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2018.05.29Vol.351 今がそのとき

 『コボちゃん』に次のような話がある。
コボちゃんが両親とフライドチキン屋に行き注文すると、3人もの店員が満面の笑みで対応してくれた。店を出て、彼らの対応の良さを褒めながら、気分良く公園に向かった。そこのベンチに座って食べようとすると、「愛鳥週間」と書かれた看板が目に入った。彼らが笑顔で出迎えてくれた理由を理解し、気まずさを感じながら鶏肉を食べることになってしまった。
 先週土曜日にHPで告知したのだが、西宮北口校に限り5月31日までにお問い合わせをいただいた分は近日中に体験授業を行わせていただくものの、それ以後のものに関しては8月20日以降にさせていただくことにした。夏期講習がひと段落するまで内部生に最大限のエネルギーを割くためである。内部生のご兄弟、ご紹介は引き続き受け付けているのだが、2か月半でそのような生徒は間違いなく3人もいない。少なくとも夏期講習は相当忙しくなるので、それにきちっと備える必要がある。これまでも6年生だけ、というのはあったが、全体的に停止するのは初めてのことである。
 5月の中頃からどこかで止めないといけない、と考えていた。「でも、今増えているのにその勢いを止めるのもなぁ」、「夏からという方もいるかもしれないから、6月末までは受け入れるかぁ」などと、うじうじと考えていたのだが一大決心をした。大げさすぎるか。その判断に一番影響を与えたのは、ある親御様から振替の希望を3度ほどいただいたのだが、それらすべてお断りしなければならなかったこと。白米が好きだからと言って、弁当箱に入れる量を必要以上に増やせば、ご飯は固くなりおいしくなくなってしまう。程よくふんわりと入っていてこそ、なのだ。質と量を求めるのであれば、容器自体を大きくするしかない。弁当箱は買い替えればその瞬間大きくなるが、我々の場合、そうは行かない。秋からと考えていた採用に力を入れるタイミングを前倒しした。夏期講習が終わる頃には器が少し大きくなっている目途は立ちつつある。話を戻すと、私の感覚的なところでは、2つ振替の候補をいただければそのうちの1つには対応できるような状態でありたい。どれだけ悪くても3つに1つである。それすら無理だというのは、ご飯が詰め込まれすぎている証なのだ。すべて大丈夫ですよ、というのも良くない。弁当箱に隙間がありすぎるからだ。
 冒頭の話。実は、まだ続きがあって、今度行くと、店は打って変わっての大盛況。店員は皆、目の前のお客さんへの対応で精いっぱい。でも、コボちゃん家族を見つけた例の3人が「また来てくれたんですね」とあのとき以上の笑顔で歓迎してくれる。オチがなく何も面白くない話だから、4コマ漫画としては成立しない。でも、そういう塾があれば、それは価値あることだと私は思う。
 今日は、いつもより短いがここらへんで終わり。午後から2件の面接があって少し忙しいから。応募していただいたことに感謝しつつ、でも、我々の最大の役割は親御様の期待に応えること。器を大きくすることが目的ではない。軽くて機能的、見た目も美しい、その弁当箱で食べると何だかいつもよりお米がおいしくなったように感じる。そんな理想を追い求め、温かさと厳しさを持ってお越しいただいた方の見極めをさせていただく。

2018.05.22Vol.350 まあ、大体こんな感じなんですけど

 小2の二男が友達とけんかをして蹴飛ばし、その子が泣いて帰ってきたとのことで、その夜に母親から妻に連絡が来た。翌朝、妻は登校時に息子と一緒に謝りに行った。その際「今回のこと、だんなさんはどのように考えておられるのですか?」と尋ねられたらしい。
 それからさかのぼること10日。GWに私の母も連れて家族旅行をしていた。夜ご飯の前に、小4の長男と二男の殴り合いのけんかが始まりそうになった。そこで私はいくつかのことを伝えた。
「どうせやるなら部屋の真ん中でやりなさい。隅の方でやるとサッシなどにぶつけて頭を切ったりするかもしれないから」
「けんかのときに凶器を使うのは絶対にだめ」
「相手の目を指でついたりするのも大けがをするからだめ」
勝負はすぐについた。二男のストレートが顔面を的確にとらえて、長男は鼻から血を出し、背中を向けたところを二男に後ろから羽交い絞めにされて太ももに膝蹴りを何発もくらわされた。機を見て「もうやめなさい」と止めに入った。その後、長男は我々の前から姿を消した。ご飯ができたので隣の部屋に呼びに行くと、まさに漫画のような光景が。ベッドと壁の隙間で、ベッドを背にして、鼻血のついたTシャツを着たまま体育座りをしながら放心状態のようになっていた。その長男に
「ご飯ができたから来なさい」
「どんなときでも相手に背を向けたらあかん」
「お父さんは子供の頃、力で周りの人を押さえつけていたけど、その力がないならどうやってリーダー(リーダーにはなりたいらしいので)になれるか考えなさい」
「2歳下の弟に負けるのは情けなさすぎる。お兄ちゃんとしての威厳を保つには自分に何ができるかを考えなさい」
 妻と母から、「あれではかわいそすぎる」「不憫だ」というような指摘を受けた。それに対して「あれでいい。あれが実力なんだから。先延ばしにするのではなく、同じなら早くに分かった方がいい」
 話は変わるが、現在、百田尚樹の『逃げる力』を読んでいる。彼は発言をしてよく炎上している。そういうときのコメントはあまり好きではないのだが、小説やこのようなエッセイも面白いから「考え方が偏りすぎてるねんなぁ」と思いながらも手に取ってしまう。その本のまえがきで、次のようなことが述べられていた。

自分にとって大切なものを守るために、人生にはしばしば「戦うか」、あるいは「逃げるか」という選択を迫られるときがあります。そのとき、戦っても勝ち目がない、または戦っても状況は変わらない、あるいは戦っても得るものがない、と判断したら、さっさと逃げるべきです。これはまったく恥ずかしいことでも、いけないことでもありません。

 子供のけんかに親が入ると、表面的には解決はしても子供たちは心から納得しない。また、やられる側から考えると、どういうときに戦って、どういうときに逃げるのかという経験を積まないまま大きくなってしまうことになる。我が子の兄弟げんかも今は鼻血で済むが、けんかのやり方を知らないまま中学生になってから同じことをすると、鼻の骨を折るなどの怪我を負うかもしれない。もちろん、手をすぐに出す二男にも注意はした。
「今回の件で、お兄ちゃんに偉そうにしたら怒るよ」
「自分より小さい三男に暴力を振るったら許さないからな」
と。
 そう言えば、長男が2年生ぐらいの頃、公園で中学生ぐらいの男の子たちからBB弾の鉄砲で撃たれて泣きながら帰ってきたことがあった。そのことを後から聞いた。目に入ったら危ないので決して許せないことではあるが、だからと言って、その公園に行って犯人を捜そうとは思わない。その経験を生かして、その子たちがいればそこに近づかなければいいし、仮にその子たちでなくても似たような雰囲気の子がいれば察知してその場を離れればいいだけのこと。
 誤解されては困るが、何もけんかを奨励しているわけではない。闘牛のように、けんかを故意にさせようとしたわけではなく、始まったからルールの説明をしただけのこと。こういうことに限らず、実体験が乏しいまま大きくなったらどうなるんだろうか、と心配になる。
 妻が「うちの主人の考え方は、まあ、大体こんな感じなんですけど」とここで書いたことを説明したら、大変なことになるんだろうな。

2018.05.15Vol.349 Which is better?

 先日、あるご両親とお子様が豊中校に飛び入りで見学に来られたとの報告を受けた。「教えているのは、社員か学生か?」と尋ねられたとのこと。「学生が多い」というように答えたら、あまり納得されなかったらしい。その後連絡がないので、そういうことなのだろう。ちなみに、私のポリシーとして、名乗られない場合に名前を聞くことはないし、電話で問い合わせを受けたときも、電話番号は通知されるがそれを控えておいて「その後どうでしょう?」とこちらからかけることもない。
 鉄力会という中高一貫の難関校に通う子供たちが通う塾がある。そこに通塾している生徒に立ち話程度で聞いたことなので詳しいことを分かっているわけではないが、講師の学生比率は高いはずである。「高い」という抽象的な表現で申し訳ないのだが、私のイメージは「ほとんど学生」といったところである。これに対して反論をする人がいるかもしれない。「学生と言っても、あそこは東大医学部や京大医学部の学生がほとんどですから」と。もちろん、これは的外れである。「学生か否か」という話なので、東大の医学部であろうが学生は学生である。私は中高の6年間、週2回、1回2時間半、数学だけを個人の塾で習っていた。塾と言っても、名前などなかった。1人の学生が、家庭教師の延長の用な形で、同時に自宅で数名を教えていただけなのだ。私が通い始めたときはその先生は大学生で、その後、修士、博士課程に進んだおかげで私はずっと習うことができた。私が真面目に勉強をしていなかったせいで一年浪人をしたが、ちゃんとやっていれば間違いなく現役で同じ大学同じ学部に合格できたはずである。私にとって最高の先生であった。
 志高塾は、開校当初、社員の割合が高かった。大学生の頃、今でもテレビCMをやっている個別塾にアルバイトの体験に行ったとき、いい加減な大学生2人が教えているのを見たことなどと関係している。当然1日で辞めた。このことは以前にも何度か書いているはずである。そういう経験があって「いい加減な学生で回す」ということはしてはならないというのが自分の中にあった。何か新しいことをするとき「やりながらうまく対応しよう」などとは考えない。最初はがちがちでやって、その後少しずつ緩めていくという感じである。今は、学生が増えている。毎月「月間報告」という名の報告を親御様にしている。各生徒に1人の責任者を付けて作成するのだが、先月の西宮北口校の構成比は私も含め社員が4割(生徒の4割を担当したということ)、社会人経験のある者が2割、学生が4割となっている。
 社員か学生のどちらがいいというのはない。いいかげんな社会人もたくさんいるし、優秀な学生もいる。私がやるべきは、採用にお金をかけ、子供たちにとって魅力的な人を雇い、志高塾の方針をよく理解してもらい、それを踏まえて心地よく仕事をしてもらうことである。心地よくというのは、やりがいを感じながら、ということである。この前面接に来た大学生は、先輩から「大手予備校のチューターであれば、座ってるだけでほとんど質問されずにお金もらえて楽やで」と教えられたらしいのだが「成長できなければ意味がない」と、志高塾を選んだ動機を語ってくれた。
 話は変わるが、体験授業では私が親御様に説明をさせていただき、他の講師が教える。その講師は体験授業専用ではない。何が言いたいかというと、一人でも多く入塾してもらうために授業が上手な特別な講師をあてているわけではないということである。3月に豊中校で1日4件も体験が入っているときがあった。そのときにすべての添削をしたのは1人の大学1回生である。ありがたいことに4人とも入っていただけた。学生がそれなりにいるのだから学生の力量を見ていただく。満足していただけなければ、それは仕方がない。それが志高塾の教育の質なのだから。でも、学生だから、学生が多いからという理由で判断されるのは違う。
 先日体験に来られたお母様から「期待してもいいですか?」と聞かれ、「もちろん期待してください」と即答した。このブログの内容に絡めるのであれば「社員、学生の誰が教えるかは分かりませんが、質の高い授業を行いますので思い切り期待してください」となる。

2018.05.07Vol.348 「お客様目線」と言うけれど

 お客様目線。何の前触れもなく私のもとにやってきた。そして考えた。いや、まるで「考えた」というプロセスが抜け落ちたかのように「『お客様目線』っておかしいよな」と結論づけた。少し時間をおいても、瞬時に出した、出た答えに対する確からしさは変わることはなく、むしろ確信の度合いは深まっていった。「こんな書き方もできるんですよ」と自信満々に披露して、逆に能力の限界を露呈しただけに終わったかもしれない。何はともあれ、ここからはいつも通りの文体で。
 このブログの中などで「お客様」という言葉を使ったことはあったかもしれないが、好きではない。「お客様は神様」というように、とても高いところに位置付けているようで、そこに心と心の通じ合いはなく、形式的な感じがしてならない。真心を込めて口にしている人も少なくないのだろうが、そうでない人が多すぎるせいで私はそう感じるようになった、きっと。私は「親御様」を用いる。それは開校当初から変わらない。「何の実績もない志高塾を選んでいただいてありがとうございます」という気持ちにぴったりのものがそれだったのだろう。10年と少し経た今も「志高塾を選んでいただいてありがとうございます」は新鮮なまま。その間「何の実績もない」から「少し経験を積んだ」に、枕詞はわずかに格上げされた。
 「お客様目線」って何なのだろう。よく分からないから、代わりに「子供目線」を例にとる。「子供目線で語りかける」というのは、大人が、上からではなくしゃがんで子供と目線を合わせて優しく諭すようなイメージである。「~目線」と聞いてすぐに思いつくのはこの2つなのだが、どちらも表面的で、無責任な感じがする。合わせればいいというものでもないだろうに。
 先日、入塾して間もない3年生のお子様を迎えに来られた親御様に「純粋でいいですね」と話した。その子は私立の学校に通っていて、私が想像するその学校の平均的な子供たちと比べると、勉強することに慣れていない印象を受けた。それが私には魅力的に映った。親御様が、周りの親に流されずに育ててきた結果なのだ。もちろん、勉強させることが悪いわけではない。ただ、無理にやらせたせいでその年齢で既に考えることが嫌いになっている子も少なくない。その子は私の質問にうまく答えられなくても、にこにこしながらあきらめることなく一生懸命に考える。ちなみに、上の私の言葉に対して親御様に「先生、本当に褒めています?」と聞き返された。そういうことを他のところで評価されてこなかったから、私の言葉をすぐに受け入れていただけなかったのだ。そう言えば、vol.344で登場した彼女が最後に私に会った時に次のようなことを漏らしていた。「体験授業で、先生が私のことを褒めてたら志高塾には入らなかった」と。他の塾では、洛南に通っているというだけで評価されていたらしい。私は、体験授業の際に、環境か何かについて書いた作文を見て「まとまってるけど、どこかで見たことや聞いたことを文章にしただけで、自分の頭で考えてない。これは作文ではない」というようなことを伝えた。逆にそれが彼女には心地よかったのだ。
 私は、褒めようとすることもなければ、もちろんけなそうとすることもない。見たままを本人なり、親御様に報告する。その際、言葉は選ぶ。それは相手を傷つけないようにするためや喜ばせたりするためではない。適切に伝えるために、である。耳障りのいい言葉を吐くのではなく、心に響く言葉を届けられる人でありたい。

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