
2026.08.21Vol.99 長い瞬間(竹内)
夏期講習期間に入ってから、豊中校から池田市内の自宅まで週2ペースで徒歩で帰っている。やりたいやりたいと思うだけで思うように継続しないランニングをどうにか頑張る方が良いのだろうが、しなければならない帰宅そのものを運動にしてしまう方が心理的ハードルは低い。並走している宝塚線の線路とは蛍池で別れ、国道176号線をひたすら歩き続ければ池田駅の前に到着する。おおよそ授業1コマ分。Googleマップで経路検索しても所要時間は同じくらいなので、特段ペースが遅いわけではないようで一安心である。きっとこんなのは時間の無駄であろう。早く帰って夕食を取り、翌日に備えて寝るのが良いであろう。だが、私はできる限りこういうことをしたい。途中駅である蛍池や石橋阪大前ではほとんど下車することがないため、車窓から見える道を実際に通ってみると新鮮である。また、歩いてみることで道に起伏があることもよく分かる。
歩きスマホは危ないので基本的に他に出来ることはないのだが、耳は自由ということである程度周囲に注意を配っていた1回目以降はPodcastで適当に気になったものを聴いてみることにした。ある時は、たまたま前日に最新回がアップデートされていたことでおすすめ表示された文芸評論家である三宅香帆の「視点倉庫」を選んだ。ゲストは岡山出身の歌人、大森静佳。彼女のことをこの時初めて知ったのだが、その彼女が心を動かされた現代短歌として挙げていた吉川宏志の一首が印象的だった。
「海の場面に変わる映画のひかりにて腕の時計の針を読みおり」
時々テレビ番組などで短歌が特集されるのを見ていると2回詠まれているが、この時は文字情報がなかったことから「だから2回詠まれるのか」と解釈した。音だけでは2回でもぱっとはイメージできなかったのだが。スクリーンに映し出される場面の明かりで時計の盤面を確かめる様子。短歌はもっと熱っぽいというか、気持ちが前に出ている作品が多いように捉えていたのに対して、これは状況に焦点を当てている感じがした。退屈な時間を持て余しているのか、はたまた残り時間から今後の展開を予想しているのか。それは定かでないのだが、ささやかな光源を頼りにしてちらっと腕を動かす仕草は、自分の無意識の行為に含まれているように感じられる。
相手をあざ笑うこと、見下して馬鹿にすることという意味を持つ「冷笑」の姿勢がネット社会からじわじわと生身の人間のコミュニケーションにも広がりつつある。正面切って対峙することなく、盛り上がっている物事や本気で何かに取り組む人を一蹴する。自分がわからないものや、相容れないものを「笑う」ことで自分の下に置く。
いつかの日曜、夕方から甲子園で高校野球を観戦してきた。今回初めて球場に着いてから当日券を買った。内野席は売り切れていたので、普段の阪神の公式戦ではほとんどチケットが取れないことへのせめてもの慰めとしてライトスタンドで見ることにした。その際、売り場のスタッフに1塁側の出場校の一覧を提示され、そちら側の席で良いか念押しされた。目当ての学校があったわけではないので気に留めることもなくそのまま購入したのだが、「わざわざそんなこと確認するのか」と意外だった。そのように思う人は私のほかにもいるだろう。しかし、3点差を追いかけていた1塁側のチームが、終盤にかけて徐々に相手投手をとらえ始めたころから、応援団の音頭に合わせて手拍子するライトスタンドの人々が増えた。「1塁側」というちょっとした帰属意識があったのかもしれない。逆転サヨナラ勝ちになれば面白いよなと、分かりやすいドラマを求めるような空気。高校生くらいの自分なら同じように肩入れしていただろうが、その雰囲気に抵抗感があったので大人になったものだ。攻防戦に手に汗握る展開が大きな魅力であるのは確かな一方で、「熱狂」は刹那的だ。そういう意味で、瞬間的に評価を下す「冷笑」と通じる部分があるのではないだろうか。その時の盛り上がりに身を任せること、その時に軽妙にばっさり切り捨てること、それらは本来そのもの自体が持っている文脈をないがしろにしてしまう。
時間とは一瞬の連続である。瞬く間に過ぎていくたくさんの「瞬間」の、一つでも多くに自分なりの意味付けを行うことが自身を豊かにするのだろう。消費者になっている時があること、主体は自分にあることに気付けるか否か。








