
2025.03.28Vol.53 「ペンをシャベルに」(徳野)
つい先日、ある公立高校に合格した女の子(ここではHさんとする)が入学前課題の作文に早速取り組んでいた。ちなみに彼女の第一志望校である。与えられたテーマは「これまでの学校生活の中で自分が成長した部分を振り返ってください」というものだったのだが、とても素敵な設定の仕方だと思った。成績云々ではなく新入生一人ひとりの「人となり」を深く知りたい、という先生方の想いが込められているような気がしたからだ。(実際、昨年の学校説明会に参加したHさんによると「生徒会長や先生が話す内容が良かった」とのことだった。)こういった宿題でよく見かけるのは、「どんな高校生活を送りたいですか」という漠然とした問いかけを通して新入生に目標を立てさせる類のものだ。私自身、授業の中で「とりあえず」という感じで投げかけてしまうことがある。そして、お題を与えられたほとんどの学生たちは、受験の結果がどうであれとりあえず「勉強を頑張る」と書き、おまけのような形で興味のある部活を述べて終わらせるだろう。これぞ型にはまった「クリシェ」、文章を綴る際の最大の敵である。つまり、入学後にだけ焦点を定めると書き手である生徒ごとの違いを生むのが難しくなるのだ。やり取りを通してまずは中学校での3年間、少々大げさだが過去にきちんと向き合うよう導いていくのが講師の役目でもある。
また、「出来るようになったこと」にも向き合わせる方が実態に近い客観視がしやすい。冒頭に登場したHさんの場合、当初から、お題のおかげもあってか先述のような型にはまった内容にはなっていなかった。ところが、部活動で強く後悔していたことがあっただけに「自分が取るべきではなかった行動」の説明に力を入れすぎてしまい、肝心の成長面に言及していなかった。より踏み込んだ話をすると、Hさんは何事にも手を抜かない性分で、この度の高校受験と体育会系のハードな部活動も結果的に両立させてみせた。彼女はけっして小手先が利くタイプではないことを強調しておきたい。本当に強い意志を持って努力したのだ。一方で、部の同級生たちの大半は熱心さに欠け、価値観の違いからHさんは彼らの輪に馴染めなかったらしい。それだけでも充分苦しいのに、ぎくしゃくした人間関係が練習メニューにも支障をきたし始めたため、一時期は彼らと仲良くするために色々と手を尽くしていた。だが、それがかえって大きな心理的負荷になってしまった、というのがHさんの後悔である。そこから「『人に流されない』とはどういうことなのかは今でも分からない」という悩みを打ち明けていた。私からは「自身について率直に述べる姿勢が良い」と伝えた上で、体験談からごくシンプルに導き出すとすれば「人に流されない」とは「気が合わない人と無理に付き合うのをやめて、自分のペースで過ごすこと」ではないか、と尋ねてみた。すると、意欲のある下級生と一緒にトレーニングに励んだり、試合の選抜メンバーに入るために単独で練習したり、という風に自分の軸を持ちながら行動を取れていたことも明らかになった。その情報の有無によって読み手がHさんに受ける印象は180度と言って良い程変わるし、自ら「表明」していた目標である「周囲からの心無い言葉を受け流す術を身につける」にも現実味が生まれる。しかしながら、孤立への不安が消えていないがゆえに「どういうことか分からない」という言葉が出てきたのも事実だ。その、多くの人が抱える恐怖に近い感情は一生付き合っていくものだろう。変えるべきなのは、目の前の人間関係に問題を感じながらも、寂しさから逃れるためだけに維持しようとする視野の狭さだ。H さんの場合は、孤独感を選抜メンバーに加わることへのモチベーションに繋げられた。消極的な逃避とは違う然るべき「居場所探し」であり、それが出来たことじたい立派な成長なのだ。
授業では当の本人も認識していないような「強み」や「前進」が浮き彫りになることがある。意見作文に取り組んでいる子に限らず生徒と接していて最もやり甲斐を感じる瞬間だ。成長したのは生徒の方なのだが。そういう意味では、添削とは採掘のようなものかもしれない。何も無いように見える土地をあちこち掘り起こし、土やら砂やらをふるいにかけて小さな宝石を見つけ出す作業を想像することがある。ちなみに、仮想の採掘仲間はその時やり取りしている生徒本人である。
2025.03.21社員のビジネス書紹介⑱
徳野のおすすめビジネス書
『「好き」を言語化する技術』(三宅香帆、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2024年)
なぜ「推し」を「布教」したくなるのか?一般的な答えは「趣味を共有できる仲間が欲しいから」だろう。だが、その根本には、受動的な消費者としての自分のあり方への疑問もあるのではないだろうか。その危機感ともいえる感情が、自分が作り上げたものを通して誰かに影響を与えたいという欲求に繋がる。
しかし、いざ「推し」やお気に入りの作品を紹介しようと意気込んでも、「やばい」「感動した」くらいしか出てこないことに悩む人は少なくない。そして、上手くいかない原因を文才や観察眼の欠如に結びつけて書くことじたいを諦めてしまう、という流れも珍しくない。だが、本書の作者は、そういった能力の差は関係ないと断言する。大切なのは「自分の言葉」を持てているかだ。そのためには、取り上げたいコンテンツにまつわる他者の意見をいったん遮断した上で、自分自身の感情をとにかく細分化していく過程が重要になる。
人間は自身が思っている以上に他人の言葉に左右されやすい。そして、情報に触れすぎると自分で考える習慣は失われてしまう。そんな頭から出てくる言葉は紋切り型の、書いた当人も満足できないものに留まってしまう。だから、何かの感想を言語化する際は、真っ先にSNSを開く指を止めた方が良い。そこからは、題材で印象に残った箇所を「5W1H」を意識しながら把握し直し、自分が抱いた感情に関して「なぜそう感じたのか?」と問いを立て続ける。その探究を繰り返していくうちに「点」どうしが繋がっていき、文章としての形が見えてくる。時間はそれなりにかかるものの、自己分析するための絶好の機会にもなるだけでなく、何より「推し」への理解度と愛がさらに深まっていくことで充実感が生まれる。
書き上げたものを発信するとなると、読み手を想定しながら構成や内容にさらなる工夫を重ねていく必要はあるが、何より書き手が持つ「その人らしさ」に溢れた感想が人を動かすのだ。
三浦のおすすめビジネス書
『学力喪失――認知科学による回復への道筋』(今井むつみ、岩波書店、2024年)
著者(秋田喜美氏との共著)の『言語の本質』は、「こういう本が話題書になるなんて」という感動で手に取り、一応本棚に収まってはいるのだが、まだ冒頭までしか読めていない。そんな折、勧めてもらったので本書を読んだ。
言語とは、ことばとは。そういった視点は、今回の「学力」という点にも深く結びついている。しかし、それは単なる数値化されたテストの点数ではない。算数にしろ国語にしろ、生徒の解答を見ていると「なんでそうなるん」と思うようなものも散見される。本書は、いわば「なぜそう考えてしまうのか」の原因を言葉の観点から考えていったものだ。
言葉というより、肝心なのは「スキーマ」である。スキーマとは簡単に言えば暗黙知を指し、明文化せずとも「当たり前」だと思っている事柄である。その根本に齟齬があれば、どれだけ考えても正しい解答には辿り着かない。例えば一粒摘まんだ砂糖に重さを感じない子供が「砂糖に重さはない」と思い込んでいた場合、そのグラムを求める問題で躓いてしまうといった具合だ。しかし、その思い込みはテストの点数だけでは読み取れない。
また、もう一つ本書で重要なキーワードに「記号接地」がある。言葉を記号として捉えたとき、その記号の意味を概念的に理解することを指している。どれだけこの接地ができているか、それが言葉の理解度を指す。例えば私は分数が大の苦手だったのだが、これも分数がどういったものか、1/4や1/5が何を指しているのかわからなかったからだが、これは「接地できていなかった」ことが原因なのかもしれない。時間という概念、数という概念、それらがわかっていなければ問題を解くのは難しいだろう。
ここからが本題で、ではどのように「学力喪失」を防ぐのか。遊びを交えながら実践的な事柄に落とし込むという方法が挙げられていたが、志高塾として考えると、「子供自身がなぜそうなるのかを自主的に考えられる環境を作ること」、「その『なぜ』を否定するのではなく、自分で考えを修正できるような声掛けをすること」である。そして、加えて「なぜそのように読み取ってしまったのか」をしっかりと見極めることだろうか。
竹内のおすすめビジネス書
『黒子の流儀 DeNA不格好経営の舞台裏』(春田真、KADOKAWA、2015年)
昨年、DeNAの創業者である南場智子氏の『不格好経営』を取り上げた。南場氏は家族の病気が理由で2011年5月に社長職を一度離れることとなり、その後会長に就任したのが本書の著者である春田真氏である。
京大法学部を卒業した後、銀行員として働いていた春田氏。90年代後半から金融業界にもインターネットが広がりを見せるようになり、ネットバンキングの話が進んでいた。ネットオークションを運営するDeNAの誕生もその頃である。職場で使用可能となったオンラインのパソコンに触れながらネットによるビジネスをイメージしていたこと、取引のあったマッキンゼー社出身の南場氏が興した会社であることから、興味のままにサイトの「社員募集」ページからメールを送り、30歳の年にベンチャーの扉を開いた。新しいものに飛び乗ってみる行動力や嗅覚の鋭さが窺える転職劇だと言える。
黒子はいわゆる裏方や縁の下の力持ちとして認識されている。実際、トップに南場氏がいる際に求められるのは彼女の目指すものを実現するサポート役としての働きである。ただ、彼の優れているところは全体像を掴んだうえで打つべき手を判断できるところにある。上場に向けた準備においては、それがかなう場合タイトなスケジュールになるため、相手方の東証が確認する会社概要などの資料を完璧に作りあげ自分たちに対する「期待値」を高く設定することを大事にしていた。また、そのあと受けることになる質問への回答を、どのような内容だとしても必ず1日で行うことを徹底した。これも、無理を言っている側の自分たちに綻びを作らないためである。先を見越しているというか、客観的視点を持って動くことが黒子には不可欠なのだということが感じられた。球団オーナーを務めるに至った春田氏はもはや黒子とは呼べないだろうが。
しかし、球団買収、運営においても、他者の動きを把握したり、意図を掴んだりするということに対しては常にアンテナを張り続けていた。一度は頓挫し、TBSと別企業との間で進んでいた横浜ベイスターズの買収交渉が決裂するとすぐに再交渉を迫ったり、読売ジャイアンツの渡辺恒雄氏とは早めに面談の場を設けていたりしたことがその最たる例である。動きどころ、押さえどころを外さないことが物事を進める鍵になる。
2025.03.14Vol.52 情報の網目(三浦)
まず、前回に載せた三題囃についてから。少しおさらいすると、三題噺とはもとは落語の形態のひとつで、「適当な言葉・題目の3つを折り込んで即興で演じる」ものである。落語だけでなく小説の練習などとしても扱われ、前回の私の作文では、コバルト文庫が出していた「バカンス」「コップ」「絶体絶命」というお題を拝借し、それをテーマにしてChat-GPTに書いてもらった。書いてもらうだけ書いてもらって、肝心の自分の文章を載せるのを渋るという情けない状況だったので、改めて自分なりに書き直した。それが以下のものである。
波間にひとつの島がある。
透明なその島は波を受けては揺れ、涼し気な空気を運んでくる。彼はその島の上で遠くの景色を眺め、一息ついていた。
彼は長い間旅をしてきた。時には風に乗り、時にはこのように波に揺られ、ようやく人気のないこの地に辿り着いた。そんな彼にとって、今の一時はまさしくバカンスと形容するに足るものだ。足先からひんやりと漂う冷気は心地よく、ひと眠りしそうにもなる。その時だった。からん、と大きな音がして、足元がぐるりと回転する。すんでのところで水面に落ちずに済んだものの、危ないと思う間もなく、トラブルは続けて起こった。
「きゃあ! 虫!」
甲高い女の悲鳴だった。彼は迷う暇すら与えられず、女の悲鳴の中で飛び立っていった。その時女の手が身体を掠めたが、危機一髪、彼はわずかに開いていた窓の隙間からの逃走を図る。
眼下には楽園――コップの中に浮かぶ、ひとつの小さくなった氷が見える。ただの小さないっぴきの羽虫は、その後どこで次なるバカンスを迎えるのだろうか。
以上、426字。初めに浮かんだ案では「コップの水を落とさないで走る競技をしていて、その優勝者にバカンスが贈られて…」といったようなしょうもないものだったので、多少はマシになっていると信じたい。あまり自分の文章にあれこれ言うと蛇足になりそうなので、ここまでにして、本題に移ろうと思う。
私用のパソコンが壊れて数カ月が経つ。十年以上の付き合いだっただろうか。ノートパソコンではなく一体型なことも相まって、捨てるのも面倒で(あるいは愛着ゆえかもしれない)、そのまま机の上に放置されて、数カ月だ。昔からパソコンに慣れ親しんできた身なので、無いと困ることには結構困るのだが、最近はスマートフォンやiPadがあればそれなり程度のことは出来てしまうので、駆り立てられるような焦りはなく、なあなあでなんとかしながらここまできてしまった。
買い替えることへの腰の重さは、やはり処分の手間というより、新しいものを選ぶことへの気の重さが要因だ。決断にはかなりのエネルギーが必要だといろいろなところで見かけるが、そもそも、まず決断のための材料を集める段階でへろへろになってしまう。初めは家電量販店で適当に見繕おうと思っていたのだが、一体型ではないほうがいいとやんわりと店員さんに止められた。かといってデスクトップはスペースがないしと悩み、そして知人にBTOパソコン(カスタマイズできる受注生産のもの)を勧められ、ホームページを覗いたところで止まっている。何に使うかを明確にしてから探しに行くべきだともアドバイスをもらったのだが、「用途のために必要なスペックがなにか」を調べる段階が面倒で、やはりへろへろになった。知らない世界だ。
インターネットスラングに「情弱」という言葉がある。そのまま情報弱者の略称であり、一般的にはネット環境やネットリテラシーが不十分で情報にアクセスできない、いわゆる情報格差のいわば被害者を指す。ただ、ネットスラングとしてはモノを知らない、情報を十分に手に入れていない、だから踊らされているのだ、というような、侮蔑的なニュアンスで使うことがほとんどだ。しかし今の時代、情報を十分に手にしてうまく扱えている人間なんて、もしかしたらほんの一握りなのではないか。
情報というのは難しい。情報が氾濫する世の中になり、必要な情報をピックアップする力がより一層求められているのだということは肌感覚でもわかるのだが、それを自分でも行えているのかというと、また別の話である。情報を調べる手間を面倒くさがり、まあ多少損するくらいならいいか、と思ってしまう。そしてその分、情報というものの価値を実感する。適切な情報を適切なタイミングで教えてくれるような存在がいればとても助かる、ということも。パソコンだって、素人の私があれこれ調べて考えるより、詳しい人に尋ねて組み合わせてもらったほうが絶対に楽だし早い。いくらか対価を払っても、その価値は当然あるだろう。
ただ、調べて買ったほうが、愛着が湧くのもそうだろうと思う。情報が氾濫し手に入れることが難しくなったからこそ、玉石混交の中をかき分けるべきだ。手軽でわかりやすい情報にばかり触れていれば、それこそ本質的な部分を知ることはできなくなる。パソコンで言えば、楽をしたい気持ちの反面、そもそもの語句の意味やパーツの働きがわからないままに買ってしまうのは、それはそれで少し不安がある。
ああだこうだ、うだうだと書き進めてしまったが、「パソコン買わなきゃなあ、めんどくさいなあ」ということをずっと考えているとこうなってしまった。ところで最後になったが、スマートフォンとパソコンの大きな違いは、何かを「消費する」か「創造する」か、というところにあるような気がずっとしている。スマートフォンに出来ることは大幅に増え、それこそ詳しい人であればなんでもできるのだろうが、アプリやサービスを享受するに留まることがほとんどではなかろうか。スペックとしてはパソコンと遜色のないスマートフォンも出てきているが、「開発する」「ものを創る」側になるには一歩足りないような気がする。プログラミングが一般化していく反面、そうやって消費する側ばかりになってしまうことを、ほんの少し危惧している。
2025.03.08vol.51 あの時へのひとつの答え(竹内)
そういえば、と思って過去のドキュメントを探した。この「志同く」を始める前、社員間での共有に留める形で10本ほど文章を書いていた。もう3年前になる。その中のとある1本をここに載せると結構なボリュームになってしまうので、それはこの後noteの方に掲載させてもらうことにする。ただ、それに関する内容が全くない状態だと話の繋がりが分かりにくいので、ChatGPTに要約してもらったものを以下に貼り付ける。余談だが、初めにAIにお願いした段階では、もとの文章の前半部分にもある程度の字数を割いてまとめてくれていた。しかし今回は後半に重点を置きたかったので、指示を出して1回修正をかけてもらっている。そのうえで、私の方でも手を加えた。
<ChatGPTによる要約:文章タイトル「難問」>
生徒と関わる中で、「本気になること」の難しさを目の当たりにすることが多い。勉強でも部活動や習い事でも、結果が突きつけられたときに誰もがそれを原動力にできるわけではない。とある高校生への指導を通じ、問題意識を持たなければ変化は生まれないことを実感する。社会に出ると責任感が求められるようになっていくが、その前にここで「本気を出す場」を提供し、意識を変える手助けをしたい。教育とは、知識を持たせるだけでなく、自らと向き合う姿勢を育むことでもある。
なぜこの話題を今になって持ってきたか。それは2月半ばに上記に登場する当時の「高校生」であった生徒からメールが来たからだ。彼は昨年度までで志高塾を卒業し、今年度は大学浪人していた。それが決まった旨の報告を受けてから、それ以降は動向が気になりつつも、「便りがないのは良い便り」ということでこちらからはあえて連絡を取っていなかった。なお、同じく浪人中の元生徒がもう一人いるのだが、その彼は夏休みあたりに予備校生活と勉強の悩みを引っ提げて顔を見せにやってきた。
さて、先の彼は共通テストも終わって私大の前期試験も終了し、いよいよ国公立の二次試験が迫っているというタイミングで連絡してきた。私が浪人生だったころの記憶だと、センター試験以後は志望校対策が本格化することもあって、それまでの予備校でずっと誰かと同じ講座を受けるという感じではなかった。思うように結果が出た子も、そうでなかった子もいるはずで、何となく自分の状況をオープンしづらいなというときに、気楽に伝えることのできる相手として思い浮かんだのだとしたら嬉しいことだ。その時点での結果や受験予定校の報告もそこそこに、実は本題は別にあって、この直前期に2時間半ぶっ通しで読み切ってしまった本があったので、それを紹介したかったとのこと。今回の本屋大賞にノミネートされているうちの1つで『禁忌の子』という作品だったのだが、メッセージを受け取った時ちょうど外出中だったこともあり、その足で本屋に行って早速購入した。西宮が作中の重要な事件発生の舞台となっており、特に西北校に通っている生徒や親御様には聞き覚えのある地名や、この辺りかなと予想できる場所が多く登場する。ミステリー×医療ものなのだが、これまでにも書店で目にしていたものの自ら手に取ってはいなかった。月1のビジネス書紹介でジャンルが広がった気でいたがそうでもないのだということを実感したし、良い機会をもらえたと思っている。終盤に点と点が結びついて「そういうことだったのか」と唸らされる展開は面白く、新鮮だった。次は彼と同学年で同じ教室で授業を受けており、今年度から数学の講師としてアルバイトしている元生徒に貸し出すことにしている。
全然読書しないわけではなかったが、高3の頃には優先度は下がってしまっていたため、興味のあるテーマであったとはいえこの時期に本に時間を割いていたのは彼にとって状況が芳しくはないことを意味していたかもしれない。自身の課題とどれくらい向き合えただろうか。そう考えたら、「便りのないのが良い便り」なんて都合よく言わずに、鬱陶しいくらいこちらから連絡を取るべきだった。彼の方から今回アクションがあったのはもちろん良かったけれど、たとえそれが貰えなくなってしまうとしても、自分から近況を掴みに行くべきだった。その役割を果たせる関係性にあったのだから。
別の生徒の話に。いつか呼んでよと厚かましくもお願いしていたこともあって、ここ1か月の間に2つの部活動の公演に行かせてもらった。1つは管弦楽団の定期演奏会、もう1つはコーラス部の卒業公演である。前者の生徒は現中3だが、中学入学と同時に新たに楽器を始めたこと、そのヴィオラパートは退部者も続出して人数が安定していなかったことから、彼女自身も前向きではない時期があった。また、小学生の頃から基本的にそつなく物事をこなすその子にとって、できないことにぶつかっていると認識したのはほとんど初めてのことだったはずだ。しかし、「これ以上人数が減るのはまずい」と昨年の夏ごろから自ら口にするようになり、少ない人数でも音を出すために練習に励むようになっていった。なかなか壁は乗り越えられなかったが、それをすぐに避けるのではなくて、その前でしばらく立ち止まっていたことで結果的に自分で突破口を見つけることができたのだ。また、後者の生徒が所属しているクラブは全国レベルである。指揮者の先生があいさつの中で振り返っていたのは、一人一人が自分の希望する進路と全国の舞台に立つことの両方を実現するために生徒同士で話し合いを重ね、全員が揃う日が少ない分、個々のスキルアップを図るという練習の跡だった。自分が欠かせない一員であるという自覚や、同じ方向を向いているのだという信頼が、どう取り組むのかを決めていく。音色や歌声が響き渡るまでに濃密で真剣な時間が確かにあることが伝わってきた。
勉強であれ部活であれ、比重の置き方はもちろん人それぞれ異なる。かけることのできる時間も決して無限ではない。しかし、せっかくなら打ち込むべきなのだ。その方が確実に自分の糧になることも、それが簡単ではない現実も、色々な生徒たちを通じて見てきた。そのうえで私ができることは、彼らがそうしようと踏み出せるように対話し続けること、いつかそうなる時が来ると信じて見守ることなのだ。
2025.02.28Vol.50 ネアカ根性(徳野)
去年からNHKの『映像の世紀 バタフライエフェクト』を時間が合えば視聴している。腰を据えてテレビを見るのも何年ぶりだろうか。いきなり余談になるが、高校生の頃つまり10年ほど前のシリーズを両親と一緒に見ていた団欒の時間は良い思い出である。実家にはWi-fi環境が無く、当時の私と父はスマートフォンを持っていなかったのもあり、家で何か「見る」となるとテレビと映画くらいだった。しかもマンションの間取りの関係で各人に自室が割り当てられず、居間が娯楽の場になるので否が応でも家族と顔を見合わせることになる。スマホが無いせいで少なからず不便な思いはしていたし、トイレ以外に完全なプライバシーが確保される場が存在しないのは正直煩わしかった。それでも一家が何かを共有しやすい環境の価値は、思春期の私でも肌で感じ取っていた。そして、我が家の場合、盛り上がる共通の話題の一つが『映像の世紀』だったのだ。特に父は普段は私と母の趣味に対して「遠巻きに眺める」程度の興味しか示さないのに、歴史系のドキュメンタリーや大河ドラマになると、私が抱いた「1」の疑問に対して「5」くらいの解説をしてくれる、という風に一気に饒舌になる。(そこに酒が入ると「15」くらいになる。)歴史分野に限定すれば時代地域を問わず、彼が質問に答えられなかった記憶は無い。日本史の研究職なのだから当たり前なのかもしれないが、私自身が社会人になり「いかなる質問にもすぐに、且つ中身のある返事をすること」の難しさに突き当たるようになってからは父の凄さを改めて認識している。県立高校の教員時代から30年以上、毎週土曜の休みを返上して地方史の研究に打ち込んできただけのことはある。
ようやく本題に入る。去年からのシリーズで印象に残っているのが「バブル ふたりのカリスマ経営者」の回だ。ダイエーの中内功とセゾングループの堤清ニのキャリアの栄枯盛衰を追う内容だったのだが、個人的には前者の方が記憶に残っている。自分の嗜好を踏まえると、芸術への造詣が深く、ビジネスにおいても「コト消費」を重視していた堤に興味を持ちそうなのに。特に覚えているのが、1990年代のダイエー店内で見回りをしている中内の硬い表情と、その映像に被せられた「より良いものを安く提供すれば消費者は満足すると考えてきた中内だったが、バブルで贅沢を覚えた中流階級の人びとが何を求めているか分からなくなっていた」というナレーションだ。視聴後、日本の消費社会の成熟に貢献した張本人でありながら手塩をかけて育てた「我が子」に首を絞められたような彼の内面に興味が湧き、豊中校にあった城山三郎の『価格破壊』を手に取った。矢口というスーパー経営者の生き様を描いた経済小説であり、主人公のモデルは中内とされている。結果から述べると、バブルが崩壊どころか始まってすらいない1960年代が舞台だったため、当初の目的は果たせなかった。間抜けなことに読み始めてから知ったが、本作が『週刊読売』で連載されていたのは1969年なのだから当たり前である。佐野眞一の『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』の方が適任だっただろう。それでも、「セルフサービス方式」や「プライベートブランド」等のコスト削減の基本のキの成り立ちに触れられたのに加え、何より中内功という人間に対する解像度が少しは上がったことに違いはない。長男である潤氏がインタビューで語っていた父親と矢口の姿は面白いほど重なるので、城山三郎の人物描写力はやはり凄まじい。
さて、中内が実業家に欠かせない素質として掲げていたのが「ネアカ のびのび へこたれず」である。後ろの2つは、流通業界のルールに囚われない矢口の行動力や執念深さとも容易に結びつく。しかし、「ネアカ(根明)」は言葉通りに受け取れない。本人の映像、潤氏が紹介するエピソード、小説のどれを取っても、少なくとも私の目には自分にも他人にも厳しい不愛想な男としか映らなかったからだ。ちなみに潤氏は「失敗を恐れずチャレンジすること」だと捉えているそうだが、『価格破壊』を元にするならば「トラウマを原動力にする逞しさ」と解釈できるかもしれない。
矢口は太平洋戦争中、フィリピンの激戦地で従軍していた。戦闘よりも飢餓や伝染病で命を落とす日本兵の方が多い環境で幾度となく死線を乗り越えながら何とか復員を果たし、彼自身、当時味わった辛酸は「二度と経験したくない」と明言している。同時に、店舗や商品展開の規模を拡大するターニングポイントに立つ度に必ず思い浮かべているのも戦場での凄惨な出来事である。日本ではまだ珍しかったインスタントコーヒーや、肉牛の仕入れ先の奄美大島で振舞われたパパイヤといった食料品がきっかけになることが多いのだが、その時の矢口の様子は、フラッシュバックに襲われているというよりもノスタルジーに浸っていると形容する方がふさわしい。そして、直後に必ず「日本中でこういう物(ちょっとした贅沢品)を安く手に入れられるようにする」という誓い、言い換えればアメリカを手本にした自由な大量消費社会の実現という信念を再確認して仕事に戻る。(しかしながら、欧米先進国のビジネスモデルを模倣し尽くしてしまったのがバブル末期以降の中内なのだろう。)矢口の強さは「過去」を大事にするところにあるのだ。「トラウマ」と聞くと「忘れたいのに頭から離れない記憶」というイメージが真っ先に湧いてくるが、「今の自分を形成するもの」という見方もできる。さらに、ネガティブな意味合いが強烈だからこそ「変化を起こしたい」という欲求、そして人生における具体的な指針に昇華される可能性を孕んでいる。もちろん簡単なことではない。強靭な精神力の持ち主である矢口も、戦後10年以上かけて向き合いながら自身の目標を浮き彫りにしていったのだから。
将来の夢をどうやって決めればいいか分からない、と悩む生徒は少なくない。決まらないからとりあえず医療系の学部に、少しでも偏差値が高い大学に、というのは一つの道ではある。が、入学後も「夢」探しは続くだけでなく、そこに具体性も求められてくるのだから、やりたいことの方向性は高校生の段階で定めておいたほうが良い。そして、「やりたいこと」を模索する上では、楽しい面白いことだけを材料にしなければならないわけではない。だからといって、矢口のように「トラウマ」レベルの経験など滅多に無いし、そもそも、あえてする必要は無い。例えば「学校の先生とそりが合わない」、「地元の病院が人手不足で待ち時間の長さが苦痛」といった日々抱えている不満や不便を元に進路を決める人も存在する。大切なのは、自分の中のネガティブな感情を解消しようとすることが他者のためにもなるか、という視点を持つことなのだ。そういった周囲に対する視野の広さを、生徒の中に培っていきたい。
2025.02.21社員のビジネス書紹介⑰
三浦のおすすめビジネス書
『サクッとわかるビジネス教養 東南アジア』助川成也
「世界で」という言葉が出たとき、まず真っ先に頭に浮かぶのは欧米だ。グローバルに活躍するという語を聞いた時にも、まずは欧米のイメージが先行する。私が知っている世界はあまりに狭い。こと東南アジアにおいては、ほとんど知識がなく勝手なイメージばかりだったので、アップデートするためにも手に取った。
内容としては入門編といった印象で、ASEANとしての経済的動向や、各国の歴史や政治体制についても述べられている。東南アジアと一括りにしてはいるが、国によって経済規模はもちろん、文化や政治体制も違う。政治体制が違うからこそ、ASEANは互いに内政に干渉しないことが原則となっているというのには納得した。また、旅行先としてよく聞くシンガポールもただ発展しているという漠然としたイメージだったが、経済拠点であるという先進性の一方、島国の都市国家であるがゆえに資源は他国(水はマレーシア)に完全に依存しているという危うさがあるというのも、説明されて腑に落ちた。その一方で高原や山岳が国土の多くを占めるラオスは、メコン川の存在により農業が盛んなほか、水力発電も活発で電力を他国に輸出しているともある。かと思えば急激な発展によりミャンマーでは電力供給が追い付いていなかいというのも、やはり、一括りでは捉えきれない多様な国家の集まりなのだと思わされる。
海外在住であったり、研修旅行で現地に赴いたりと、生徒の方がきっと身近に感じる機会は多くあるだろう。その時、きちんと拾い上げるためには、まずは自分に知識がなければならないことを痛感した。
徳野のおすすめビジネス書
『ANAのカイゼン』川原洋一
航空業界は何より安全性を重視しているとは聞いたことがあったが、そのために何が実践されているかと問われれば、「とにかく点検に手間と時間をかけているはず」程度のイメージしか抱いていなかった。だから、表紙の帯に書かれた「高い生産性」つまり「効率の良さ」とも言い換えられる文言が、人間の命を預かる仕事の緻密さや慎重さとどう関わるのかに興味を引かれて手に取ってみた。
タイトルにもある「カイゼン」とは元々はトヨタ自動車が編み出した生産方式であり、「欠点を直す」という意味の「改善」と区別するためにカタカナで表記されている。ゴールが明確化されていない非製造業での導入は難しいとみなされがちだが、ANAでは「現状に満足せず、より良くできるところを探し続ける」という「カイゼン」の基本理念を念頭に置いた上で社員一人ひとりが能動的に行動する土壌を形成してきた。そして、「より良くできるところ」とは職場の「ムリ・ムラ・ムダ」を指す。それらは働き手の心身に過度な負担をかけ、「ヒヤリハット(事故や災害に至らなかったトラブル)」を引き起こす要因でもある。大半の組織は大事に至らなければ看過してしまうが、航空業界においては些細なミスの蓄積が全損事故に繋がっていくので悪い芽は認識したその時に取り除いておかなくてはならない。だからこそ、個々の社員が日々の業務の中で対処するべき問題とその真因を追求する習慣を定着させることが重要になってくる。
本著を通して最もはっとさせられたのは、「カイゼンは自分自身が楽になるために行う」という前提だ。組織で働いていると「会社の利益が最優先」が暗黙の了解のようになるし、メンバーに課題解決を求める上でそこを狙いとして明示する管理職も少なくない。だが、ANAはあくまで個人ベースで進めることで身の回りの問題を可能なかぎり具体的を把握すると共に、一人ひとりの社員に「得」が直接還元される仕組みにすることで自発的な行動を促している。それが「自己満足」で終わらないのは従業員内で「ムリ・ムラ・ムダを無くす」という目的が共有されているからでもある。また、カイゼンを称賛し合う機会は作っても、その成果を人事評価には反映させないよう徹底している。「滅私奉公」ならぬ「興私奉公」というわけだ。
竹内のおすすめビジネス書
『センスは知識から始まる』水野学
著者である水野学氏は多摩美大で学んだ後いくつかの企業を経て、グッドデザインカンパニーというデザイン、コンサルティングの会社を立ち上げた。有名どころでいえば熊本県のご当地キャラクラ―である「くまモン」の発案とデザインを行った人物でもあり、クリエイティブディレクターとして活躍している。まさに「センス」が売りである。
しかし、その「センス」とは彼が特異な人間であるために持っているものではなく、あくまでも積み重ねによるものである。というのも、センスとは「数値化できない事象を最適化できる力」として定義づけているからである。そのような明瞭な基準がないものだからこそ、「特別な人間だけが持ちうるもの」のように誤認されてしまいがちでもある。だが、まず「普通」を知っていることがセンスを磨くうえで必要になる。軸の両端に「良いもの」と「悪いもの」を置けると、その真ん中に来る「普通」が見えてくる。「普通」が分かるようになるためには多くのものに触れていなければならないということだ。
様々なジャンルに知識の幅を広げるのはもちろんのこと、主戦場としての分野での「追究」もまた良いものを提供するためには欠かせない。例えばコンビニは「利便性」がその最たる価値だが、「便利」とは何かということはその店の立地はもちろん時間帯によっても変わる。一つを掘り下げることが結局別の知識の呼び水にもなるのである。
また、「知識を得る」というのは「過去を知る」ということでもある。画期的なツールとして登場したiPhoneも、電話機の流れを汲んでいる。これまでに生み出されてきた多くのものの上に新しいものがある、ということを知っていると、ものづくりであったりアイデアを出したりするための準備作業はおのずと決まってくる。
縦軸と横軸とそして奥行き。この3つの観点で、相手や場所、状況に即して適切にチューニングできることが「センス」である。それを発揮するために日々から何を吸収するか、それこそが問われている。








