リターンと社会的インパクトの両立』鎌田恭幸

少子高齢化の加速により経済規模の縮小や社会保障制度の崩壊を懸念される昨今。投資による長期での資産形成が推奨されているが、すでに投資に関わっている人の大半は目標を「いかにコストを安くして、リターンを高くすること」に定めて、損失を恐れるあまり日々変動する株価に一喜一憂している。要は、お金を増やすことだけが目的になっているのだ。そして、短期的な評価ばかりに目を向ける投資家の動向は、彼らから資金を集める上場企業の利益追求の仕方にも大きな影響を与える。株主へのリターンを早期に大きくしようとすれば、自社のコスト削減のために地球環境や従業員の労働環境に多大な負荷をかけることに繋がるからだ。それでは、ビジネスが金融市場よりも広いはずの「社会」で生きる人びとの幸福に貢献しているとは言い難い。
本作の筆者は大学卒業後ずっと金融業界に携わってきたプロフェッショナルであるが、目の前の損得に振り回される株式市場の状況に違和感を抱えてきた。そんな鎌田氏が一年発起して立ち上げた資産運用会社が「鎌倉投信」である。そこで提供している公募型の投資信託「結い2101」では、知名度に関係なく、世界の持続可能性に責任を持ったビジネスを展開している企業を厳選し、その本質的かつ長期的な価値を理解している顧客を集めている。そして、鎌田氏が対象企業を見極める上で重視しているのが、現場に直接足を運んで話を聞くことである。女性管理職の割合や温室効果ガスの削減量のような一般公開されている数値での評価だけでは実態など掴めないからだ。「責任を持つ」とは、表面的な意味での結果を出すことではなく、自分自身および共にビジネスに関わっている人間や組織の行為が何に繋がっているのかを把握することなのだ。
節約や貯蓄以外の資産を増やす手段として投資に興味を持っている生徒は少なくない。彼らが実際に身を投じたときに、全方面に「良し」となる判断できる視野の広さを身に付ける上で参考にしてほしい1冊である。

2024.08.16Vol.31 知らない舞台で踊る(三浦)

 一年ほど前、ボイストレーニングに通っていた時期がある。通っていたといっても隔週、かつ興味本位程度だったので、実力として変わったかどうかは定かではない。それでも、いかに自分が「自分の身体」を理解していないかは、確かにしみじみ痛感できた。
 競技スポーツをしてこなかった人生で、水泳や体操、空手などの習い事も、続けたとしても小学校前半までだった。運動が嫌いという訳ではないが、それほど熱心に打ち込む経験はなかった。だからこそ生徒から運動部の活動について聞くたび、実体のない薄ぼんやりとした「憧れの青春」を感じるのだが、それはさておき。
 スポーツをしている人との壁を感じる機会は多々あるが、そのうちのひとつに、「自分の身体」を顧みるかどうか、というのがある。ここでボイストレーニングの話に戻る。通っていた教室は講師を選ぶ一対一の進め方をしており、私がお願いした講師は座学から始めてくれるタイプだった。人によってはとにかく実践を求めるのかもしれないが、私にとってはちょうど大学時代にテキストで学んでいた日本語学と重なる部分もあり、その記憶を蘇らせながら面白く進めていた。発声に使う筋肉、骨、子音ごとの声の出る仕組み、音の高低を調整するにはどうしているのか…そういった、日々無意識に話したり歌ったりしているだけでは全く意識の向かない部分について、ひとつひとつ考えながら声を出すのが楽しかった。
 そんなある日、「今日は声があんまり出ていないね」と指摘された。自分でもあまり気づかない程度だったのだが、言われるがまま少し背中と腰のストレッチをすると、驚くほど声の出が良くなった。喉でもなんでもなく、背中と腰である。「声を出す」というたったそれだけのことでも、全身が複雑に作用しているのだと改めて気づかされた。時折行く整骨院でもそうで、腕を上げる動作ひとつとっても、「もっと肩から意識して上げないと」「肩甲骨のあたりに気を付けて」と指導されながら伸ばしている。
 それを考えると、どうだろう。スポーツ観戦にもともとあまり興味がない方ではあるのだが、ここ最近は眺めながら、「どうやって体を動かせばいいか、きちんとわかっているんだろうな」という感動が先にこみ上げてくる。それは単に練習を積んできたからだけでなく、自身の身体を顧みながら、その筋肉ひとつひとつに意識を向けて調節を繰り返してきたからなのだろう。
 スポーツということで、もうひとつ。以前、池田潔氏の『自由と規律』を読了した。戦後に出版された本で、著者のイギリスでの学生生活について、それも特にいわゆる「パブリック・スクール」について筆者自身の経験を通して述べられているものであった。パブリック・スクールでは春夏秋冬を通し、とにかく団体スポーツに熱心であった、と述懐している。イギリス人の気風に「忠誠心(loyalty)」を見ながら、こう述べている。
「これ(スポーツ)によって彼等は、共同体にあって、全体の利益のため自我を没し、勝って驕らず負けて悪びれず、苟(いやしく)も不当の事情によって得た有利な立場に拠って勝敗を争うことを潔しとしない、いわゆる『スポーツマンシップ』を修得するものとされている」
「もとより心身未熟な青少年にとって、全体の利益への奉仕のため、完全に自己を抹殺することは容易ではない。ここに忠誠心が必要とされ、転じて運動競技が忠誠心の育成に資するものとされる所以である」
 決して個人の名声のために活躍しようというのではなく、あくまでもチームの利益のため、自身に課せられた役割を忠実に果たす。「その勝敗に懸けられた名誉は、彼等の所属する団体、すなわちクラブ、学校、町、県、国などのそれであり、一人のスミス、一人のジョーンズの栄辱は問題ではないのである」という一文はまさしくその精神を表していて、そして何より格好よく映る。各々が団体のために何ができるかを考え、それを遂行する。主将の才覚を持つ人間は主将としてなすべきことをなし、そうでない一介の人間は、一介の人間としてなすべきことをなす。協調性、ともまた違う気がする。協調性が周囲の人間を慮り協力する力だとすれば、これはどちらかといえば、自分自身をいかに律することができるかであるのだろう。今現在、このようなスポーツマンシップがどれほど浸透しているのかは定かではないが、「チームに貢献する一人である」という自覚は、どの団体に所属していても抱いておきたいものである。
 さて、パリオリンピックにちなんだ話をしようとして、横道に逸れまくってしまった。少しだけ絡めておくと、私はスポーツに打ち込んだことのない一国民として、日々のニュースを見ながら「どうにも無責任に選手に金メダルを求めすぎではないか」と思うこともあった。しかし、もちろんのこと、選手も金メダルが取りたくて当然である。金メダルじゃないことを謝らないでほしいと勝手に思うのも、また選手に対して無責任なのかもしれない。ここで「忠誠心」にまつわる引用をしたことで、ふとそんなことを思った。背負わせる責任もあれば、背負うべき責任もあり、背負いたい責任もあるのだろう、きっと。答えは出ないが、どちらにせよ、できることは応援することくらいなものだ。
 まだまだオリンピックにちなめる気がするので、来月もまだまだその話題になるかもしれない。普段私がアンテナを立てない「スポーツ」の分野なので、なにもかもが新しい刺激で、書きたいことだけが積もっていく。タイトルはそんな気持ちの表れとした。知らない舞台「だからこそ」の方がよかったかもしれない。

2024.08.03Vol.30 私がいなくても、合格できるこの子に(徳野)

 進学塾に通う生徒の中には、そこでの講座数について悩む人が少なからずいる。苦手教科を新たに受講するべきか、もしくは、その時点で抱えているものをどれか削るべきか相談してくれることもあるのだが、検討の対象になりやすいのは社会科に代表される暗記科目だ。その場合、生徒たちには「まずは自力でやってみて、必要なことだけ他者を頼るのが基本の姿勢だ」というメッセージを伝えるようにしている。
 国立大学の文学部出身である私自身の思い出話をすると、入試の二次試験では世界史B(しみじみ懐かしい名称)を選択した。受験勉強をする上で、かつて地理歴史の教員をしていた父親に解答の添削を気軽に頼めた点ではたいへん恵まれていた。仕事後で疲れていただろうに、熱が籠ったフィードバックをしてくれていたことには感謝している。それと同時に、塾に通わずに通信教育で毎月送られてくる薄い記述対策用テキストと赤本、そして教科書だけで乗り越えたことに違いは無い。指定字数が300以上の問題が複数出されるような難易度になっても自宅で3つの教材に向き合えば事足りるのだから、マーク式の入試問題であれば、よりシンプルな勉強法で通用することになる。
 予備校における社会科の講義は、公立高校の授業とは全く異質で刺激的な内容が多いので、教養を深めるのを楽しむ前提で通うことじたいには賛成だ。だが、単にテストの点数を上げるためだけに様々なコストを払うのであれば、まずは学校の授業を通して太刀打ちできるようにする方が為になる。きちんと覚えるためには、何より自分の頭を使って、教科書に載っている物事の「仕組み」を整理することに時間をかけなければならない。また、たとえ歴史研究を生業にしている中高年男性が家にいなくても、担当教員に頼めば一般的な高校生が抱くレベルの疑問点は解消できる。それに、今の時代、インターネットで公開されている良質なコンテンツも参考にすれば良い。玉石混交の情報源の中から信頼できるメディアを見極める練習にもなる。

 難関校である程度の勉強量を積んできた高校生または浪人生であれば、本人の力だけで志望大学への合格を掴み取ることはけっして不可能ではない。予備校や塾に籍を置いてはいても、学生の方がそこで与えられる機会を上手く使っているに過ぎない。東京大学や京都大学といった、俗に言う「最高学府」を現実的な目標に据えている生徒たちと接していると痛感させられる。たとえ国語に苦手意識があるとしても、彼らは演習を積めば実力を然るべき基準まで勝手に伸ばしていくものなのだ。よって、指導に当たるのが私である必要性など存在しない。しかし、だからこそ、志高塾にしか提供できない価値を模索する。
 現在、甲陽学院出身の浪人生(仮にT君とする)と京大の過去問を進めている。彼は現役の時はエンジンを十分にかけることができず、共通テストの時点で満足できる結果を得られなかったものの、ここ数ヶ月でだいぶ「引き締まった」印象を受けている。そんなT君と一緒に取り組んだ、ある論説文の中に「18世紀フランスの素人物理学者、トレサン伯爵が大著で論じた〈電流一元論〉は、荒唐無稽、珍妙奇天烈な議論のオンパレードだ」という批判的な記述があった。その箇所じたいに重要な意味など無いのだが、当のトレサン伯爵をT君は「貴族の馬鹿ボンボンやぁ」と鼻で笑っていた。彼の中で「貴族」とは、甘い汁を吸っている愚か者であり、フランス革命で平民身分に打倒された存在、というイメージがある様子だった。だからといって解答の質に関わっていたわけではないので、受け流して次の問題を渡した方が授業1回あたりの成果も上がる。それでも「革命の指導者層には、国王側と対立してきた貴族も含まれていた」という話をしてしまったのは、朝から晩まで予備校にいるT君に、設問を解かずとも物事を知ったり、考えたりできる時間を持ってほしかったからだ。その後は、細かい流れは忘れてしまったものの、フランスの政治制度に話題が移り、サッカークラブ「パリ・サンジェルマン」から「レアル・マドリード」に移籍した選手とマクロン大統領の確執、さらにはトランプ氏が大統領選で勝利することへの不安、という風にお互い思いついたことを、ふらふら、ぺちゃくちゃと喋り続けることになった。スポーツに疎い私は、サッカー観戦が趣味のT君から「パリ・サンジェルマン」のマネージメントについて色々教えてもらった。そして、面白いと言えば不謹慎になるが、その翌週にトランプ氏の銃撃事件が発生したので「すごいタイミングやぁ」と、またひとしきり盛り上がった。このような、ゴールが定まっていない会話を受験生に持ちかけるのは、講師の仕事としては「無駄」だと切り捨てられるかもしれない。実際、某進学塾には自身に意欲が湧かないのを理由に雑談に走る指導者もいると聞く。しかしながら、相手の「人となり」をより深く知るためであったり、教材から吸収できるものを増やしたりするためのコミュニケーションは、生徒の居場所を作る上で不可欠である。そして、最短距離で「正解」にたどり着くのに長けている生徒にこそ、知的好奇心に満ち溢れた「寄り道」や「脇道」をバランス良く示してあげたい。

2024.07.19Vol.29 口下手の理屈(三浦)

 作文をし続けていれば、話すことは上手くなるのだろうか?
 「うちの子、話すのが苦手なんです」と、親御様からご相談いただくことが稀にある。その苦手の内訳は、大抵の場合は「たくさん話すけど、話がわかりにくい」「要領を得ない」だ。もちろん話すことと書くことは無関係ではないが、全くのイコールというわけでもない。ただ、ある一定のラインまでは「書く」を通じて思考を整理する練習をすれば、それがじわじわと「話す」時に繋がっていくのではないか、とは思う。出来事の要約や因果関係の整理などはそれにあたる。とはいえ一定のラインを越えれば、それは「話す練習」でなければ乗り越えられない壁になるのだろう。ちなみに、私はとことん話すのが苦手である。人と話した後はああ言えばよかったと反省しっぱなしだ。雑談も頭の中で「こういうことで話しかけたらいいのかなあ」と悶々と考えるばかりで口には出せず、例えば英会話に通って「英」ではなく「会話」を練習できないものかと画策している。
 話すのは苦手と言ったが、授業中の生徒とのやり取りではあまり詰まることがない。この文章を書くにあたって、それはなぜなのかを考えてみた。もちろん第一には教材への慣れや難度のこともあるのだろうが、もうひとつ、どこかの模試で取り上げられていた文章を思い出した。コミュニケーションの比重が、いかにテンポ良く軽妙に切り返すかに大きく偏ってきている、という内容だった。相手が当意即妙な返答ができずに少しでも押し黙れば「言い返せなかった」と判断されてしまう。論破だのなんだの、短絡的なやり取りが増えたからだろう。また、筆者は「自分は講演という多くの人に話を聞いてもらう機会があるが、そうではない人にとっては、ただ聞いてもらうという経験は稀である」とも述べていた。
 それと照らし合わせれば、生徒とのやり取りは、主にこちらの「問い掛け」を相手に聞いてもらうものであり、同時に「問い掛け」への返答を待つことだ。授業外の雑談はさておき、添削においては「考えながらやり取りをする」という共通認識がある。聞いてもらう機会と返答を考える時間、生徒にも講師にもそれが約束されている。(もちろん、講師がボールを抱えたままになってはいけないので、こちらのレスポンスは速くなければならない。だが、相手の『考える時間』はこちらにとっても『考える時間』である。)
 そういった時間をかけた対話はしかし、現実社会ではそう上手くはいかない。よく言われることだが、人に与える印象は、表情や声色といった非言語コミュニケーションが大きく左右する。話している内容は二の次…とまではいかずとも、それよりも非言語のテクニックが物を言うのは間違いない。考えて言葉に詰まっているようでは聞いてもらえない場も多いだろう。特に演説のようなパフォーマンスであればなおさらだ。
 ずいぶん前に政見放送を眺めていたのだが、そこでは明らかに政治家としてどうなのだろうと思ってしまう人ほどトークが上手く、惹きつけられたのが怖かった。話し上手で魅せ上手、どうしても聞き入ってしまうパフォーマンスだった。投票しようとはならなかったものの、「口が上手い人のことは一度疑ってかからないと」としみじみ痛感した出来事だった。
 意見作文や小論文に生徒が取り組む際、横からいつも、「形式より中身を充実させるのが先だよ」と声をかけている。見栄えだけが良い文章ではつまらないし、正直なところ、見栄えなどはある段階までは後からどうとでもなる部分でもある。
 だが、こう書きながら、美辞麗句にごまかされず、「中身」を見極める力というのは、書き手はもちろんのこと、受け手にこそ求められるのではないかと思い始めた。そして、その受け手の力というのが、思っているよりも育っていないのではないだろうか。
 そういう意味では、もしかすると、「書く」ことは、「話す」よりも「聞く」ことに関わっていくべきなのかもしれない。文章を綴っていく過程というのは、実際に書いた人間にしかわからないもの、想像のつかないものである。「なにを伝えるべきか」を練り上げて作文をしてきたのなら、「この人はどんなことを伝えようとしているのか」に主眼を置けるようになるはずだ。そして、それを読み取るまでに「時間」をかけられるようになるのではなかろうか。
 それは文章だけでなく、会話でもそうだ。私は話下手だが、「相手が何を言いたいのか」にはなるべく気を配っているつもりだし、ある程度までは出来ているつもりである。出来ていない気がするときには、「それってこういうことですか」と確認をとることもある。そこからもう一歩引き出すための問い掛けの引き出しを、もっと持っておくべきなのだろうけれど。
 いろいろ脱線して、話下手が字面からありありと伝わってしまう文章になってしまった。文章も話も、もう少し面白くできるようになりたいものだ。

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