
2025.02.28Vol.50 ネアカ根性(徳野)
去年からNHKの『映像の世紀 バタフライエフェクト』を時間が合えば視聴している。腰を据えてテレビを見るのも何年ぶりだろうか。いきなり余談になるが、高校生の頃つまり10年ほど前のシリーズを両親と一緒に見ていた団欒の時間は良い思い出である。実家にはWi-fi環境が無く、当時の私と父はスマートフォンを持っていなかったのもあり、家で何か「見る」となるとテレビと映画くらいだった。しかもマンションの間取りの関係で各人に自室が割り当てられず、居間が娯楽の場になるので否が応でも家族と顔を見合わせることになる。スマホが無いせいで少なからず不便な思いはしていたし、トイレ以外に完全なプライバシーが確保される場が存在しないのは正直煩わしかった。それでも一家が何かを共有しやすい環境の価値は、思春期の私でも肌で感じ取っていた。そして、我が家の場合、盛り上がる共通の話題の一つが『映像の世紀』だったのだ。特に父は普段は私と母の趣味に対して「遠巻きに眺める」程度の興味しか示さないのに、歴史系のドキュメンタリーや大河ドラマになると、私が抱いた「1」の疑問に対して「5」くらいの解説をしてくれる、という風に一気に饒舌になる。(そこに酒が入ると「15」くらいになる。)歴史分野に限定すれば時代地域を問わず、彼が質問に答えられなかった記憶は無い。日本史の研究職なのだから当たり前なのかもしれないが、私自身が社会人になり「いかなる質問にもすぐに、且つ中身のある返事をすること」の難しさに突き当たるようになってからは父の凄さを改めて認識している。県立高校の教員時代から30年以上、毎週土曜の休みを返上して地方史の研究に打ち込んできただけのことはある。
ようやく本題に入る。去年からのシリーズで印象に残っているのが「バブル ふたりのカリスマ経営者」の回だ。ダイエーの中内功とセゾングループの堤清ニのキャリアの栄枯盛衰を追う内容だったのだが、個人的には前者の方が記憶に残っている。自分の嗜好を踏まえると、芸術への造詣が深く、ビジネスにおいても「コト消費」を重視していた堤に興味を持ちそうなのに。特に覚えているのが、1990年代のダイエー店内で見回りをしている中内の硬い表情と、その映像に被せられた「より良いものを安く提供すれば消費者は満足すると考えてきた中内だったが、バブルで贅沢を覚えた中流階級の人びとが何を求めているか分からなくなっていた」というナレーションだ。視聴後、日本の消費社会の成熟に貢献した張本人でありながら手塩をかけて育てた「我が子」に首を絞められたような彼の内面に興味が湧き、豊中校にあった城山三郎の『価格破壊』を手に取った。矢口というスーパー経営者の生き様を描いた経済小説であり、主人公のモデルは中内とされている。結果から述べると、バブルが崩壊どころか始まってすらいない1960年代が舞台だったため、当初の目的は果たせなかった。間抜けなことに読み始めてから知ったが、本作が『週刊読売』で連載されていたのは1969年なのだから当たり前である。佐野眞一の『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』の方が適任だっただろう。それでも、「セルフサービス方式」や「プライベートブランド」等のコスト削減の基本のキの成り立ちに触れられたのに加え、何より中内功という人間に対する解像度が少しは上がったことに違いはない。長男である潤氏がインタビューで語っていた父親と矢口の姿は面白いほど重なるので、城山三郎の人物描写力はやはり凄まじい。
さて、中内が実業家に欠かせない素質として掲げていたのが「ネアカ のびのび へこたれず」である。後ろの2つは、流通業界のルールに囚われない矢口の行動力や執念深さとも容易に結びつく。しかし、「ネアカ(根明)」は言葉通りに受け取れない。本人の映像、潤氏が紹介するエピソード、小説のどれを取っても、少なくとも私の目には自分にも他人にも厳しい不愛想な男としか映らなかったからだ。ちなみに潤氏は「失敗を恐れずチャレンジすること」だと捉えているそうだが、『価格破壊』を元にするならば「トラウマを原動力にする逞しさ」と解釈できるかもしれない。
矢口は太平洋戦争中、フィリピンの激戦地で従軍していた。戦闘よりも飢餓や伝染病で命を落とす日本兵の方が多い環境で幾度となく死線を乗り越えながら何とか復員を果たし、彼自身、当時味わった辛酸は「二度と経験したくない」と明言している。同時に、店舗や商品展開の規模を拡大するターニングポイントに立つ度に必ず思い浮かべているのも戦場での凄惨な出来事である。日本ではまだ珍しかったインスタントコーヒーや、肉牛の仕入れ先の奄美大島で振舞われたパパイヤといった食料品がきっかけになることが多いのだが、その時の矢口の様子は、フラッシュバックに襲われているというよりもノスタルジーに浸っていると形容する方がふさわしい。そして、直後に必ず「日本中でこういう物(ちょっとした贅沢品)を安く手に入れられるようにする」という誓い、言い換えればアメリカを手本にした自由な大量消費社会の実現という信念を再確認して仕事に戻る。(しかしながら、欧米先進国のビジネスモデルを模倣し尽くしてしまったのがバブル末期以降の中内なのだろう。)矢口の強さは「過去」を大事にするところにあるのだ。「トラウマ」と聞くと「忘れたいのに頭から離れない記憶」というイメージが真っ先に湧いてくるが、「今の自分を形成するもの」という見方もできる。さらに、ネガティブな意味合いが強烈だからこそ「変化を起こしたい」という欲求、そして人生における具体的な指針に昇華される可能性を孕んでいる。もちろん簡単なことではない。強靭な精神力の持ち主である矢口も、戦後10年以上かけて向き合いながら自身の目標を浮き彫りにしていったのだから。
将来の夢をどうやって決めればいいか分からない、と悩む生徒は少なくない。決まらないからとりあえず医療系の学部に、少しでも偏差値が高い大学に、というのは一つの道ではある。が、入学後も「夢」探しは続くだけでなく、そこに具体性も求められてくるのだから、やりたいことの方向性は高校生の段階で定めておいたほうが良い。そして、「やりたいこと」を模索する上では、楽しい面白いことだけを材料にしなければならないわけではない。だからといって、矢口のように「トラウマ」レベルの経験など滅多に無いし、そもそも、あえてする必要は無い。例えば「学校の先生とそりが合わない」、「地元の病院が人手不足で待ち時間の長さが苦痛」といった日々抱えている不満や不便を元に進路を決める人も存在する。大切なのは、自分の中のネガティブな感情を解消しようとすることが他者のためにもなるか、という視点を持つことなのだ。そういった周囲に対する視野の広さを、生徒の中に培っていきたい。
2025.02.21社員のビジネス書紹介⑰
三浦のおすすめビジネス書
『サクッとわかるビジネス教養 東南アジア』助川成也
「世界で」という言葉が出たとき、まず真っ先に頭に浮かぶのは欧米だ。グローバルに活躍するという語を聞いた時にも、まずは欧米のイメージが先行する。私が知っている世界はあまりに狭い。こと東南アジアにおいては、ほとんど知識がなく勝手なイメージばかりだったので、アップデートするためにも手に取った。
内容としては入門編といった印象で、ASEANとしての経済的動向や、各国の歴史や政治体制についても述べられている。東南アジアと一括りにしてはいるが、国によって経済規模はもちろん、文化や政治体制も違う。政治体制が違うからこそ、ASEANは互いに内政に干渉しないことが原則となっているというのには納得した。また、旅行先としてよく聞くシンガポールもただ発展しているという漠然としたイメージだったが、経済拠点であるという先進性の一方、島国の都市国家であるがゆえに資源は他国(水はマレーシア)に完全に依存しているという危うさがあるというのも、説明されて腑に落ちた。その一方で高原や山岳が国土の多くを占めるラオスは、メコン川の存在により農業が盛んなほか、水力発電も活発で電力を他国に輸出しているともある。かと思えば急激な発展によりミャンマーでは電力供給が追い付いていなかいというのも、やはり、一括りでは捉えきれない多様な国家の集まりなのだと思わされる。
海外在住であったり、研修旅行で現地に赴いたりと、生徒の方がきっと身近に感じる機会は多くあるだろう。その時、きちんと拾い上げるためには、まずは自分に知識がなければならないことを痛感した。
徳野のおすすめビジネス書
『ANAのカイゼン』川原洋一
航空業界は何より安全性を重視しているとは聞いたことがあったが、そのために何が実践されているかと問われれば、「とにかく点検に手間と時間をかけているはず」程度のイメージしか抱いていなかった。だから、表紙の帯に書かれた「高い生産性」つまり「効率の良さ」とも言い換えられる文言が、人間の命を預かる仕事の緻密さや慎重さとどう関わるのかに興味を引かれて手に取ってみた。
タイトルにもある「カイゼン」とは元々はトヨタ自動車が編み出した生産方式であり、「欠点を直す」という意味の「改善」と区別するためにカタカナで表記されている。ゴールが明確化されていない非製造業での導入は難しいとみなされがちだが、ANAでは「現状に満足せず、より良くできるところを探し続ける」という「カイゼン」の基本理念を念頭に置いた上で社員一人ひとりが能動的に行動する土壌を形成してきた。そして、「より良くできるところ」とは職場の「ムリ・ムラ・ムダ」を指す。それらは働き手の心身に過度な負担をかけ、「ヒヤリハット(事故や災害に至らなかったトラブル)」を引き起こす要因でもある。大半の組織は大事に至らなければ看過してしまうが、航空業界においては些細なミスの蓄積が全損事故に繋がっていくので悪い芽は認識したその時に取り除いておかなくてはならない。だからこそ、個々の社員が日々の業務の中で対処するべき問題とその真因を追求する習慣を定着させることが重要になってくる。
本著を通して最もはっとさせられたのは、「カイゼンは自分自身が楽になるために行う」という前提だ。組織で働いていると「会社の利益が最優先」が暗黙の了解のようになるし、メンバーに課題解決を求める上でそこを狙いとして明示する管理職も少なくない。だが、ANAはあくまで個人ベースで進めることで身の回りの問題を可能なかぎり具体的を把握すると共に、一人ひとりの社員に「得」が直接還元される仕組みにすることで自発的な行動を促している。それが「自己満足」で終わらないのは従業員内で「ムリ・ムラ・ムダを無くす」という目的が共有されているからでもある。また、カイゼンを称賛し合う機会は作っても、その成果を人事評価には反映させないよう徹底している。「滅私奉公」ならぬ「興私奉公」というわけだ。
竹内のおすすめビジネス書
『センスは知識から始まる』水野学
著者である水野学氏は多摩美大で学んだ後いくつかの企業を経て、グッドデザインカンパニーというデザイン、コンサルティングの会社を立ち上げた。有名どころでいえば熊本県のご当地キャラクラ―である「くまモン」の発案とデザインを行った人物でもあり、クリエイティブディレクターとして活躍している。まさに「センス」が売りである。
しかし、その「センス」とは彼が特異な人間であるために持っているものではなく、あくまでも積み重ねによるものである。というのも、センスとは「数値化できない事象を最適化できる力」として定義づけているからである。そのような明瞭な基準がないものだからこそ、「特別な人間だけが持ちうるもの」のように誤認されてしまいがちでもある。だが、まず「普通」を知っていることがセンスを磨くうえで必要になる。軸の両端に「良いもの」と「悪いもの」を置けると、その真ん中に来る「普通」が見えてくる。「普通」が分かるようになるためには多くのものに触れていなければならないということだ。
様々なジャンルに知識の幅を広げるのはもちろんのこと、主戦場としての分野での「追究」もまた良いものを提供するためには欠かせない。例えばコンビニは「利便性」がその最たる価値だが、「便利」とは何かということはその店の立地はもちろん時間帯によっても変わる。一つを掘り下げることが結局別の知識の呼び水にもなるのである。
また、「知識を得る」というのは「過去を知る」ということでもある。画期的なツールとして登場したiPhoneも、電話機の流れを汲んでいる。これまでに生み出されてきた多くのものの上に新しいものがある、ということを知っていると、ものづくりであったりアイデアを出したりするための準備作業はおのずと決まってくる。
縦軸と横軸とそして奥行き。この3つの観点で、相手や場所、状況に即して適切にチューニングできることが「センス」である。それを発揮するために日々から何を吸収するか、それこそが問われている。
2025.02.14Vol.49 連想式作文(三浦)
三題噺。Wikipediaいわく「落語の形態の一つで、寄席で演じる際に観客に適当な言葉・題目を出させ、そうして出された題目3つを折り込んで即興で演じる落語である。」だそうだ。私がこのワードと出会ったのは学生時代、当時学校の図書室にあったライトノベルの棚に置かれていた、“文学少女”シリーズの中だった。「物語を食べる」少女が、でたらめな三つの単語を少年に投げかけ、少年は少女が食べるための物語を書く。それに友人共々憧れて、思いついたキーワードを書き起こした紙きれを集め、ランダムで引いてはお題を決め、そしてルーズリーフに思いつくまま書いていった。そんな思い出が今も残っている。肝はランダムな単語をひとつの話の中でどう扱うかだ。例えば「海」と「水着」ならば話は早いが、これが「海」と「焼き芋」になるとまた変わる。そこにもう一つ、とんでもないキーワードが入ってきでもしたら、場面設定から展開まで悩むことだろう。どうつなげていくべきか。
そんなふうな思考を思い返すと、文章を書くことは、連想ゲームに似ているのではないかとも思った。このブログの内容を練るときも、いくつかのアイデアをつなぎ合わせていることが多い。そして書くことだけでなく、もしかしたら読むことも、連想ゲームなのかもしれない。
ここで書いたことがあるかは忘れたが、過去に芸大の文芸学科の入試を受けたことがある。その時はエッセイの続きを創作するか、課題文(説明文)を読んで関連する小説を創作するか、どちらかをその場で選択して受験するものだった。私は後者を選び、「掃除機をかけている時に壁にぶつかると痛いと感じるように、人の身体性は延長されるものである」といったような説明文だった記憶があるのだが、そこから「人の身体性の延長」というポイントを抽出し、どんな話の中でそれを扱えるのかを考えていった。それもひとつの連想だ。意識を伸ばす、つまりは触れられないものに触れることすらできる、と繋げ、確か聴診器を使って心臓の輪郭を描き出そうとする少年の短編を書き上げた気がする。今考えてみると結構気持ち悪いテーマ設定だが、そこは若気の至りとしたい。ちなみに今の入試要項を見ていると、「与えられたいくつかのキーワードから発想して、小説(冒頭部分)やエッセイ等の形式で作品を創作する。」とあったので、もう少し三題噺に寄っているのかもしれない。それにしても、「キーワードから連想する」ではなく「発想する」なのも面白い。
こうやって色々と書くことを続けてきた人生だったので、連想する力、言ってしまえば「こじつける力」というのはいくらか鍛えられているはずだ。その一方で、論理的に段階を踏むことには未だに不慣れだ。言語とは、人間とは、といった抽象的なテーマが飲みこめても(頭の中で勝手につなげているからだろう)、数学ところか算数の手順はひとつずつ丁寧に追っていかないとわからなくなる。読解で取り上げられる論説を読んでいるときと、生徒の理数系の問題を見守っているとき、その差を実感する。この論理的思考力というものは間違いなく必要になってくるものなので、私の課題としては、これを今からでも鍛えていくことだ。
私のことはさておき、ただ、やはり作文においては、いくらかの連想力は必要だろう。一つのテーマから広げていくとき、他の題材とどう関連性を見出すか。「そういえば」がいくら出せるか。頭の片隅に置いているものがどれだけ反応するのか。
さて、三題噺の話に戻ろう。三題噺のテーマでブログを書こうと思い立った時、やってみたいことがあった。それはChatGPTに書かせてみることだ。
お題は「バカンス」「コップ」「絶体絶命」、字数は400字前後。この三つのお題は、コバルト文庫のWebマガジンにおいて、「夏の三題噺」を募集していたときのテーマだ。下に出力させたものを貼っておくので、自分で考えたいという方は考えてから見ていただければと思う。ちなみに自分でも書いてみたのだがかなり力量が落ちていてしょうもないものになったので、ここでは割愛させていただきたい。
『夏休みの終わりが近づく頃、田中はひとり静かなビーチにいた。しかし、リラックスしきる間もなく、彼の目の前で奇妙な出来事が起こった。水際に立っていた若い女性が、突然、崖から落ちてしまったのだ。驚きと恐怖の中で田中は、何の考えもなしに駆け寄り、必死にその女性を引き上げようとした。手を伸ばし、ついに彼女の腕をつかむが、力尽きそうになった瞬間、足元に転がっていたコップを蹴飛ばしてしまった。コップは崖の下へ転がり落ち、その音が無情に響く。
「助けて!」女性の声が聞こえた。絶体絶命の状況。田中は全力で引っ張り上げるが、彼の腕も限界に達しそうだ。心臓が高鳴り、足元がふらつく。そのとき、ふと目をやると、上から救助隊のヘリが見えていた。「もう少し!」声を振り絞り、田中は全力で女性を引き寄せる。数秒後、ヘリのロープが降りてきて、無事に二人は救助された。
ビーチに戻った田中は、安堵の表情を浮かべつつ、もう一度コップを見つめた。あの一瞬の音が、今でも耳に残っている。』
なかなかうまいオチの付け方である。ただ、コップが無残に割れた姿が女性の結末と重なってしまったとか、そういうところまで入れていればもっと女性とコップの関連性が見えてきたかもしれない。現時点ではバカンスである必要性も薄いし。と、半ばもっともらしく茶々を入れておく。
2025.02.09vol.48 重なる部分を探す(竹内)
家の近くのとあるカフェ。女性一人で切り盛りしており、落ち着いた雰囲気である。一人で行ったこともあり壁に面したカウンター席を選ぶと、目の前には店主がチョイスした本や雑誌がいくつか並べられていた。たぶん、書店に行っていたのならそのコーナーは通り過ぎていただろう。でもたまたまそこにあったから、「岳人」という山岳雑誌に出くわすこととなった。編集長である辰野勇氏と生物学者の福岡伸一氏の対談が巻頭特集で、福岡氏は教室の本棚に収められている『生物と無生物のあいだ』というベストセラー本の作者なので、「全く知らない人」同士ではなかったために引っかかったのだろう。
対談テーマは「なぜヒトは山に登るのか」。私自身は登山に対してさしたる興味はないのだが、それでかえって、しんどいだけではなく時には危険も伴うそれに魅せられるのはなぜなのかが気になった。この問いに対して最も有名な回答はイギリスの登山家ジョージ・マロリーが残した「そこに山があるから」である。これは実際にはまだ誰も登頂しえなかったエベレストにマロリーが挑むにあたって「なぜエベレストに登りたいのか?」という記者の質問に対して(似たような質問がこれまでにも多かったので)やや投げやりに「Because it’s there.」と答えたところからきている。本人からしてみればぱっと口をついた言葉だったのかもしれないが、単に目の前の山を登るだけだとも、登山家たるもの山がある限りは登り続けるのみだとも、如何様にもとれて示唆に富んでいる。だからこそ多くの登山家たちに与えられた問いにもなっている。記事の中で「なるほどなあ」となったのは、「自分と向き合うため」だという福岡氏の主張だった。登り切るという結果を得ることを目指しているのだと思っていたのだが、過程を重視していることが表れている。一度、箕面駅から箕面大滝を拝みに行った後、勢いに任せてだるまで知られている勝尾寺まで向かったことがある。大して調べもせずに歩き始め、2時間以上はかかって何とか到着した。途中で「こんな革靴でやることじゃなかった」と何度も引き返したくなったのだが、登山が習慣ではないだけに「もうやらへんかもしれへんし」とすぱっと諦めきれずにぜえぜえ言いながらどうにかやり切った。「そこまで行った」という結果が欲しかったということだ。登り始めこそ同行者とぺちゃくちゃ喋っていたもののだんだん坂の険しさにそれどころではなくなり、時々互いを鼓舞する以外はほとんど無言になった。その時自分の頭の中に何があったのかは全く覚えていないが、「しんどい」とか「早く着いてくれ」とかそんなものだったはずだ。「自分と向き合う」という場は、色々な形で作ることができる。志高塾の場合なら、やはり分かりやすいのは「作文」と「読書」である。前者の場合意見作文が想定されがちだが、決してそれに限ったことではなく、要約作文でも自分の中でベストな言葉を見つけ出そうと試行錯誤することはまさに向き合っているといえる。読書については時々「たくさん読んでいる割にテストになると点が取れない」という話を親御様や生徒本人から聞くことがあり、「読む」ということよりも「問題を解く」ことに不慣れであることに原因があると考えていたのだが、「読み方」の方をもっと良くしていくことが必要なのではないかと思うようになっていた。それがまだモヤモヤした状態のままだったのだが、氏の言葉をヒントに、「重なりを探そうとする」ことが内容を捉えるための第一歩だと自分の中で少し答えが見えてきた。「なぜ山を登るのか」が登山家にとっての命題であるように、もっと自分の中で確かな言葉を追いかけていかねばならない。
少し話は変わるが、この「岳人」という雑誌の編集長である辰野氏はアウトドア用品のブランドであるモンベルの創業者・代表取締役でもある。もともとは京大の山岳部有志によって刊行されていた本誌が、1949年から2014年8月号までは中日新聞社から発行されていた。休刊の報を受け、当時は広告主であったモンベル社が運営を引き継ぐこととなったのだ。カフェで手に取るまで存在を知らなかったわけなので、今日まで続けてくれたことに感謝である。ネットメディアによるインタビュー記事(https://yamahack.com/5073)の中で、「岳人」を山に例えると何かと問われ、辰野氏は次のように答えていた。「3000m級の山でありながら、初心者でも訪れやすい立山連峰です。一方で山の上級者も惹きつける魅力があります。古来から山岳宗教が盛んで、山麓を含め文化が息づいています」
「将来に繋がる考える力を身に着けることを目指す場所でありながら、一つひとつのステップである受験に対しても、志高塾だからこそできるアプローチで子どもたちが挑み、乗り越えられるようにします。小学生から高校生、さらには国語や勉強に対する姿勢が様々である生徒一人一人と向き合って、その子がその子らしくいられる場であり続けます」
山に関しての知識は皆無で、立山連峰だってよく知らないのだが、目指しているところに関してはものすごくストンと自分の中に入ってきた。未知の世界からこそ得られる面白さ。
2025.01.31Vol.47 「クリエイティブ」を問い直す(徳野)
10から20年後には日本の労働人口の約49%がAIやロボットに取って代わられる。その予測じたいはもはや「耳タコ」だ。2015年に野村総研とオックスフォード大学が共同で発表したレポートが出処だとはつい先ほど知ったのだが、それによると主にマニュアル化、パターン化が可能な職種が対象になる一方で、人間の心に関わるアートや対人コミュニケーションの領域はしばらく安泰とみなされていた。しかしながら、チャットボット型の生成AIの目覚ましい発達を鑑みると、クリエイターやカウンセラーの立場も危うくなってきた。それは学生との密なコミュニケーションを売りにしてきた個別指導の塾講師も同様だ。子どもに問題の正解をすぐに教えないよう設計された学習アプリはすでに登場しているし、他人の顔色が気になる性分の学生の中には、感情を持たないAI相手だからこそ肩の力を抜きながら勉強に集中できる子だって少なくないはずだ。今はまだ極端な話になるが、ほんの一握りの優秀なプログラマーと組織の意思決定に関わる重要人物以外は労働力として求められなくなる未来も現実味を帯びてきている。
そして、機械音痴なくせに呑気に過ごしてきた私も、『資料読解』の改訂に役立つかと思って去年の3月末に某IT企業が開催していた「ChatGPT超入門」というオンラインセミナーに参加してみた。講師役の社員さんが「ChatGPTで何ができるか」という根本から上手く使うためのコツまで丁寧に解説してくださったおかげで、食わず嫌いしていた生成AIに触るようになったのだからけっして無意味ではなかった。とは言っても、GPT3.5の当時のスペックでは学習が追い付いていなかったマニアックな漫画家やミュージシャンの経歴を述べさせて鼻で笑う程度の遊びを2週間続けてだけで終わったのだが。
しょうもない扱い方しか出来なかったのは、結局のところ私自身が自分の仕事には今後も深く関わらないだろうと決めつけていたせいだ。作文を通して生徒の考える力を養うことを目指す立場の人間が生成AIに頼るのは邪道だと考えていた節があったのだが、今年になって風向きがまた変わってきた。まず特筆すべきは、内部向けの「志高くVol.214」で紹介された「AI 経営講座 AI Business Insights 2025」を松蔭に求められる形で受講し始めたことだ。最先端の情報に触れながら他の講師や生徒のためになる提案に繋げるのはもちろんのこと、私個人が日進月歩のテクノロジーを使いこなせるようになることで仕事の能率を向上させるのが狙いである。現時点で初回のアーカイブ映像を視聴しただけではあるものの、最高学府の研究者である松尾教授だからこそのマクロな視点でセッションが展開されていたのが印象的だった。どうしても比較対象になってしまう先述のセミナーでは、開催企業が自社製品をPRしやすいよう話題を「日々の事務処理を効率化するには」という範囲に収めていた。そこの需要が世間的に増えてきているのは事実だろう。だが、ここからは松尾教授からの受け売りになるが、日本が世界デジタル競争ランキングにおいて順位を年々落として67か国中31位になっている背景には専門人材の不足の他に、DX化を進めるべき業務での労力をそもそも無駄と捉えない、もしくは多少の面倒ならアナログの力で乗り切ってしまう企業体質が大きく関わっている。(ちなみに、競争ランキングの1位はシンガポールで、我が国と同じ東アジアの韓国が6位、中国が14位である。)よって、目先の、というより手元の利便性を謳うだけでは訴求力が弱く、我が国でビジネス面ひいては技術面での成長を加速させるのは困難なままだろう。全体的な底上げのためには、AIが人間を含めた社会全体にもたらす変化、つまり将来的にどのような「価値」を生み出すかを探る過程が重要になる。
もう9年も前になるが、オランダのマウリッツハイス美術館とレンブラントハイス美術館のチームが、17世紀に活躍した国民的画家レンブラントの画風を模倣した作品をAIに生成させた。
https://wired.jp/2016/04/14/new-rembrandt-painting/
学芸員の知見を結集して「レンブラントらしさ」を巧みに視覚化させた興味深い研究プロジェクトであったのと同時に、そういった事例がニュース等で取り上げられる度に「イラストレーターはもう必要無いのではないか」という声が必ず上がる。「イラストレーター」の部分は「ライター」や「ミュージシャン」に置き換えられるので、「人間がクリエイティブな能力を身に付ける必要は無い」と主張しているようなものだ。事実、何かを形にするだけならコスト面では機械の方が断然優秀だろう。だが、不要論者の人たちに聞きたいのだが、生成AIが提示してきたアイデアや作品を本当の意味で「面白い」と感じたことがあるだろうか。例えば、フランス政府が開発支援した会話型の「ルーシー」は「牛の卵は健康に良い」などのハルシネーションを連発して話題になっている。そうやって意図せず生み出された珍回答は暇つぶしにはなる。一方で、そこでの「面白い」は「小馬鹿にできる」ということに過ぎないし、件の「ルーシー」も来年にはまともな挙動を安定させている可能性が高い。すると、国際的な知名度が高いChatGPTやGeminiのように最大公約数的なアウトプットを返してくるものしか残らなくなる。(裏を返せば、世間の常識を知る媒体としては見どころがあるとも言える。)個人的に、生徒たちにはそういった生成物を無批判に受け入れ「自分の意見」としてどこかに提出するのは止めてほしいと考えている。「楽をするのはずるいから」という根性論が理由ではない。「常識に囚われないこと」や「個性的であること」のように「その人ならではのもの」を打ち出せる人材が評価される傾向が強くなるであろう社会でより良く生き抜いてほしいからだ。自分の言葉を編み出し、単なる一般論を超えていく過程こそが「クリエイティブ」なのだと伝えていくのが、AIの時代を生きる我々講師の役割である。
2025.01.25社員のビジネス書紹介⑯~『リハビリの夜』感想文~
「志高く」Vol.666で予告されていた通り、今回は社員3人ともが『リハビリの夜』(熊谷晋一郎著、医学書院)を読み、以下に感想を述べています。一冊の本に対して、共通するポイントもあればそれぞれ独自の視点もあり、読書会のような面白さがありました。三者三様に読みごたえたっぷりの感想文、ぜひじっくりとご覧ください。
【三浦の感想文】
要約ではなく感想として、以下につらつらと書いていく。
ふと思い出したのは、ピアニストに対してロボットを使ったトレーニングをするという記事だった。以下にURLを貼っている。正確には、「5本の指を独立かつ高速度に動かせる『外骨格ロボット』を用いて、自力では不可能な複雑で高速度な手指の動きを体験できるトレーニング」とのことだ。結果的に、ロボットを用いた手指だけでなく、トレーニングを行っていない反対の手指にも効果が表れたという。
https://www.sonycsl.co.jp/news/16974/
どうしてこれを思い出したのかと言えば、本書で筆者が取り組んでいたリハビリが、模範とされる健常者の動きをなぞらせるものだったからだ。正解の動きを模倣する行為という点では上記のロボットと共通するような、しないような。
それはさておき。いわゆる身体的多数派である私には実感としてイメージが湧きづらいかもしれない、と思って読み進めていたのだが、それは杞憂だった。とはいえ、共感したと言うべきでもないのだろう。いわば「追体験」だ。脳性まひにより常に緊張を強いられる肉体、肉体の緊張がほどけていく弛緩のプロセス、そこに介入する他者との触れ合い。それらは丁寧に描かれ、想像をするには十分だった。
リハビリをする側であるトレーナーの意識は、される側であるトレーニーの意識と混ざり合っていくという。そして読者である自分は、トレーナーとトレーニー、どちらの視点の側にも立ちながら読み進めていく。本書では身体的な関係性を中心に述べられているが、きっとそれは身体に限らない。教える側になったとき、相手の思考を追いかけるようにと意識を巡らせることは少なくない。もちろん身体的なイメージほど明確に融和するわけではないが、それでも、相手に入り込もうとする意思はそこにある。
その時、私は果たして、相手に「あそび」を許しているだろうか? この「あそび」とは本文の表現だったが、言い換えれば余白ともとれるだろう。一方的に相手の一挙手一投足を監視し、そのひとつひとつを一方的に強制しようとしていないだろうか? 筆者がリハビリの中で怯えを感じた場面である。相互に触れ合い、関係を作り出すことができなければ、怯えは緊張へと転じていく。強制的にではなく、互いにつながりを結んで初めて、意味のある関係性となるのではないだろうか。
ピアニストをトレーニングしたロボットの話題に戻る。筆者のリハビリは見よう見まねで、見本に自分の身体を合わせようとしていく(そしてそれゆえに身体の強張りは増し、目的に到達できない)作業であった。ロボットの方は外部から、「合わせようとする」力が働く。そのロボットと指先の間に、どのような関係性が生まれるのだろうか。
【徳野の感想文】
リハビリは誰のためのものかと問われて「トレイニー(訓練の受け手)」と答えない人はおそらくいないだろう。だが、著者が子どもの頃に接してきたトレイナーたちは、「トレイニーのためになる」とは「健常な動きができるように矯正してあげること」という傲慢とも言える認識の下で施術を行っていた。脳性まひと共に生きてきた著者と多数派の身体を持つトレイナーでは運動が起こるまでの過程つまり「仕組み」が全く異なっている事実が無視されていた環境で、指導者からの苛立ちの目にさらされる著者の精神は余裕を失い、関節はますますこわばっていく。まさに悪循環。
他者に身を委ねたくても自分と調和した動きをしてくれる存在を見つけるのは難しい。だからこそ、著者は主体的生活をする力を養うべく大学進学を機に一人暮らしを始めた。必要に迫られれば介助を受けたり、自宅のバリアフリー化を進めたりするのだが、恥ずかしながら私にとっては、重いハンディキャップ(この表現が適切なのかすら自信が無い)を抱える人が自活できるようになること自体が驚きだった。著者が下宿先のきわめて一般的な形のトイレに初めて「挑んだ」ときの緊迫感と無力感、そして後始末に費やしたであろう労力は文字を追うだけでも肩に圧し掛かってくるようだった。しかし、著者にとっては上手く行かないと分かった時の脱力感は「官能」になる。そこから住環境や屋外と「融和」していくための改善点を発見し、弦楽器のチューニングに喩えられるアップデートを繰り返すきっかけになるからだ。その失敗への前向きな姿勢も「自分で問題を解決していける」という自己肯定感があってこそなのだ。
同時に、他者からの支えが必要なのに変わりは無い著者は、補助者に助けを求めることの重要性にも言及している。自分の状況を把握し相手に要望を明確に伝えることも立派な能動性とみなせる。また、補助者がどう振る舞うべきか戸惑うこと自体はけっして悪いことではない。少数者に受動性を押し付ける権威的なトレイナーとは違い、自分とは全く異なる他者のペースを理解しようというまなざしがあるからだ。この著者の見解には、講師として少しだけ救われたような気持ちになった。
そして、コミュニケーション能力について気になっていることがある。本作の著者は知性溢れる繊細かつ濃密な筆致で脳性まひと共に進んできた自身の半生を振り返っている。だが、全ての少数者が著者のように言葉を扱えるわけではないのも事実だ。そういう人びとがどのようにして他者と能動的な信頼関係を築いているのか。まだまだ知らなければならないことばかりだ。
【竹内の感想文】
歩くという動作一つにおいて、股関節、ひざ、足首といった各部位がスムーズに連動してそれを可能にしている。このことからは、一つひとつに脳からの信号が送られる「縦の関係」だけではなく、筋肉同士が互いに作用しあっている「横の連携」があるといえる。この連携のことを「身体内協応構造」と呼ぶ。脳性まひである筆者の場合はそれが過剰であることが身体の不自由さに繋がっていた。ある動作を行うときの筋肉の動きには、ほとんどの人が無意識である。だからこそ過剰な緊張が体に走ると、意識的な運動が上手くできなくなってしまう。そのようなこわばりをゆるめることのできる介助が彼には必要だった。
幼少期からの数々のリハビリ経験を通じて、トレイニーである筆者はトレイナーである人間はもちろん、自分自身との身体、そして周囲に存在するモノにまで目を向け、「協応構造」を作ってきた。自分自身に対して他者がどのような反応を示すのか、自分がモノに対してどのように接地しているのか、その確認、すり合わせを何度も何度も行っていくことで自分に自由がもたらされていく。できることが生まれる。トレイナーの強引な指導でもトレイニー自身の努力でもなく、両者が一体化したり、離れたりする柔軟な関係性が障害を負った者の自立を促す。ここで注目したいのは、このような関係はおそらく双方が同時に歩み寄って確立されていくわけではないということだ。どちらか一方が先により深く相手を観察し、対応し、場を整えるからこそもう一方が応えやすくなる。そしてその先んじた動きが押しつけがましくないことがコミュニケーションを円滑にする。大人と子ども、トレイナーとトレイニー、講師と生徒のような関係性において、前者は後者をよく見ることが求められる。相手をほぐしていくためにまなざしを向けることは当然だ。しかしその時、後者も同じように前者を見ている。そのことを忘れてはいけない。親御様と面談などで話していると、子どもたちが教室での出来事を持ち帰っていることがよく分かる。自分との直接的な会話だけでなく、他の生徒や、さらには講師同士のやり取りなんかもよく聞いているし、そこから「どのような人物か」を汲み取っている。「今日はやり取りが充実したなあ」というときは、その手応えを喜ぶと共に、生徒が受け入れる姿勢を持てていたということも押さえておきたい。筆者は街中で介助を求める時、相手の目を見つめた際にその人が瞬時に見せる姿勢の変化から、その人が助けてくれるのかどうかをなんとなく推察することができる。そして実際に助けを受ける際には決してなされるがままではなく、介助者の心情をなぞりながら、どのようにしてほしいのか導いていく。
教えたり、助けたりする役割を担うと、自分が引っ張る側であるという意識が強くなる。しかし実際には相手の意思が存在し、同意も反発も起こりえる。それすらも言葉や態度にはっきりと表されないことだってある。見る者であると同時に見られる者であるという自覚によって、相手との協応構造が結ばれていくのであろう。








