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2018.10.30Vol.372 その質問が嫌なんじゃない

 「Vol.359 研修レポート3部作」でも取り上げた研修課題のレポート「志高塾に通う生徒に将来どのような人材になって欲しいか」について、最近大学生が提出したものをここで紹介させていただく。

 志高塾に通う生徒にどんな人材になって欲しいか。この問いに対する答えをすっきりと出すのは難しいことだった。なぜなら、これについて考え始めたとき、こういう人にはなって欲しくないという思いばかりが浮かんだからだ。読書をすることの豊かさを知らない人にはなって欲しくない、頭でっかちな人にはなって欲しくない、すぐにへこたれる人になって欲しくない。しかし、ここでもう一度問題を見直してみると、「将来どのような人材になって欲しいか」とある。人材という言葉から、この問いには社会との結びつきが前提にあるように感じた。そこで私は、志高塾に通う生徒に現代社会でどう役立って欲しいか、そしてどう生き抜いて欲しいか、を考えることで表題への答えを出すことにした。
 まず、現代社会を生きる私たちにはどのような力が必要かを考えてみる。これはとても大きな問いだが、一番に私が思いつくことは、情報を選別し、自らの目的達成に役立てる力、だ。私は今まで、情報化社会に関することをよく耳にしてきた。小学校の頃から総合学習の時間などに聞かされ、ニュースや新聞で主張されているのもよく見かけた。これは、情報が溢れる時代になっていることを私たちが自覚しているからだろう。この力も情報リテラシーという言葉で表現され、一般的になってきている。しかし、つい最近、大学の授業で情報社会に関する新しい意見を聞いた。その授業の先生が言うことには、現在の社会では様々なものの移り変わりが速く、それに対応していくには学び続ける必要があるそうだ。例えば、ここ三十年ほどでパソコンが一気に普及した。それに合わせて仕事や勉強の場面でもパソコンを使えることが当たり前に求められるようになった。手書きからワープロ、そしてパソコンへと対応し、使いこなすことが社会での活躍につながった。これは当たり前のことだと思われるかもしれないが、社会の人々は案外このことを意識していない。意識的にこれを行うことに意味があると考える。
 このように、次々と進化する技術や、めまぐるしく変化する状況に対応することがこの社会で生きるために重要だ。そしてそれができる人になるには、自分の課題を解決するために必要なものを見つけ、学び続ける必要がある。ここでの「学び」とは学校などで半強制的に行われる学習ではなく、自らの意思で自発的に行われる学習のことを指す。学校での教育がおおよそ、社会に出るための準備という目的で行われるのに対して、社会に出てからの「学び」はあくまで自主的で、個々人に任せられていると言える。そのため、このような、社会に出てからの学習は、無意識のうちに行なっている人と、できていない人とがいる。先述した例に結びつけると、パソコンを使いこなして自分の課題解決に活かしている人と、使いこなせず本来の力を発揮できていない人がそれぞれにあたる。その例は仕事や勉強の場面のみならず、生活の中にもある。高齢者の一人暮らしを例に挙げてみる。お年寄りの中には、重い荷物が持てないために、近隣の住民についでに買い物を頼む人がいる。しかし、それを申し訳なく思って十分な量を頼めないことや、自分は人の厄介になっていると気に病んでしまうことがあるという。このような場合、もしパソコンが使えたら、スーパーのインターネット注文サービスが利用できる。それができれば、人に遠慮せず買い物ができるのはもちろん、自分の力でできたと、自立性を取り戻すことができる。このようなことが豊かな人生につながるのだ。つまり、学校教育を終えても常に自分に今必要なものを考え、学習を続けられる人の方が充実した生活を送ることができ、ひいては社会での活躍につながると言える。
 ここまで、情報社会に生きる私たちに必要な力について考えてきた。そして私はそれを、生涯学び続けられることだと結論づけた。これには、既述した通り、自発性が必要だ。私はこの、自発性を持っている人、を今回の問いの答えとする。このような人は豊かな人生を送れるのに加えて、自分の置かれた状況に応じてその場で役立つにはどう行動すべきかを考えられる。また、自分がやりたいことを見失わずに生きていける。私が冒頭で述べた、どう役立って欲しいか、どう生きて欲しいかという問いの答えを自分で見つけられる人になって欲しい。
 そして、これは親御様がそれぞれのお子さんたちに対して抱く願いと一致するのではないか。私は、親が子に習い事をさせるのは、その子の可能性を広げるためではないかと考える。もちろん、具体的な成果を期待するのが当たり前だが、大きな意味では子どもの人生のためだと言えるのではないか。子に対して、こうなって欲しいという思いを抱くのは、その子のより豊かな人生、ひいては社会への貢献を願ってのことだと考えるからだ。それならば、私が今回出した答えを意識して、志高塾の講師として働くことは親御様の思いに応えることにつながると思う。
 この作文で私が出した答えは、人生を通した壮大なものになってしまった。一介のアルバイターの力でそんな人材に導けるかはわからないが、その人を形作る経験の一部には確実になるだろう。そして私にとってもそれは同じである。そのことを意識して働きたいと思う。

 体験授業に来られた親御様に「どんな先生が教えられているんですか?」と聞かれることは少なくない。それは至極真っ当な質問である。この場合の「どんな」というのは、大学生かそうでないのか、ということである。正直に告白すれば、この問いには瞬間的イラっとする。それは、その問い自体に対してではなく、尋ねられた親御様に対してでもない。では、何に対してか。他の塾に対してである。一緒にされることが嫌なのだ。志高塾の大学生とは違う、という自負が私にはある。その一つの証として、このような形で時々大学生の文章をお見せしている。
 今、朝井まかての『眩(くらら)』を読んでいる。葛飾北斎の娘、絵師であるお栄が主人公の物語だ。「そうそう、そうやんな」と納得した一節を紹介して、この文章を締めることとする。

 絵の世界は過酷だ。人となりが悪くても巧いものは巧いし、人が良くても一生、芽が出ないものもいる。ただ、五助がいつか筆を持つようになれば、悪達者にだけはならないだろうと、お栄は思う。小手先の巧さで満足して、適当に茶を濁すような絵だけはあの子は描くまい。

2018.10.23Vol.371 縁

 一昨日、豊中校で受け入れ停止前にご予約をいただいていた3件の体験授業を行う予定であった。そのように書くぐらいだから実際は違ったということである、30分遅刻してきた1組の親子には玄関先でお帰りいただいた。確か「私は、次もつかえていますし」と言う表現を使った。1組目であったため事実そうなのであるが、最後の組であっても同じようにしたであろう。それゆえ「つかえているから」とはならなかった。
 それには伏線がある。その親御様は一度体験授業をすっぽかしていたのだ。当日に連絡はなく、後日再調整の要望をされた。それに応じるべきかどうかで、正直逡巡した。生徒が増えているから調子に乗って断ろうとしているのか、少なかったらもみ手をしながら「是非是非お越しください」となるのであろうか。自分の心が答えを出せないまま「2度目はしよう」と決“頭”した。もちろん、「決頭」なんて言葉は無いわけであるが、心の踏ん切りはついていないので「決心」は違うな、と。
 日程調整が終わってからも、何となくそのことが頭の中に、いや、この場合は心の中に残っていた、とした方が適切だ。そんな中、思いがけず開校1年目のことを思い出した。同じようなことがあったのだ。連絡もなく体験授業に来ない、ということが。あれはまだ開校して2, 3か月のことであった。ただ、大きな違いがあった。当日に電話をいただき「本当に申し訳ないです」と心から詫びられていた。それに対して「分かりました。ただし3度目はありません」ときっぱりと伝えた。私は、そのときの状況を克明に覚えている。梅田のDDハウスにある「にんにくや」に当時教室長を任せていた女性社員とご飯を食べに行っていたのだ。オーダーしたものを待っているときに、携帯に着信があった。電話を転送していたからだ。その番号を見て「あっ、今日の人からや」というようなことをつぶやき、私は店の入り口まで歩いて行った。そして、上のようなやり取りをした。「次はないですよ」というのには正直勇気がいった。まだ、2, 30人しか生徒がいなかったから。だが、生徒の多寡で行動指針が変わるようでは、間違いなく質の高い授業は提供できない。
 その後どうなったか。長女と長男の体験授業を同時に行い、2人とも入塾していただけることになった。当然のことながらそれは嬉しかったのだが、それ以上に、そのお母様に「先生は、何だか信用できる」というような言葉をいただけたことの方が私を喜ばせた。そのお母様は教育系のビジネスをされていて、当時も今も、我々と比べものにならないぐらいの生徒数を抱えておられるのだ。そのような方からの「信用できる」は随分と励みになった。
 そのとき、まだ2, 3歳の二男を連れてこられていた。そして、真新しい壁紙に豪快に落書きをして帰っていった。数年後、積年の恨みをはらす機会を私は手に入れた。彼が3年生ぐらいの頃に、入塾したのだ。「先生、この子はやらないと決めたら、てこでも動かないので大変ですよ」というようなことを事前に聞いていたのだが、果たしてその通りであった、というより、予想をはるかに上回っていた。気分によって、鉛筆を持たないのは当然のこと、教材を見ることすらしないのだ。そこからは根競べである。他の所であれば時間が来れば帰すのであろうが、確か授業後2時間でも3時間でも残していた。その後海外に移ったこともあり離れていたのだが、今年の5月、中3になった彼が帰ってきた。これは以前に書いたかもしれない。高校入試の小論文対策のために、作文の力を付ける必要があり、彼自らが志高塾で学びたい、と言い出したのだ。再びチャンス到来である。
 この前、土曜日の授業を彼は寝坊で無断欠席した。その振替を翌週の土曜日に通常分と合わせて2コマ連続ですると告げた。彼が土曜日に友達と遊びたいのを私は知っている。週2回来ているため平日の授業の際に、勝手にいつもより早く来て「今日、振替してください」と言い始めた。席が埋まっていなかったので可能ではあったのだが「ふざけんなよ。やることやってから、お願いをしろ。こっちにも都合があるんやから、自分の思い通りになると思うな」と突っぱねた。私の仕返しはこれからも続く。そう言えば、中学の途中まで通ってくれて、今は大学生2回生になった長男が、今月4, 5年ぶりに教室を訪ねてきてくれた。今は、動画制作などを個人で請け負っているとのことだったので、「昔、俺にさんざん迷惑をかけたから、安くでやってくれるんやろうな」と脅し、「喜んでやらしてもらいますよ」という言葉を引っ張り出した。 
 言い尽くされたことかもしれないが、縁というのは不思議なものである。歴史年表のように直線的なものでなく、起点はあるのだが、それは円である。子供たちの人生は我々と関係なく回り続けるレコードである。縁があれば、志高塾の針はそれに触れることを許される。傷をつけないように、でも、それを恐れすぎるといい音楽を奏でられない。
 2件の体験授業を終えると、私のパソコンの横にその日送られてきたFAXが置かれていた。塾の生徒募集をサポートする会社からのもので、宣伝文句がそこには並べられていた。「生徒の数を増やしたいんじゃない。志高塾のやっていることを理解してくれる親御様にお子様を連れてきていただき、期待に応えることで満足していただく。そのような親御様を増やしたい」。太字になった「楽して生徒を増やせます」をぼんやりと眺めながら、強く訴える自分の心の声を聴いていた。

2018.10.16Vol.370 そこから分かること

 時事ドットコムニュース10月7日版に掲載されていた「運動すれば『諦めない子』に?」が“いい”題材になりそうだったので、ここで紹介する。なお、①~⑥の段落番号は、その後の説明のために私の方で挿入した。

①2017年度の体力・運動能力調査では、12~19歳について、達成意欲と運動習慣、体力との関係を分析した。その結果、運動する頻度が高いほど、最後まで物事を諦めず、やり遂げる気持ちが強い傾向にあることが分かった。
②「何でも最後までやり遂げたいと思うか」の問いに対し、週に3日以上運動する15歳の男子の46.7%、女子は49.9%が「とてもそう思う」と回答した。一方、まったく運動しない男子は23.1%、女子が21.1%と低かった。
③体力との関係では、「とてもそう思う」と答えた15歳男子の新体力テストの合計点は52.8点、女子は53.1点で、最も高かった。18歳の男女でも同様の傾向がみられた。
④スポーツ庁は「子どもを持つ親にとっては関心が高いので、スポーツとやり遂げたいと思う気持ちに関係があることを示したかった」と話す。
⑤小学生に対する入学前の外遊びと体力などの関係も調査。入学前に外遊びを週6日以上していた10歳男子のテスト合計点は58.6点で、週1日以下の男子より6点高かった。10歳女子も同様に約6点高かった。
⑥また、10歳の男女は入学前に外遊びの回数が多いほど、現在も運動する頻度が高かった。同庁は「幼児期の外遊びの習慣の大切さが出ている」としている。

 先日、中1の生徒の親御様から国際バカロレアに関することで相談を受けた。かいつまんで説明すると、国際バカロレア機構が発行する国際バカロレアの修了資格が得られると海外の大学を受験する上で有利になる。そのお母様曰く、ほとんどの教科で文章を書くこと(もちろん、英語で)が求められる、とのこと。時々このような、志高塾にそれに関する実績があるわけでもなく、もっと言えば私自身にほとんど知識すらないことにおいて「志高塾で対応して欲しい」とお願いされると嬉しくなる。念のために断っておくと、我々は日本語で論理的に文章を書く訓練することを求められている。「先生、この件で実績がありますか?」、「先生、このことに詳しいですか?」というような質問をされることはほとんどない。バカロレアはそれなりに知られたものなので、その対策を売りにしている教育機関などもあるはずなのだが、我々に頼っていただけるのだ。
 上のような対策を伴うこと以外にも、たとえば、京都大学が高校1, 2年生を対象に行っているELCAS(エルキャス)という体験型学習の講座に関して「先生、どう思いますか?」と夏休みの前ぐらいに尋ねられた。このような場合、調べて、自分なりの結論と、そのように考える理由を添えて回答するように心がけている。
 親御様にお願いされることと、冒頭の記事がどのように関係するのかと言うと、私は日々、日々というとかなり大げさであるが、何かしらの情報に触れると、その意味するところを考えるようにしていて、それが見解を述べる上で役立つのだ。そのような作業は仕事上必要であるとも言えるし、別に仕事のためというわけでもなく、どちらかと言うと昔から自然とそのようなことを考えてきたような気がする。
 まず、①段落。気持ち悪いのは12歳から19歳という年齢である。おそらく中1から高3までが対象であったのだろうが、1年留年している人がいて、12歳から18歳ではなく、19歳まで含まれたのであろう。
 そして、②段落。数字の意味を考える上で最も重要なのがここである。男女ともに、週3日以上運動する子は、まったく運動しない子の約2倍になっている。これだけ見ると「やっぱり運動は大事だな」となるのだが、なぜか比較しているのが、「週1, 2日運動している子」ではなく「まったく運動しない子」なのだ。インパクトを出すために大きな差が出るグループと比較しているのだ。もし、男女ともに「とてもそう思う」と答えたのが80%ぐらいだと運動と諦めないこととの結びつきは強いと言えるのだが、実際は50%を切っているので、その相関は弱い。
 ③段落のデータからはほとんど何も読み取れない。「とてもそう思う」の次のレベルが仮に「まあまあそう思う」だったとして、彼らの得点が提示されていないからだ。そのことから、それほど大きな差がなかったと推測される。また、15歳と18歳でそのような傾向が見られたというのは、それぞれ高校、大学受験を控えていて、1, 2年生よりは目標を達成することに対する意欲が高まっていることが関係しているように思う。
 ⑤, ⑥段落は当たり前すぎる。入学前にゲームばかりしていた子供が小学生になって外遊びが急に増えるとは思えない。しかも、⑥ではなぜか数字ではなく「頻度が高い」などという抽象的な表現にとどまっている。そして、外で遊ぶ機会が多ければ、体力テストでいい点数が出るのはある種当然のことである。
 いろいろと数字の後ろに隠れていることを指摘してきたが、この記事は非常に良心的である。④段落で種明かしをしてくれているからだ。「スポーツとやり遂げたいと思う気持ちに関係があることを示したかった」と、そういう風になるようにデータの見せ方を工夫しました、ということを明らかにしてくれているのだ。担当しているのがスポーツ庁なので、さもありなん、といった感じである。
 先の記事に対する私なりの読み取り方を紹介してきた。それが正しいかは分からないが、それほど大きくは外していないはずだ。こういうものは、一度考えて終わりではなく、そのときそのときで整理しながら自分の中にため込んでいく。そして、それに関連する新たな情報が得られたら、少しずつ修正して行くということを繰り返す。それによって、親御様が何かしらの判断をする上で、少しでもお役に立てるのであれば幸いである。

2018.10.09Vol.369 評価に追い付き追い越せ

 60代後半の女性から講師採用への応募があった。それに対して私は「年齢を考慮すると、採用になる可能性はほぼゼロに近いです。それでも、とおっしゃっていただけるのであれば、履歴書を送付してください。どちらを選ばれるのか、教えていただけないでしょうか」という趣旨のメールを送った。その返信内容が美しかったので「いただいたメールをブログで使用してよろしいでしょうか?」と尋ねると、

もう全然構いません。
こんな拙い文章でよろしければ。

心のスケールの大きな子供たちに育てて頂きたいです。

頑張って下さい!

と許可をいただけたので、以下で紹介する。

はじめまして。ご丁寧な、何かほっこりとするメールをありがとうございます。
失礼だなんてとんでもないです、本当に図々しくて申し訳ありません。

エントリーさせて頂いたのは、
国語の読解問題や作文を教える講師を募集とあったからなんです。
このような募集の文言を見たことがありませんでした。

まさに、子供の頃の私の得意分野! そして危惧していたこと。

孫たちを見ていると、想像力が無い無い、作文も日記も数行で
終わってしまいます。
文章にすることが苦痛なのかいつも半泣きです笑。

今の子供たちの中には、ゲームにテレビやスマホの生活で
想像することが苦手の子が多いようですね。

文を作ることは、まず想像することから始まりますし、
読解も深く掘り下げるには想像力が必要です。
その後に心に沸き上がった感情を文章にするわけですが、
この想像するというトレーニングは人と人との関わりで最も大切な、
優しさや思いやりという感性を育むのではと思います。

心豊かな素敵な講師の方が見つかりますように願っております。

ご連絡、ありがとうございました。

 我々は、不採用になった方へメールを送る場合、必ずその理由を添えるようにしている。社会人経験のある方であれば、たとえアルバイトへの応募であったとしても「我々の行っていることへの理解が十分でなかったため」、学生の方であれば「履歴書の内容が十分でなかったため」などとなったりする。特に学生の場合は「次に生かしていただければ」という言葉を添えることが多いかもしれない。初めからそのようにしていたわけではない。当初は、いわゆるテンプレートがあって「●●様」の名前を入れ替えているだけのものであった。確か、2, 3年前に「お祈りメール」に関する記事を読んで、「自分たちも同じことをしている」とハッとして、それ以来、やり方を変えた。不採用通知の最後の一文に「今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます。」を持ってくる企業があまりにも多いため、「お祈りメール」という名前がついた。そして、就職活動中の学生はそれを受け取るたびに傷つく、というようなことが書かれてあった。大企業のように大量の応募があるのであれば理解できるかが、我々の規模でそれをすべきではないな、と。
 常日頃から「意味がないことはしない」と考えているし、そのようなことを口にする。なぜか。意味がないからである。意味のあるなしをビジネス上のお金に換算することはない。たとえば、不採用になった方と今後関わりあう可能性はほとんどないわけだから、そこにエネルギーを費やすことは無駄だ、とは考えない。この時代、どこでどんな批判をされるか分からないから、とりあえず丁寧に対応しておこう、というのとも違う。先のメールにあった「この想像するというトレーニングは人と人との関わりで最も大切な、優しさや思いやりという感性を育むのではと思います。」という一文との関係が深い。我々は「優しさや思いやりを育てるぞ」と意気込んでいるわけではない。言葉が豊かになれば自ずとそうなるはずだし、いい仕事するためにはそれらは欠かせない。将来、社会でその子らしく活躍して欲しい、というのが、我々の教育の根底にある。教えている我々に、その子たちを思う気持ちがなければ、どうやってそういう人に育てていけるのか。授業の時だけ、そういう振る舞いをしようとしても、子供たちには響かない。いつもそれができているわけではないが、心を込めて不採用の通知をすることは、子供たちに言葉を届ける上で意味のあることなのだ。
 2年ほど前に、40代前半の男性から応募があった。人間的にも非常に優秀であったのだが、正社員希望であったため、残念ながら不採用にせざるを得なかった。そのとき、そこまでコンスタントに入っていただけるだけのコマを用意できなかったからだ。正直に不採用になった理由を告げた。その後その方から、丁寧な字で書かれた3枚ほどのお手紙をいただいた。そこには「あのメール(不採用通知のメール)をいただいて、自分が選んだところは間違いではなかった、ということを改めて感じた」というようなことが書かれてあった。今でも、その手紙は大事にとってある。そして、この話には続きがある。半年ほど前に、生徒が増えて来たこともあり、「誠に勝手ではありますが、志高塾で働いていただけないでしょうか」という内容のメールを送った。「現在、正社員として働いていて、充実した日々を送っている」という返信をいただいた。確か、その方はしばらく正社員で働いていない時期があったはずである。しばらく、がどれぐらいの期間であったかは忘れてしまったが、40代のそのような方が再び正社員として雇われることはそれほど容易なことではない。しかも「とりあえず正社員として」ではなく、仕事内容にも満足されているのだ。もちろん、残念ではあったが、そういう方に興味を持っていただけことに喜びを感じた。
 私が自分に都合のいいことを並べ立てているだけで、もし、過去に不採用になった方がこの文章を読めば「良いように書きすぎ」となるかもしれないし、「不採用になった上に、勝手に理由まで告げられて本当にムカつく」となっていたかもしれない。
 上で挙げた2人の方からの志高塾への評価は身の丈を上回っている。その過大な評価を厚かましくもそのまま受け取り、それをエネルギーに変換して我々は成長していく。
 「一期一会」というのは、会ったその時にではなく、その後にまでその温かみが生き続ける出会いに対して用いる言葉なのかもしれない。

2018.10.02Vol.368 あれはあれでいいのか

 自民党総裁選で石破茂が負けた。善戦したかどうかがニュースになった。ダブルスコアで負けた当の本人が「善戦をした」と言い張っている。国会議員票が50票前後だろうと予想されていたのに、73票となったことがその根拠なのであろう。だが、国会議員票は402票あるのだ。得票率は2割弱である。50票しか取れない、と思われていたこと自体が問題なのではないだろうか。そんなことより、私が気になったのは、実質日本の行政のトップを決める選挙で、石破茂が掲げたのは「正直、公正」である。私は「必要悪」と言う言葉は好きではない。しかし、日本のトップを担うかもしれない人が「正直、公正」を売りにしているようでは困る。それで、どうやってトランプ、習近平とやり合うのか。プーチンは自分が優位に立つために、遅刻を繰り返す。大の犬嫌いのメルケルとの会談の場に大きな黒い犬を連れてくる。たまたまそこにいたから、という理由で。「手練手管」、「権謀術数」、「海千山千」。政治家と結びつく四字熟語である。自分にはそんな芸当はできない。どう考えても私には政治家は無理である。「日本創生戦略 石破ビジョン」なるものを発表したが、そこに実効性のある具体策はない。もし、きれいごとを並べただけの「能力開発戦略 志高塾ビジョン」を掲げたら、誰か信用してくれるだろうか。
 私が知る限り、小泉進次郎にこれまでにない逆風が吹いている。総裁選でどちらの陣営にもいい顔をしたと批判されているのだ。しかし、私が気になったのはそこではない。石破茂を指示する理由を述べたときのコメントである。「日本のこれからの発展は人と同じではだめ。人と違うことを強みに変えられることが大事。自民党も違う意見を押さえ付けるのではなく、違う声を強みに変えていくかなければならない。そういう思いから、私なりに判断した」これはマスメディアが切り取っただけのものであって、もっと具体的な理由を挙げていたのかもしれないが、それはおいておく。人と違うから価値があるのではない。価値あるものを追い求めたら人と違ってくる、というのが正しい順番ではないだろうか。国語と言えば、読解問題を解かせたり、漢字や語句を覚えさせたりする。私は変わったことがしたくて作文を中心に据えているのではない。それが大切だと考えるからそのようにしているのだ。将来にも、受験にも。そう言えば、1週間ほど前に、豊中校の方に問い合わせの電話が掛かってきた。大学受験で小論文試験があるから、その対策をして欲しいとのことであった。どのように進めていくのかと尋ねられた。看護系を目指すとのこと。過去問などを解いて専門的なことについて「こういう風に書けば点数がもらえる」というような練習をするのではなく、もっと様々なことについて自分の意見を素直に表現できるようにしてから、移行した方がより良いものが書けるようになる、というようなことを伝えたが、5分ほどやり取りをして、最終的に返ってきたのは「受験対策をしてもらえないとうことですね?」という言葉。そのお母様の中では、受験対策というのは、過去問に取り組んでパターンを覚え込む、というものだったのだ。過去問をさせて、解説をして、それを反復させてできるようになるのであれば、そんな楽なことはない。結果を出せなかったときに、「10年分を3回繰り返したんですけど。申し訳ございません」と謝罪するのだろうか。
 企業に加えて、最近はスポーツ界での不祥事が相次いでいる。すると、リスクマネジメントの専門家がテレビに出てきて、「お辞儀の仕方」、「言葉の選び方」、「服装の選び方」などについて、「これは好感が持てますね」、「これでは反省しているように見えないですね」などと評価する。謝るというのは方法なのであろうか。どのように見えるかが大事なのであろうか。受験のために授業をしているわけではないが、結果を出せなかったとき、挨拶に来てくれた本人や親御様に対して正直言葉なんて出てこない。だから、私が時々口にすることであるが、「責任は取れない」から「責任を持つ」のだ、というスタンスでいる。
 東京医科大の裏口入学が明るみに出た。それを調べている経緯で、女子や男子でも3浪以上の場合は減点をされていたという事実が判明した。そのような操作をしていた根拠が、卒業後、大学病院で長く働いてもらえないから、というものであった。それが事実であればデータで示して、その方法の正当性を主張すればいい。もちろん、そのデータが改ざんされる恐れもあるのだが。すると、そこで出てくるのは第三者委員会か。そこにも当事者の関係者が混じっていたなんてこともある。ルールを設けることで、問題が起こりづらくすることはできる。しかし、どのようなものにも抜け道はある。結局は、それに関わる人間の良心にかかっている。話を戻す。問題なのは、裏でこそこそやっていたことだから、オープンにすればいいのだ。大学受験と高校、中学受験などとは違うのかもしれないが、私の高校受験のときは合格者数が男子6割、女子4割であったような気がする。半々にしても公平だとは言えない。本当のそれは、単純に点数が高い順に合格者を決めるというものである。10月1日付で東京医科大は初めて女性学長を据えた。どのタイミングでそのような案が出てきたのかは知らない。もしかすると、問題になる前から決まっていたのかもしれない。その後に決まったのであれば、あまりにも安易である。
 この文章を読んで「いろいろ書いてたけど、何が言いたかったの?」と思われるかもしれない。これは、私なりのトレーニングである。世間で起こっていることに対して、「ふーん」で終わらせずに、少しでも違う角度から考えようとしてみる。それによって、意見作文に取り組んでいる生徒に「こっちからも考えてみたら」と別の切り口を提示できるのだ。
 内容はさておき、どうにかして人と違うことを考えようとした、と言う理由で、誰かこの文章を評価してくれないかな。

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